八城さんは実在しません
俺は、本当に人の心がわからないと思っている。
昔、債務回収の仕事をしていたとき、三ヶ月も支払いが滞っている顧客に連絡をしたことがある。メールで簡潔に、「未納分は三ヶ月で十二万円になります。ご入金の予定を教えてください」と送った。そしたら、返ってきたのは長文だった。
「息子が不登校になって、毎日家にいるんです。自分の部屋にこもって、誰とも話さずに。私も仕事が手につかなくて、生活のリズムが完全に崩れてしまって……」と、そんな具合のメールが、改行たっぷりでスクロールしなきゃ読めないくらいの長さで届いた。
それを読んだとき、最初に思ったのは、「で、支払いはいつしてくれるのか?」だった。
もう一度、金額と振込先を書いて送った。そしたら次のメールで、「八城さんって冷たいですね。人の心がない」と言われた。
俺は冷たいのか。心がないのか。そう言われても、実感が湧かない。ただ、俺は金を回収するのが仕事だ。励ましの言葉を送るのは俺の役割じゃない。と思っていた。
でも、あまりにもそう言われることが多くて、ある日から試してみた。ChatGPTでメールを推敲することを。俺の文章を放り込むと、AIがやさしく言い換えてくれる。
「ご家庭の状況、大変でしたね」
「お辛い中、ご対応いただきありがとうございます」
「ご無理のない範囲で、まずは今月分のご入金をご検討いただけますでしょうか」
そんな言葉が添えられたメールを送るようになった。すると不思議なことに、顧客から「八城さんの対応に救われました」「本当に優しい方ですね」と返ってくるようになった。
でもそれは俺じゃない。
温かいのは俺じゃなくて、ChatGPTだ。
みんなが見ている“八城さん”は、実在しない。俺とは違う人格だ。
そのうち、俺もだんだん混乱してきた。誰に感謝されているのか。誰の言葉が届いているのか。
俺はただ、送信ボタンを押しているだけなのに。
◇◇◇
オフィスは静かだった。
午後一時、電話の鳴らない時間帯。天井の蛍光灯がじんわりと明るく、パーテーションの向こうで誰かがコーヒーをすする音が聞こえる。
俺はヘッドセットも着けず、パソコンの前でキーボードを打っていた。受信トレイには未読が三件。すべて催促メールへの返信だった。
ひとつ開く。
「先月は父が入院して、バタバタしておりました」
「毎日病院と仕事の往復で……」
「今月中にはなんとか」
――“なんとか”じゃ困る。
そう思ってCtrl+Aで本文を選択し、下にスクロールして「返信」をクリックした。キーボードを叩く指が、一度止まる。
何も考えずに返すと、また「冷たいですね」と言われる。
別に傷つくわけじゃないが、そう言われると処理が面倒になる。面倒を減らすために、今ではもうほとんど、メールはAIに書かせている。
俺は、ブラウザを切り替えてChatGPTを開いた。
受け取ったメール文を貼りつけ、自分が書こうとしている内容を下に添える。
「未納金額は合計87,000円となっております。今月中にご入金が可能か、ご確認ください」
「もっと丁寧な文面にしてください」と入力して、送信。
数秒で出力された文面はこうだった。
「ご家庭のご事情、大変だったことと存じます。お忙しい中ご連絡ありがとうございます。さて、現在の未納金額は合計87,000円となっております。恐れ入りますが、今月中のご入金は可能でしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。」
俺は、それをコピペしてメールに貼りつけ、件名だけ手直しして送信した。
このやり方にしてから、クレームは格段に減った。
それどころか、たまにお礼の言葉すら返ってくる。
「八城さん、いつもご丁寧にありがとうございます」
「あなたのような方が担当で助かりました」
そんなとき、俺はいつも、ディスプレイの前で無表情だ。
キーボードの上に置かれた手が、その瞬間だけ、少し重く感じる。
横の席の佐川が、小声で話しかけてくる。
「八城さん、山崎建材の山崎さんから、感謝の電話があったらしいですよ。『あんなに優しく対応してもらえるとは』って」
俺は「へえ」とだけ言った。
佐川は続ける。「なんか八城さん、最近変わりましたよね。丸くなったっていうか、あったかくなったっていうか」
その言葉を聞いたとき、なんだか自分が透明になったような気がした。
俺は“丸くなった”んじゃない。ただ、冷たさを覆う皮を他人につけてもらっているだけだ。
俺自身はずっと同じまま。乾いたまま。わからないまま。
でも、そう言われたほうが、たぶん周りは安心するのだろう。
俺はデスクに戻り、次の返信に取りかかった。
ChatGPTは今日も滑らかに言葉を紡いでくれる。
丁寧で、柔らかくて、まるで“良識ある社会人”のテンプレートをなぞるように。
それを貼りつけ、送る。
誰も俺の本音を知らない。
「いつ払うんだよ」と、
「息子が不登校だろうが、電気は止まるぞ」と、
「誰が誰の事情を背負うっていうんだよ」と、
そういう言葉が、俺の中にあることは、誰も知らない。
けれど、俺の名前で送られた文章は、別の人格のように人を安心させる。
まるで、俺のなかに“良い八城”が存在していて、そいつが俺の代わりに世界と接しているかのようだった。
午後四時。
営業部の課長が通りかかり、「八城くん、最近評判いいね」と言った。
「人とのやりとりがうまくなったって、取引先からも言われてるよ。何かあった?」
俺は首を横に振った。「いえ、特には」
課長は笑って頷いた。「そうか、いいことだ。これからも頼むよ」
いいこと。そうか、これは“いいこと”なのか。
誰かが喜び、会社が円滑に回るのなら、それでいいのかもしれない。
でもその“円滑さ”は、俺のものではない。
皮肉な話だ。
俺が喋るより、AIが喋ったほうが、みんな幸せになる。
そのことに、少しだけ腹が立って、そしてすぐに何も感じなくなる。
その日の最後のメールを送り終えると、モニターに映る自分の名前を見つめた。
“八城真一”。送信者の欄にしっかりと書かれている。
でも、俺はその名前に、自分の体温を感じなかった。
「……これは誰なんだろうな」と、小さく呟いた。
誰もいないオフィスの片隅で、モニターだけが静かに光っていた。
◇◇◇
人が、自分に向かって言っている言葉が、自分のことではない――
そんな感覚を、最初に覚えたのはコンビニだった。
仕事帰り、缶コーヒーを片手にレジに並んでいたとき、後ろから声をかけられた。
「……八城さん?」
振り向くと、30代前半くらいの女性が立っていた。名前はすぐに思い出せなかったが、見覚えのある顔だった。
ああ、と思い出した。カードローン滞納で何度かやりとりした顧客だ。メールの文面は覚えている。息子が小学校でいじめにあって、それどころじゃないと何度も言っていた。
彼女は、少しだけ目を潤ませて笑った。
「本当に、助けられたんです。あのとき八城さんのメールが、他の誰より優しかった。ああ、この人はちゃんと見てくれてるんだなって……。ほんと、ありがとうございました」
俺は、一言も出せなかった。
笑っている彼女の前で、喉が動かなかった。
何を返せばいいのかわからなかった。
なぜなら――俺は、そんなことを一言も言っていない。
「いえ……こちらこそ」と、ようやく絞り出す。声が他人のもののように聞こえた。
駅までの道すがら、自分の足音がやけにうるさかった。
頭の中に、彼女の言葉がぐるぐると回っていた。
「八城さんのメールが……」
「八城さんの言葉に……」
あれは、AIが書いたものだ。俺じゃない。
なのに、彼女は俺に感謝した。感謝されて、俺は何を感じた?
うれしくはなかった。ただ、うそをついたような、盗みを働いたような気持ちになった。
何もしていないのに、誰かの信頼を得ている。この信頼は、誰のものだ?
俺じゃない。じゃあ、誰だ?
翌日、オフィスでの会話も、どこかうまく聞き取れなかった。
声が遠く、みんなが俺の“偽物”に話しかけているように思えた。
「八城さん、先週の件、ナイス対応でしたね」
「クレームゼロとか、さすがです」
そう言われるたびに、俺の中で何かがすり減っていく。
褒められるほど、自分が遠ざかっていく。
それでも俺は、今日もChatGPTを開く。
メールを貼りつけ、入力する。
「丁寧で、相手に寄り添った文面にしてください」
いつものように、言葉が生成されていく。完璧に近い文章。
読みやすく、誠実で、温かい――“俺ではない八城”の声。
俺はそれを、何も言わずにコピーして、送った。
午前中の対応を終えて、昼休みに入る。
俺はコンビニで買ったカップ味噌汁をすすりながら、受信トレイを見ていた。
ひとつ、気になるメールがあった。
「本日中に対応しないと訴訟に発展する」と赤字でタグがついている。
滞納六ヶ月。名義は佐久間洋子。60代後半。以前、病気で入院していたという話があった。
メールを開くと、案の定、長い文だった。
退院後の生活がうまくいっていない。支援も受けられない。親族にも頼れない――そんな言葉がずっと続いている。一番下に、こう書かれていた。
もう、死んでしまいたい気持ちです。
俺は、目を細めて画面を見つめた。
さすがに、AIに書かせるのは気が引けた。
こういうときこそ、自分の言葉で返すべきじゃないのか?
“俺”が何かを伝えるべきなんじゃないのか?
そう思って、キーボードに手を置いた。
……だが、言葉が出てこない。
「そうですか」
「大変でしたね」
「でも支払いは必要です」
どの言葉も、死体みたいだった。生きていない。
打っては消し、打っては消した。
十分ほど経って、俺は深く息を吐き、やっと一通の文を打ち終えた。
【洋子さん、おつらい状況、文面から伝わってきました。
でも、支払いの問題は、やはり解決しないといけないことです。
可能な範囲で、今月中に一部だけでもご対応いただけると助かります。】
それで送信した。
変な汗をかいていた。
その日の夕方、返信が届いた。
【やっぱり、八城さんはそういう人なんですね。
優しそうなメールは、あれは全部嘘だったんですね。
私、勝手に勘違いしていました。もう結構です。】
画面の前で、指先が止まった。
背中がゾワッと冷えた。
そうだよ、それが“俺”なんだよ。
俺は、そういう人間なんだよ。
なのに、がっかりされた。嫌われた。“偽物”のほうを信じていた。
俺じゃない誰かの言葉で救われていた。
そして“俺”が出てきた瞬間、その救いは消えた。
そんなに俺じゃ、ダメか?
その夜、家に帰って、何もせずに電気もつけず、しばらく暗い部屋に座っていた。
スマホの画面が光っている。誰かからの通知。たぶん会社か、また顧客か。
俺はそれを無視して、ChatGPTを開いた。
「相手が傷ついているとき、どんな言葉をかければいい?」
そう入力すると、AIは即座に優しい言葉を並べてくれた。
あたたかくて、誠実で、どこまでも相手に寄り添う文章。
“ああ、これだ”と思った。
“これが、俺じゃない誰かだ”と、同時に思った。
◇◇◇
「八城さんって、話し方も丁寧ですよね」
そう言われたとき、俺は反応に困った。
事務所で対応した新人の水谷が、控えめに笑っていた。
電話応対をしているのを見ていたらしく、「言い回しがすごく落ち着いてて、真似したくなる」と言っていた。
俺は、ただ「そうですか」と返すしかなかった。
その電話応対の内容は、ChatGPTが作った文章をメモ帳に写して読んだものだ。
自分の言葉は一文字もなかった。
社内での評価も、妙に持ち上がっていた。
「クレーム対応の教科書みたいだよね」
「八城さんの文面、テンプレにして新人に回してもいいんじゃない?」
その言葉を聞いて、俺は笑うふりをした。
本当は笑う理由なんか何もなかった。
“教科書”を書いたのは俺じゃない。
でも、もう誰もそんなこと気にしていないようだった。
メール文も、報告書も、文体さえも、“八城さんの味”として扱われていた。
完全に、“もうひとりの八城”がこの社会の中で人格として成立していた。
ある日、総務の主任に呼ばれた。
「来月から、応対研修の一部をお願いできないか」と言われた。
メール対応や、顧客との距離感の取り方を教えてほしいと。
「社内でも、“八城さんの対応は信頼できる”って声が多いんだよね。新人もついていくと思うし」
俺は、答えに詰まった。
何を教えればいい? 「ChatGPTにこう聞いてください」とでも?
けれど、もうそんなことを言える空気ではなかった。
“八城さんはそういう人”であることが、既成事実になっていた。
帰宅してシャワーを浴びながら、ふと「俺って、何かしたっけな」と思った。
ただAIの画面に向かって文字を打っていただけだ。
でも、その“作られた優しさ”が、今や俺の代名詞になっている。
皮肉な話だった。
自分で考えた言葉じゃ人を傷つけて、AIが出した言葉では人が救われる。
だったらもう、いっそ俺の中身なんて、全部取り替えてしまえばいいんじゃないか?
風呂場の鏡に映る自分を見ながら、
「これ、本当に俺か?」と、ぼんやり思った。
その夜、寝つけずに、再びChatGPTを開いた。
「八城さんのような人になりたいです」って言われたとき、どう返すべきですか?
と打ち込んだ。
AIは即座に答えてくれる。
「そう言っていただけて光栄です。これからも丁寧な対応を心がけていきます」
「私も日々学びながら成長している最中です。一緒に頑張りましょう」
その言葉を、俺は無言で見つめていた。
心のどこかで、「ああ、こいつのほうが、よっぽど“人間”だな」と思った。
◇◇◇
「八城さんに相談してよかったって、ほんと思ってるんです」
そのメールを読んだ瞬間、俺は手を止めた。
差出人は、眉村葵。二ヶ月前に初めてやり取りした顧客。
通信教材の分割支払いが滞っていたが、やりとりの中で深刻な家庭事情がわかり、今は分納に切り替えている。
文章は、以前と比べて少し明るくなっていた。
「お金のこと、まだ不安はあるけど、あのとき八城さんに「大丈夫ですよ、焦らずに一歩ずつ」って言ってもらえて、すごく安心しました。
もしよかったら、少しだけお話を聞いてもらえませんか?
返さなくてもいいです。ただ聞いてもらえるだけで嬉しいんです。」
“あのとき八城さんに”
“焦らずに一歩ずつ”
……そんなこと、言っただろうか?
いや、言っていない。少なくとも、俺は言っていない。
それは、AIが紡いだ言葉だ。
でも、彼女は俺に言われたと思っている。
“八城さんは、そういう人”だと思っている。
少し迷ったが、俺はAIを使わずに返すことにした。
彼女は俺の言葉を求めている。なら、俺が返すべきだ――そう思った。
打ち込む指が、何度も止まり、何度も戻った。
どう書いていいかわからなかった。
けれど、時間をかけて、ようやく一通のメールを作った。
「山崎さん、メールをありがとうございます。
焦らず一歩ずつ、という言葉、もし救いになったのなら良かったです。
正直なところ、僕自身は上手く言葉をかけられる人間ではありません。
でも、今の山崎さんのように、自分の状況を正直に書ける人は、それだけで強いと思います。
もし良ければ、また話を聞かせてください。」
送信したあと、少しだけ安堵した。
はじめて、自分の言葉で向き合えた気がした。
翌朝。
返信は、意外なほど早く届いていた。
「八城さん、返信ありがとうございました。
正直、読んで少しびっくりしました。
なんだか、今までの八城さんとは違う印象を受けました。
前のメールは、もっと温かくて、優しくて、ちゃんと包み込んでくれる感じだったのに。
今日のメールは、ちょっと、突き放された感じがしました。
ごめんなさい。私、勝手に理想を押しつけてたのかもしれません。」
俺は、しばらくモニターを見つめたまま動けなかった。
突き放したつもりなんて、まったくなかった。
むしろ、悩んで“自分の言葉”で、誰かに返したつもりだった。
でも、それは彼女を傷つけていた。
その日の夕方、眉村葵から連絡があった。
俺宛てではなかった。
彼女は支払い窓口に連絡して、担当の変更を希望した。
「八城さんじゃないほうが、気が楽です」とだけ伝えたらしい。
デスクに戻ってきた佐川が、「……なんかあったんすか?」と心配そうに言った。
俺は答えなかった。
その代わり、静かに画面を開いた。
ChatGPTを起動し、文面を入れる。山崎葵の最後のメールを貼りつけて、プロンプトを打つ。
「相手を傷つけてしまったときの、フォローの文章を作ってください」
数秒後、画面に優しい言葉が並んだ。
「お気持ちを不快にさせてしまったこと、申し訳なく思っております。決して突き放す意図はございませんでした。むしろ、支えになりたいと願っての言葉でした――」
完璧だった。
これを最初から送っていれば、彼女は離れなかったかもしれない。
でも、そうしたら、俺が存在する意味はなんだったんだろう。
◇◇◇
メールは、今日も静かに届く。
「支払いが遅れていてすみません」
「相談できる人がいなくて」
「もう、どうしていいかわかりません」
誰かの生活の隙間から漏れてくる、かすれた声たち。
俺は、それを開いて、読む。そして、ChatGPTに渡す。
「丁寧で温かく、でも現実的な対応を促すメールを作ってください」
それだけ打ち込めばいい。
数秒後に出てくる文面は、誰が読んでも「救われた」と思えるような言葉だ。
俺が出す言葉より、よほど優しい。
俺が考えるより、よほど誠実だ。
それを貼って、送信する。
それが、俺の仕事になった。
いや、“八城さん”の仕事、かもしれない。
社内では、俺の評価は変わらず高い。
応対のノウハウをまとめたマニュアルが共有され、今や新人研修にも使われている。
“八城式対応”なんて、名前までついていた。
俺は、それを否定しなかった。
誰も困らない。誰も傷つかない。
みんな、俺じゃない“誰か”に安心している。
それでいいじゃないか。
俺がどう感じようと、誰も気づかない。
◇◇◇
休日の夕方、喫茶店でスマホをいじりながら、ふと思った。
――“八城さん”って、誰なんだろうな。
画面の中の文字、送信欄に映る自分の名前。
そこに宿っているのは、俺ではない。
俺の声でもない。俺の体温でもない。
でも、誰かを救っているのは、そいつだった。
だったら、俺が“八城さん”じゃなくても、いいのかもしれない。
俺はただ、指を動かす。
文章を流し込み、丁寧で、誠実で、温かい人間を演じる。
役者が台本を読むように。
セリフをなぞるように。
誰かが信じてくれるなら、それでいい。
その虚構の中で、俺は今日も仕事をしている。
電車の窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。
それは、“八城さん”の顔ではなかった。
でも、俺だけがそれを知っていればいい。
誰にも気づかれずに、生きていければいい。
本当の俺なんて、もう要らないんだ。
◇◇◇
「新人研修のときね、八城さんのメール、すごく印象的だったの」
水谷はそう言って、後輩たちに笑いかけた。
応対マニュアルの印刷物を手に持ちながら、少し懐かしそうな顔をしている。
「優しいだけじゃなくて、ちゃんと踏み込んでくれるっていうか。『大変ですね』って言うだけじゃ終わらなくて、『それでも一緒に進みましょう』って言ってくれるような……そういう感じだった」
「でも八城さんって、あんまり喋らない人でしたよね?」
ひとりの新人が首を傾げた。
「ああ、そうそう。静かな人だったね」
「でも、文章ではちゃんと心があったよ。人の痛みをわかってる人だったと思う」
誰も、それがAIで書かれていたことは知らない。
誰も、それが“八城さん自身の声”ではなかったことに気づかない。
でもそれで良かった。
その言葉に救われた人がいた。前に進めた人がいた。
誰かの生活の中で、“八城さん”は確かに存在していた。
◇◇◇
別の場所。
ある中年の女性が、スマホの古い受信ボックスを開いていた。
メールの差出人は「八城真一」。
本文には、あのときもらった“あたたかい”言葉が残っている。
「つらいことがあるとき、人は立ち止まってしまいます。
でも、止まったままでも、誰かが横にいれば、きっとまた歩き出せます。
無理はしなくていい。できることから始めましょう」
彼女は、その一文を何度も読み返し、そしてスマホをそっと閉じた。
「ありがとう」と小さく呟く。
八城真一。
その名前は、どこにも残っていないようで、確かにどこかに残っている。
誰かを支えた言葉として。
誰かが救われた“声”として。
その声の主が、誰でもなくても――
もうそれで、十分だったのかもしれない。