クリエイトについて
現代の日本社会には「パブリック」と呼べるものはないのではないか、と丸山真男を読んでふと考えた。
しかし、日本社会について少しでも批判を言うと激怒する方々が沢山いるので、私は自己批判から始めよう。この場合の自己批判とは私自身に内在する日本人性についての批判だ。
例えば、自分の心の動きを探っていくと、私は「会社で怒られる」ような事態があると「自分が間違っていた」と咄嗟に思う。それは自分自身を完全に否定するような作用である。私が黒で、「会社」は白であるようなイメージだ。
しかし、この心の動きは一体どこまで正当だろうか。ふとそう考えた時、私は愕然とした。私は西洋の哲学や文学に耽溺してきたにも関わらず、その心の動かし方はあまりにも日本人的ではないか、というように。
この事は自分に対する疑問にも繋がっている。また私自身の限界も証明している、と思わざるを得ない。
例えば、新入生とか新入社員の存在を想起して欲しい。生真面目な性格をしている新入生、新入社員。彼らはこれから、社会に、あるいは大学に(ここでは大学とする)出ていこうとする。その時、彼は緊張している。これから自分はやっていけるだろうか? 順応できるだろうか?
この時の心の動かし方をイメージして欲しいが、こうした真面目な人達は「自分は環境に適応できるだろうか?」と考えるのであり、自分の意見や能力を発揮していこうというポジティブな考えを持つ人はおそらく少ないだろう。
少なくとも、私自身に関してはそうである。私は緊張して「自分はやっていけるだろうか?」と考える。考えてきた。その場合の「やっていける」とは、社会や学校が出す課題やノルマを果たせるだろうか?という事であって、自分から何かをするなどは頭の中にない。
ある大学教授が、学生達に手を上げて自分の意見を言うように促したが、誰も意見を言わなかった。教授は怒って「意見を言わなければ単位を落とすぞ」と脅かしたが、それでも生徒の手は上がらなかった。そういう話を読んだ事がある。これは感覚的には非常によくわかる。
この場合、自分の意見を言わない学生は、我々の社会では「正しい」ので、意見を言わない事が良しされる空間にそれまでいたわけだから、いきなりそんな教授に出会っても、意見を言うというのは難しいだろう。私も、意見を言えと急に言われたら言えない気がする。
また、私の嫌いな権威主義者は、それを裏付けるような態度を取る。彼らは、意見を言われると「反抗された」「敵意を向けられた」という風に感じ、不機嫌になる。この場合、日本社会にはニュートラルに意見を言うという文化がないのではないかと思わざるを得ない。それを私は自分の内心にも、他人の内心にも感じる。
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こうした事は「日本人の自己主張の弱さ」という風に言われたりする。だからこういう言い方をすると「もっと自己主張をしましょう」「自分の意見を言いましょう」という話になってしまう。そういうお上品な、朝日新聞的な結論の出し方は私は嫌だ。その先まで行って、読者がついてこられないとしたら、それは読者の責任であり、私の責任ではない。私に説明不足の感があるとしても、自分の頭で考えたくない人に簡単な結論を投げるのは、読者への優しさではなく軽蔑である。そうしたニヒリズムはあいにく持っていない。殴られてニヤニヤする人に合わせる気はない。
話を戻す。例を上げると、最近、ドコモが要するに、不正な勧誘をしているのではないかというニュースが出た。販売代理店がそういう事をしていたらしいという話である。
話の細部はこの文章ではどうでもいいので省く。私はそのニュースを見て、もし自分が代理店の社員だったらどうするだろう?と考えた。
上司が「こうして欲しい」と部下の私に言ってくる。私はその説明を聞いて(それは違法では?)と内心思う。上司の説明が終わった後、私は申し訳無さそうに切り出す。
「すいませんが…こういうのってあの…駄目なんじゃないでしょうか?」
「何が駄目なんだ?」
「違法なのでは…」
そう言った途端、上司は途端に不機嫌になり「ふーん、じゃあどうする?」と威圧的に言う。ちなみに日本社会ではこの(無言の威圧)が大きな権力を持っている。はっきり言葉になると責任の所在、知っていたかどうかなどがはっきりするので、無言というのが大事なポイントなのだろう。…ともかく、私は内部告発する勇気もないし、職を失うリスクも考えて、次のように言う。
「わかりました。…申し訳ありませんでした」
上司は(そりゃそうだろう)という態度で去っていく。しかし、もちろん、上司は「悪く」はない。悪い人間は果たして誰なのか? 日本社会には「悪い」人間はどこにもいないのではないか。ここに丸山真男が言うような「無責任の体系」があるのだろう。
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今まで書いた事のトータルで言うと、日本人は仕事=公的なものに関しては、全面的に服従する事が正しいと感じる。そういう傾向がある。私はそうした人間がすぐ頭に二、三人浮かぶ。
この公的なものに対する服従において、私的なものは完全にそこから締め出される事になる。私的な欲望は「わがまま」という形で切り捨てられる。だが、人間の本質は「意志」であり(ショーペンハウアー)、そこに公私の区別はない。だから、排除したはずの私的欲望は公的なものに返って来たり、公的なものの装いがありながらも、ただ集団化された私的欲望でしかないというような事もある。これに関しては後述する。
今、私は公的なものの絶対性と、そこから締め出された私的なものという二項対立を用いた。私は、日本においては、男が女に求める像が「母性的」であるというのが特徴としてあると思う。この事は公私の区別と関わりがあるのではないか。
何が言いたいかと言うと、イメージしているのは、オタクの同人誌である。エロ同人など読んだ事はないという人にソフトに説明すると、そこでは男が望む女性像、オタク的に好む女性像が描かれているが、そこでは女性に母性を求めるスタイルが多いわけである。(推奨できないが興味のある人は「バブみ」で検索して欲しい…)
男性原理と女性原理という二項で考えると「公=男性原理 私=女性原理」だ。この場合、公において、男性は権威に絶対服従というのが、日本の特徴であろう。その反対に、女性原理においては、公において抑圧された男性性が氾濫する。つまり、日本の男が女に求めるのは、全てを許し、甘えさせてくれ、また自分に服従してくれる、そういうイメージだ。
これは日本の男が甘ったれているというより、男性原理の世界において、権威に絶対服従しているので、その反動で起こる欲動だろうと思う。日本の男は絶対服従する姿が「強い」と言われる。「強い」男は、緊張から解き放たれると、女の元で赤ん坊に還るというわけだ。
これを今の女性が許容するかどうかは問題外としておくが、日本社会が強い抑圧性で動いている以上、そこで「一人前」の男に、女も付き合わざるを得ない。「旦那は偉そうにしているが、社会の一員として給料を貰ってきてくれるから我慢するしかない」と思っている主婦は結構多いのではないかと思う。
この偉さ、偉そう、についても考えてみたい。私の経験上、上の人間にペコペコする人間は例外なく、下には偉そうな態度を取る。彼は社会的な地位をそのまま人間存在の大きさであると認識する。
こうした人は、下っ端の時は必要以上に自分自身を抑圧し、自分を空っぽだと思いこむ。一方、言う事をひたすら聞いて社会上の地位が上がると、自分は全てを手に入れたと思い込む。そうなった時に、公的な権威を楯にして、自分の私的な欲動も発散させようとする。そこにパワハラやセクハラのような現象が起こる余地がある。
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日本人論をするのであればもっと長大に証明していかなければならないが、それをする気はないので、言いたい事だけ言う。
私の疑問は果たしてこの社会のどこに主体はあるのか? 責任はあるのか? という事だ。
最近、愛知県知事リコールの不正署名問題が報道されている。運動の先頭に立っていたのは、河村たかしと高須克弥の二人だが、報道を見ていると、この二人は責任を取る気はないようだ。
それは個人の態度だからいいと言えるかもしれないが、それではこの不正署名の責任はどこにあるのだろう? 不正署名を指示した人間が出たとしても、彼が「上からそういう圧力を受けて」などと言い、上の人間は「そんなのは明言はしていない」などとと言う。政治家のやり取りでさんざん見た光景だろう。この時、誰が悪いのかわからない。
責任という問題についてもっと考えてみたい。例えば、私が人を殺したとする。私は責任を問われる。その場合「いや、私がやったのではない。私の中の悪魔がやった」と言えば、人は馬鹿にするだろうが、嘘ではないかもしれない。そもそも、自分の欲動とか欲求、もっと言えば、私というこの存在は望んで生まれたものではない。責任の所在というものを考えていくと、そもそも自分という存在は自分が決定したものではないという事に行きつく。
もう少し考えてみよう。私が誰かを強姦したとする。罪を問われる。私は答える。「私は自分の中の性的欲望を、自分で決定したわけではない。ムラムラしようとして、ムラムラしたわけではない。私が男性に生まれたのは、私の決定ではない。私の中には、私が決定したわけではない欲望があり、それが犯罪を起こしたのであり、私のせいではない」
これは屁理屈に見えるが、しかしこの理屈を進めていくとどうなるか。脳に腫瘍ができて、精神がおかしくなり、人を殺した。この時、この人の責任は一体どこからどこまであるのか? その線引きをどうするのか? 問題は腫瘍にあって「彼」にあるのではないのではないか?
日本社会の問題に戻すと、人が公に全面服従するという事は、自分自身の責任から逃れるという事も意味する。命令されたからやった、仕事だからやった、金に困っていてやった…いくらでも言い訳はできる。しかもその言い訳は別段間違っているわけではない。
社会のトップの人間も同じように言い訳できる。「日本の為を思ってやった」「下々の者の欲求を感じて、自分は犠牲者になるつもりでやった」 色々な言い訳ができる。それも別に間違っているわけではない。
問題はこの時、誰も責任者がいないという事だ。それは主体がないという事でもある。
主体がないというのは、運命というもの、人生というものがないという事も意味する。現代の文学の不毛はここに尽きているのではないか、と思ったりもする。自身の不幸を自身の理性で受け止められない。不幸は他人のせい、幸福は自分のもの。その論理に関しては誰も間違っていない。私は現代人のお利口さにはほとほと飽き果てた。
…公が全て正しいとする時、それに従う個はただ命令を実行するかしないかだけが問題になる。また、公が全て正しいという「見かけ」を利用して、抑圧された私的欲望を満足させようとする権威者も現れる。日本の社会のトップにはまわりに批判者がいないのだろうと思う。タレントの放言などを見ると、誰も嗜める人はいないという印象を受ける。というのは、まわりの人はタレントに寄生する事で利益を得ているからだ。
政治家に「私欲のない人物を」などというのにも、私は欺瞞性を感じてきた。間違いは完全なる公があり、純粋な私があるという発想そのものにある。立川談志はそうした事を直感的に理解していたので、彼は、正義を楯に意志を突き通そうとする人間を笑ってきた。立川談志は落語の中に哲学を見たのであって、談志の言う「業」は公と私の単純な区別を許さない。立川談志の視点は常々、ショーペンハウアー的だと感じてきた。
新入社員の話に戻すと、社員やアルバイトがなにかを作り出そう、クリエイトしようとする意志は弱い。サッカーの外国人監督が日本に来て「彼らは監督の事をとてもリスペクトしてくれるが、自分から意見を言わない」という旨を話していたが、こうした心性は普通であろうと思う。大学生は、言われたままに論文を書けるようになるのを「成長」と考える。教授は自分の仕事をまっとうする事が責務と考える。
私が言いたいのは、日本には「クリエイト(創作)」という感覚が弱いという事だ。クリエイト、クリエイティビティ、など口当たりのいい言葉だけは氾濫しているが。
私はクリエイトというものは悲しいものであると思っている。何故ならば、自分でなにかを創り上げる事は、その責任を自分でも取る事だからである。だから悲しいのである。
人は間違いもするし、勘違いもする。過ちを犯すだろうが、それを自分の理性で受け止めるのが主体である。現代人はオイディプス王を哀れんでも、ああなりたいは思わないだろう。なりたいのは落合陽一かもしれない。しかしそんなものは私にはどうだっていい。
言われた事をしている人間、規定の価値観の中での上達を目指す人間は、単なる能力不足、才能不足、つまりは成功不足という形での不幸しか現れない。それは規範のものから漏れたという運命である。これを私は「運命」とは呼ばない。
自分の人生は自分のものである。言葉だけではみなそう言う。しかし、そこから人は逃げ出す。自分の人生が自分のものであるならば、そこから生まれた悲しみも苦しみも、罪も悪も、歓びも、全て自分の身一つで引き受けなければならない。それは恐ろしい事だ。だから人はその道には踏み入らない。
公において服従する事は自分という存在から逃れる事を意味する。抑圧された自己を、全てを許してくれる母性で癒そうとするのは、抑圧された自己を解放する意味合いを持つ。そこで人は、公とは違う私的欲望の中で完全に自由になれたと錯覚する。
しかし、公の名で行われるものが、高尚な意志や動機に基づいたものではなく、私的欲望の寄せ集まりでしかないというのが、現在、特によく見えるのではないか。それを人が称賛する時、人が理想として望むのは、私的欲望が公的なものに昇華され、その中で自分という人間が溶け去る事である。これこそが現代の神ーー自己の消失という事になるのだろう。
人間の中にある欲望を私と公に分けるのではなく、意志とか業とかいう名で一つにくくり、それに理性を対置させるショーペンハウアー哲学の方が現代人の常識よりも遥かに優れていると自分は考える(全面的に同意するわけではないが)。公においても私においても、欠けているのは理性である。私的なつまらないものが、経済的な力を持てば公になるというロジックを我々は散々見せられた。世界は常識人の常識によって少しずつ地盤沈下していく。というのは、彼らは自他の欲望という自然性に反する力を持たないからだ。理性という肉に刺さった棘を持たないからだ。
東洋的に言えば、欲望は自然だという事になるのかもしれない。自然に反する事はなかろう、という形で言えば、全体に服従するのがいいというロジックにたやすく転化していく。ここにクリエイティブはない。人が社会をクリエイトするという事になれば、その社会が犯した罪責も人が負わなければならない。それは困った事だ。罪責は自然が犯したやむを得ないものだと自他を慰めれば、我々は永遠に無垢でいられる。だがその無垢は子供の無垢だ。
今の社会の雰囲気で言えば、そもそも「絶対的な正解が存在する」という考え自体に間違いがある。スポーツで言えば「勝利の方程式」は存在して、それを見つけられないから監督は良くないというようなロジックである。最初に全体が規定されているが、一体どんな権利で全体があると発想しているのか? この日本的な考え方において、全体が間違っていたとしたら「やむを得ない」として、また切り替えて次の全体を規定していく。
しかし生きる事は過程的なものである。どうなるかわからないものである。勝つか負けるかはわからない。盤石なんてものはない。盤石でも負ける事はある。それは、負けてもいいや、という事ではない。人は間違うかもしれない、なぜなら、人は神ではないからだ。
日本社会には絶対的な神はいない。だから、絶対的な神を相対的な存在の人間と融合させて思考させてしまう危険性がある。そこに問題がある。人間を神化し、彼に誰も一言も文句を言わない。全てが瓦解すれば、神は人間であったと暴露されるはずだが、また別の神を立てる。間違っていたのは、間違いがないという発想である。人間は悲しいものであり、その悲しみを生きねばならぬ。悲しみのない人に私は知性を認めぬ。知性とは己を相対化する力であり、人は神ではないと認識する力だ。
人は正しいか間違っているかを延々議論する。そうなのだろう。彼らは「正しい」のだろう。あるいは「間違っていた」ら、「修正」して「正しく」なるのだろう。それは人々の勝手だ。だがそこにはクリエイトはない。クリエイティビティはない。なぜなら、クリエイトするとは一つの存在になる事であり、そこから現象する様々なものを自身の身に引き受けて生きる事だからである。ここに運命がある。
文学は古来から、この運命を描いてきた。現在、文学が脆弱なのは人々があまりに正しいからである。言われた事をできる有能以上の何ものもないからだ。彼らには存在の悲しみはない。自分で生きようとした人間に、人生は生じる。人生は歓びや悲しみ、苦しみや苦悩で溢れている。世界が先に存在し、正解が存在し、それにいかに順応するかと待ち構えている人間に人生はない。彼らは、自分自身に存在というものが手渡されるや、慌ててそこから逃げ出す。公の、多数者の正義に逃げ込むのが安全と信じているからだ。存在は裸であり、悲しく辛いものである。
東洋の話と結びつけて考えるならば、自己の中にある欲望は決して「自然」ではない。人は自分自身を選択して生きる事はできない。自分が決定したわけではないものを背負って、人は生きなければならない。たとえ、自分の望んだ結果にならなくても、それを甘んじて受け入れる事に人生がある。これは諦念が大事という人生処方箋ではない。理性はどこに存するかという話をしている。
私という存在は、生まれたいと望んだわけではない。にも関わらず生じる私に関連する様々なものを私は「私」として生きねばならない。これが悲しい事でなくてなんだろうか? ここに悲しみがある。存在がある。
スポーツで言えば、勝つための「戦術」や「選手選考」があると人は無意識的に考える。それで監督の「ミス」はそれに到達できなかったからだ、と考える。テストの百点に届かなかったという発想だ。『今度のテストは64点でした。次からどうやったら百点になるか、一緒に頑張って考えましょうね』
人生はテストではない。だから、私は『クリエイト』という言葉を使った。それは善悪を含んだ未知なものへの一歩である。しかし現代の利口者達は、そうした歩みをした人々をも自分の採点表の中に叩き込んで、何もかもわかったような顔をする。そうしてただ正しいだけで面白くもなんともない無表情な、責任から除外された青白い人々が現象する。
彼らは人生の何ものにも触れる事はできぬ。彼らは人生から疎外されている。悲しみに到達する事はできない。そこで、彼らは自分達を百点を取り続ける優等生に見立てて、自分達を神と勘違いしようとするが、その結果として彼らは神でも人間でもない存在に落ち込んでいく。我々は科挙の試験で一等だった人間を歴史に残る人物として認めぬだろう。天才はもっと違った所にある。しかし、天才について語る事ほど、現代において場違いな事もなかろう。
追記:日本的な感性においては存在は自然に分解される。「民草」という言葉のように自然観が我々の理想としてある。そうなると、自己は存在として捉えられず、欲望は世界と融解され、永遠の輪廻としての世界像が現れてくる。…悲しみとは不在の認識する事であり、不在を別の存在で埋める事は悲しみを消してしまう。次々と出てくるタレントが芸能界を埋めている。これは「クリエイト」ではない。
この文章で私が言わんとする「クリエイト」は多分、西欧的なもので、神の人間の創造のようなものもイメージされているのかもしれない。ただこうした事は考えきっていないのでこれから考えていく事になるだろう。