あの子と話せた、あの坂の上へ
高校二年の春。
桜の花びらが舞い散るなか、成瀬悠真はいつもより少しだけ早く教室を出た。
「今日は……話せるかな」
そう心の中でつぶやきながら、校舎裏の坂道を登っていく。そこには、毎日同じ時間にベンチに座っている少女がいた。
彼女の名前は椎名七海。
同じクラスで、同じ学年。でも、これまで話したことは一度もない。
ただ、初めて見たときからずっと、目が離せなかった。
七海はいつもその坂の上で一人、文庫本を読んでいる。
春の風が彼女の長い髪を揺らすたびに、悠真の心も揺れた。
「七海さん……!」
小さな声で名前を呼んで、でも届かないのがわかっていて。結局、彼は何も言えないまま、ただ数メートル離れた場所で風景を眺めるフリをする。
でもその日、七海が本から目を上げて、こちらを見た。
「……成瀬くん?」
突然名前を呼ばれて、悠真は心臓が止まりそうになった。
「えっ、あ、はい……」
「いつもここにいるよね。何か……話したいことあるの?」
その瞳はまっすぐで、優しくて、少し寂しげだった。
悠真は、ずっと飲み込んできた言葉を、ようやく口にする。
「君のことが……気になってた。ずっと、前から」
七海は数秒の沈黙のあと、ふっと笑った。
「じゃあ、今度一緒に本読もうか。同じ場所で、同じ時間に」
世界が少しだけ色を変えたような気がした。
それが、ふたりの恋のはじまりだった。