第10話 遺伝子を残さないで②
一葉は、美代子が話している間、美代子の顔を見ながら小さく頷いて聞いていた。
「……ふふっ」
美代子が、一葉の顔を見たあと、苦々しい表情で笑った。
「一葉さんは今の私の話を聞いても、自分はできると思っていそうですね」
美代子は、一葉から私に視線をうつした。
「同じ子育てをされたお母様でしたら、分かっていただけると思いますが、障害のない普通の子どもを育てるだけでも、並大抵ではない努力と忍耐が必要ですよね。それなのに、息子と結婚すれば、それプラス、しなくていい苦労をする可能性が高いんです。そうなると分かっていながら、結婚することがどれほど危険か、お分かりいただけますよね」
「分かっております。…一葉にも、この結婚について私の気持ちは伝えたことはあるのですが…、私は娘には必要ない苦労を背負う結婚はして欲しくはありません」
「お母さん!!」
一葉が横から私を咎めるように見たのが分かったが、私は一葉を見ずに美代子の顔を真っ直ぐに見つめた。
美代子は私の決意をすぐに悟ると、ゆっくりと頷き一葉を見つめた。
「一葉さん、子育てを経験されたなら、それがごく真っ当な意見だと思いますよ。基本的に負わなくていい苦労はさせたくない、というのが親の心理だと思います。特に相手が担う苦労なら、なおさら…。ご両親が結婚に反対されているのならば、結婚前に引き返した方が良いかと思いますよ」
「…っ、でもっ…!今はSNSやネット検索でも発達障害について情報はたくさんありますし、実際SNSでは大変だけど楽しいというような発信だったりしますし…!子育て終了して振り返ると、大変だったけれど充実してたとか…あるじゃないですか…!」
「あれを鵜呑みにしているようでは、考えが甘いです。あれはそのときに、一時的に沸き起こった感情でしかないのですよ。SNSにあげられた瞬間の数秒後には、子どもに冷たい言葉や怒号を投げつけているかもしれませんし、自分の現状を嘆いているかもしれませんし、裏側なんて投稿を見ている側には分かりません。それに、子育てを終了したとしても、自分が生きている限り、自分の子どもとの関わりは続きます。大人になった子どもが、どこかで発達による問題を起こしてしまったとしたら?あるいは発達によって周囲と上手くいかず、働けなくなってしまったら?…どんなに子どもが成人していようとも、最終的には親に責務がいくんです。いいですか、発達は脳の問題ですので、完治はありえません。一葉さんはそういう子どもを生めば、一生そのことに囚われて生きるんです。…生まれてから障害が分かったのなら、仕方ありません。でも、事前にそういう人だと分かっているなら、結婚はやめておいた方がいいのではないですか……?……息子はもういい大人ですが、一葉さんは、息子とお付き合いしている間にありませんでしたか…?理不尽に感じた出来事は…」
あったわ。あったわよね、一葉——!?
些細なことでキレた彼!一葉、あなた経験してるじゃない!
私は山車のことを言おうかと一葉を見ると、一葉は目の前のテーブルに視線を落とし、口をギュッと結んでいた。
夫は、一葉の肩に手をおき、心配そうに見つめていた。
「……息子の母である私が言うのもなんですが、息子との結婚は、おすすめしません。一葉さんのお母様も反対なさっているようですし、ここは引き返すべきと思います。まだ顔合わせしか行っていないのですから、バツもつくことはありませんし、手遅れになる前で良かったです」
静かな口調で話す三代子。
すると、一葉はゆっくりと顔を上げて美代子を見た。
「私には…お母様のお話からは…彼が結婚すること、それ自体を反対なさっているように思います…」
一葉がか細い声で話すと、美代子は目を伏せ片方の口角だけあげて微かに笑った。
「そうです。今まで誰にも言ったことはありませんが、私は、息子に一生結婚しないでいて欲しいと、そう思っております。おそらく、息子の発達は夫から遺伝しています。夫は自分の父親から……これは、あくまでも私の推測でしかないのですけれども…ね…。息子が結婚すれば、それがまた子どもに遺伝し、その子どもが結婚をすればそれがまた次の子に……永遠に続いていく。永遠に女性が誰か1人、これほどの苦労をしなければならなくなるんです。それならば、もういっそのこと、息子でストップさせたい………私と同じような苦労を、他の女性にさせたくない……。…親として、最低な考えだとは重々承知しております…。ですが、もう私のような思いを、他の方に…して欲しくないんです……」
◇◇◇◇
私はキッチンでカップを2つ出し、そこへ温かいレモンバーベナティーを入れる。
注いだカップから立ち上るほのかなレモンの香りが、鼻から爽やかに体の中へと入っていく。
「はい、あなた」
リビングのテーブルにつく夫の前に、カチャッと微かな音をたて、レモンバーベナティーが入ったカップを置く。
「あぁ、ありがとう」
夫は優しく微笑むと、ゆっくりとカップを手に取り口に運んだ。
私も自分のカップを持ち、一緒に一口飲むと、温かいレモンバーベナが喉を優しく伝っていき、外の雨で冷えた体が、じわっと中から温まった気がした。
私はカップをソーサーに置くと、自分の正面に座る夫を見つめる。
「…ねぇ…あなた…」
「ん?」
「私はあなたと結婚して、本当に良かったと思うわ…」
「…どうしたんだい、急に」
夫は、優しい目で私を見つめた。
夫は、私の言いたいことをなんとなく察しているのだろうが、話に割り込むでもなく、私が話すのを待っていてくれている。
「…私ね…今日の話を聞いてね…藤本さんが…彼女が、まだ暗闇にいるような…1人で闇でもがいている様な…そんな気がしたの…」
「うん…」
「息子さんのことでずっと苦労なさって、悩まれて…でも、一番の協力者であって欲しい旦那さまには理解も協力も得られず…、1人必死に暗闇を走り抜けてきたんだなって…。私は、恵まれてるわ。こんなに優しい夫がそばにいるんだもの…」
夫が腕を伸ばし、カップの取手を持つ私の手に優しく触れる。
ポタッ、ポタッ、と頰を伝う雫が、カップの下のソーサーに静かに当たり弾けていった。




