杉乃木廃病院3
……いや、まだだ。考えろ。
ここで俺が死んだりしたら、責任を感じるのはこいつだろ。
「高校生」
「! は、はい」
体を震わせながら彼女が返事をする。
「この病院に、俺たちが今いる304号室が現実では存在しないとしたら、ここはどこだと思う?」
「え、そう、ですね……」
高校生は少し驚いた顔をしてから考え込んだ。頭の中では相変わらずあの言葉が鳴り響く。正直、思考がまとまらない。
「……怪異にとって大事な場所です」
「大事な場所?」
「テリトリーというか、なんというか、とりあえずその怪異にとって重要な場所です。もともと存在しない場所なのに作るっていうことは、その場所がどうしても必要だった。ということなので」
やっぱり彼女は何かを知っている。おそらくこういうことを何度も体験してきたんだろう。俺とは見えてる世界が違う。
「重要な場所……」
仮に、奴がもともとこの病院の看護師だとする。そして目の疾患を持つ患者を受け持っていたとする。……が、この病室が存在しない場所だとすると、このカルテの患者も存在しないことになる。
もっと情報が欲しい。再びカルテに目を落とす。日本語ではない何かで書かれたそのカルテは、相変わらずここが304号室であることと、何かしらの目の疾患であること以外理解ができない。
「高校生、このカルテ、どこまで読める?」
彼女ならもっと何かを読み取れるかもしれない。
「えっと……。まず、患者の名前は――さんですね」
「? ……もう一度言ってもらえるか」
「――、――さんです」
高校生の滑舌の問題でないことははっきり分かった。彼女は確かに誰かの名前を言っている。
なのに、俺にはまるで聞き取れない。
『見えてますか』
……奴が服装通りに看護師だとする。
この304号室が実際にはない場所だとも仮定する。
『見えてない』
感じる異常は脳内に響く『見えてますか』という言葉と目の違和感。
『見えないはず』
患者の名前は高校生には読めて、俺には読めない。
……なんだ。簡単じゃないか。
「……高校生、お前は、帰れるんだよな」
「! ……ごめん、なさい」
「いいんだ。ただの確認だから。俺が今からすることで、お前が帰れなくなったら嫌だからな」
「……え、あなた、いったい何を」
俺はまだ彼女に名前を伝えていないのだ。
残された唯一の可能性がある。一息ついてから、俺は高校生に向かってこう言った。
「俺の名前は桐崎茂だ」
高校生は一瞬、え? という顔をする。
「あの、誰かの名前、っていうのは分かるんです。でも、」
「聞き取れなかったか」
高校生はこくんと頷いた。
俺が聞き取れなかったのはこの病室の患者の名前、彼女が聞き取れなかったのは俺の名前。
この304号室は現実には存在しない可能性が高く、カルテから読み取れる、目の疾患という症状は今の俺と一致している。
震える足を動かし、奴に体を向ける。眼球は白濁し、ほとんど何も見えない状態になっている。平衡感覚が危うい。
「ま、待って!その人は悪くない!連れていくなら私を――」
「なぁ、看護師さん」
『見えてますか』
震える声で言葉を続ける。
「ここの病室、俺のなんだろ」
『見えてますか』
「あのカルテには俺の名前が書いてあったんだよな?」
『見えてないでしょ』
「目の疾患だって書いてある。そういう病気にして、俺を――
ここに取り入れようとした」
『見えていないはず』
言葉を言うのも危うくなるほど、脳内にその言葉が充満する。
見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。見えていない。
見えていないって言え。
誰が言うかよ。
「俺には全部見えてる。目の疾患なんてない。だから、俺はここにいなくていい」
そう言った瞬間、目の前が暗転し、俺の意識は途絶えた。
最後に脳内に響いた言葉は――。
『……退院おめでとうございます』