2.変わったのは『ルール』じゃない
控室から麻岐部のところへ戻ろうと桑葉が観客席を進んでいた途中、試合場で主審と話していた大会役員が席に戻るのが見えた。
ようやく試合が始まるらしい。
「桑葉さんお疲れ様ー。間に合ったみたいで良かったよ」
「ほんと良かったっすよ」
「しかしなんでこうなったのか。諏藤さん何か言ってた?」
「ああ、それなんすけどね」
観客席からは何をしてるのかは見えても細かいやりとりまでは聞こえない。
なので、桑葉はさっき諏藤から聞いた内容を麻岐部に話す。
「なるほどね。結局諏藤さん達当事者にも訳が分からないのか」
「でも麻岐部さんは『今日の大会運営何か起きなければいいんだが』って言ってたんすよね?事前に何か情報掴んでたんすか?麻岐部さんの専門は空手じゃなくてキックボクシングっすよね?」
実はこの3人、諏藤は寸止ルール空手、麻岐部はキックボクシング、桑葉はフルコンタクト空手と格闘技のバックボーンはバラバラだったりする。
道場やジムが休みの日曜日に公共体育館で個人練習しているうちに一緒にミット打ちをしたり互いのルールに合わせてマススパーしたりするようになり、技術を教え合ったりした。
まあユルい同好会仲間である。
「それほどはっきりした根拠があって言ったわけじゃないんだけど」
「けどただの予感とかじゃないっすよね?」
「ん〜、それは……あ、試合を見ながら話そうか。多分この後の諏藤さんの試合にも関係する話だし」
「あ、はい」
◇◆◇
「まあ、今から話すことは素人の推測だ。陰謀論者の話す都市伝説程度に聞き流して欲しい」
「はあ」
「そこで、だ。今日諏藤さんが言ってたんだよ『大会本部からきた出場決定通知に気になる部分がある』ってね」
「気になる部分?」
「通知書の一番最後の行に『試合前には改めてルールを確認し、遵守すること』って例年には無い一文が書き足してあったと」
「いつもは書いてないんすか?」
「ああ。いつも簡単なルール表は同封されてくるが、その確認を念押しするような一文は昨年は無かった。でも前にもこんなことはあったそうだ。昔ルール変更直後に変更点を誤解したまま大会を開いた支部があって問題になったらしい。その後、上からの通達があって、全国で通知書に今回のような念を押す一文が加えられた時期があったって話だ」
「今回はプロテクターの装着についてのルール改正があったってことっすね」
「いや、ルールは変わっていない」
「はあ?」
「だから諏藤さんも何で今回そんな一文を加えてきたのか訳が分からなかったのさ」
「ああ、そういうことっすか」
「そもそもプロテクター装着トラブルの件は俺には完全に予想外だった。俺が言った『何か起きなければいいんだが』っていうのはああいうことさ」
そう言って麻岐部は試合場を指差す。
そこでは1回戦の第二試合がおこなわれていたのだが。
「ここまで試合の運行を見てどう思う?」
「グダグダっすね。いつもこんなんじゃないっすよね?」
選手が技を出した後、主審と4人の副審の計5名が旗を上げ、或いは上げずに技が決まったかどうかを判定する。そこまではいつもどおりだ。
しかしその後で主審が副審に何事か注意を与えに行く場面がやたら多い。
特にどの副審とは決まっておらず、その時々で目についた副審の判定に何事か言っているようだ。
主審どころか役員席から出てきた役員が副審に何事か言っている様子もみられた。
第一試合と第二試合の間には審判5人で集まって改めて打ち合わせをしている。
すでにトーナメントが始まっているなかでは異例のことだ。
「主審や役員は何言ってるんすかね?」
「何を言ってるのかは聞こえないけど推測はできる」
「え!?」
「試合を見ていれば、いや、聞いていれば推測は可能だ」
桑葉は言われたとおりに耳に意識を集中して試合を見た。
「……突きを当てるとポイントにならない?」
客席からは上段突きを頭部に装着したメンホーに当てているのか、当てずに寸止しているのかは見分けられない(というか多分審判の位置からでも完全に見分けるのは不可能)
しかしメンホーに突きが当たったときは『カツッ』という独特の渇いた音がする。
そしてその音が鳴ったとき、その突きはポイントになっていない。
逆に音が鳴らなかったとき、つまり突きを当てる寸前で引いた場合にはポイントになっている。
「そうだ。当てると強打反則でポイントにならない。どころか繰り返せば注意が重なって減点されかねない」
「え!?やっぱり?でも今まで逆じゃなかったっすか?当てなきゃポイントにならなかったはずじゃ?」
「そうだったな」
これまで何度か諏藤の応援で寸止めルールの試合も見てきたが、顔面への突きは当てなければポイントにならなかったはずだ。
「じゃあルールが変わったのはこの部分すか?」
「いや、さっきも言ったがルールは変わってない。以前からルールで『強打した場合は反則』と決まっている」
「あれ?」
「変わったのは言うなら『ルールの運用』だ。ルールを文言通り解釈して運用することにしたのさ」