杉乃木廃病院2
「私は、いつも帰れるんです。でも、ごめんなさい。こんなところに人がいるなんて思わなくて。今日は何かが来る気がしたから、できるだけ人がいないところに行こうと思って」
彼女は震える声で話を続ける。いつもってなんだ。帰れるってなんだ。ここがどこだっていうんだよ。
『見えてますか』
うるさい! 思考を遮るな、気が散る。頭の中に響く何かの言葉に苛立ちを覚える。
とにかく、現状をどうにかするのが最優先だ。このような状況になって、ドッキリか何かだと思えるほど、俺の心は強くない。後で恥をかくことになっても、俺はこの何かを本物の化け物だと断定して行動する。
……目の焦点が上手く合わない。今までにないほど自身が動揺しているのがよくわかる。それは高校生の方も同じだった。俯き、顔を上げようとしない。
「だ、大丈夫だ! 高校生、いいか、霊なんてものは存在しないし、俺だって家に帰れる! 廊下で立ち話もなんだから、そこの病室にでも――っ!?」
彼女の方に体を向け、そう声をかけると、思わず声を上げそうになる。窓ガラスに反射して見えていた何かが実体化している。すぐ横にいるが、必死に見えないふりをして話を続ける。
「で、でも……」
「い、いいから! 少し話をしよう! な?」
高校生に話しかけ、横目でその何かを観察する。先ほどは青白い手足と髪の毛ぐらいしか特徴がつかめなかったが、真横で見ると、胴体部分は服を着ているのが分かった。ナース服だ。看護師の霊か何かなのか? だとしてもまるで可愛くない。
全体の大きさは、分からない。ただ、直立すると頭が天井にぶつかるからか、体を丸めている。足は片方がないのに、もう片方でやすやすと立っている。
顔はどうなっている?窓ガラスに反射したのを見たときには、そこだけちょうどぼやけて見えなかった。……しかし、得体のしれない何かの顔を直視する勇気など俺にはない。
下を向き、絶対にそれに目を合わせないようにしながら、俺は病室の中へと入った。彼女も後をついてくる。あいつは――。
『見えてませんか』
相変わらず話し? かけては来るが、どうやら病室の中には入ってこれないらしい。
目を細めてそいつに目をやると、自身の目に違和感を覚えた。あいつの姿を直視できない。今まで意識的に目をそらすようにしていたのだと思っていたが、あいつに目をやると目の焦点がぶれるような、眼球が濁るような感覚だ。
……これ以上あいつを見るのはまずい。そう直感的に思い、俺は病室の中に目をやった。
何か、何かないだろうか。武器とか。いや、攻撃して勝てるようには見えないが……。
「……協力します。こうなったのは私のせいなので」
「あ、あぁ、協力してくれるのはありがたいが……」
ひとまず、廊下には戻りたくない。俺たちは病室の中に何かがないか探ることにした。
◇◇◇
棚、テレビ、ベッド、いろいろな場所を探したが見つかったのは――。
「何か手掛かりがありそうなのはこれだけですね」
そう言うと、女子高生は俺にカルテを渡してきた。
「手掛かり……。手掛かりって、ここから脱出……するためのか?」
「可能性の話ですが……。このカルテ、日本語じゃありませんが読めるでしょう?」
確かに読める。この病室は304号室、病名は読めないが、なぜだか目の疾患、ということは分かる。
患者の名前は……。ぼやけて読み取れない。
「……あの怪異に出会ってから、何か体に異常はありますか」
「それは――」
「口には出さないでください。それが何かのトリガーになることもあるので」
言いかけて速攻口を紡ぐ。何かのトリガー……。怪異に返事をしちゃいけない、見えていることを悟られてはいけない、的なあれだろうか。
今、俺に降りかかっている異常は2つ。1つは怪異を見ると目に違和感を感じること。もう1つは――
『見えてないんですか』
これだ。相変わらず脳内に響いている上に、だんだんと脳を占める割合が多くなるような、まるで高周波音を聞いた時のような不快な気分になる。
口には出すな、と言われたので、俺は目と脳を指で指した。
「! ……わか、りました」
どうやら伝わったらしい。目を見開いて、明らかに動揺しているが。
……しばらくの沈黙が続く。もしかしてもう手遅れなんだろうか。いつの間にか怪異も見ていなくても目の焦点が合わなくなってきた。
『見えませんか』
自身の心臓の音が聞こえる。頭に鳴り響く不快な何かと合わさって気が狂いそうだ。
「……隣の病室に何か手掛かりがある可能性はないか。あの廊下に戻りたくはないが、304号室以外の患者のカルテに何か手掛かりが――」
304号室。
……304号室?
そこまで言って気づいた。そうだ、聞いたことがある。
日本では病院によっては、4が最後につく病室は欠番になる。要するに4は死を連想させる数字だからだ。301号室、302号室、303号室、飛ばされて305号室といった感じに。
……じゃあここは?俺たちが今いる病室は。
いや、ここは明らかに現実世界じゃないどこかだ。実在しない病室があってもおかしくは――
ガシャン
静寂が流れる。自身の心臓の音すら聞こえない。病室の扉が閉まる音がした。高校生が目を見開き、俺の頭上を見ている。
考えうる最悪の事態が頭をよぎる。
『見えてますか』
言葉が頭の中を占める割合が多くなっていく。思考がまとまらなくなっていく。眼球もあいつを見ていないのにどんどん濁っていく。
……もういいか。どうせ、
ここで何も得られなければ、俺は死のうと思っていたのだから。