うずくまっていた少女は立ち上がる
*うずくまっていた少女は立ち上がる
「いってきます。お母さん」
翌日。ある決意をもって玄関を抜ける。
あいにくの曇天。灰色の世界。晩秋の凍てつくような寒さ。近所の猫も塀の上で丸まっていた。
灰色のカーディガンの袖を伸ばして掌をしまった。だけど寒さはあまり気にならなかった。
むしろ火照っているかのような高揚感。どこか地に足が着いていないようなソワソワとした感覚。
コツコツとローファーを鳴らし茶色くなった街路樹の葉を眺める。
行きかう自動車。自転車に乗って真っ赤なマフラーをたなびかせる中学生。スーツ姿の男性が口から白い息を吐いて身を震わせた。
曲がり角を曲がると左手に喫茶店が見える。店内にはモーニングセットをテーブルに置いたおじいさんが一人新聞を読んでいるのが窓から見えた。
横断歩道に差し掛かり赤信号を待つ。背後から制服姿の女性が私の隣に並んだ。
私と同じ制服を見て、心臓がドキリと脈打った。
――大丈夫。かよこたちではない。
人知れず胸を撫で下ろす。信号が青になると、その女性は私を追い抜いていった。
木枯らしが足元の落ち葉を舞い上げる。
遠くに踏切の音が聞こえる。
私は今日、かよこたちに自分の気持ちを主張する。そう決意を持った朝だった。
シロに教えられた通り、私は主張する。自分の正義を。
そして守るんだ、私の身と、千代を。
この結果、私たちは余計に辛い立場になるかもしれない。また千代に恨まれるかもしれない。
今の状況をただほとぼりが冷めるのを待つのも手かもしれない。けれど私はもう、今というこの時をただの暗い経験にしたくは無い。過去を振り返るとき、この時代に蓋をして苦い顔をしたくは無い。
私の人生の邪魔をするな。もう馬鹿にはさせない。舐めるなよ。
私はこの苦境をがむしゃらに打開してみせる。私は光に手を伸ばそう。その結果がどうなろうと、きっと自分の思いに胸を張れた自分は、過去を振り返った時も誇らしいのだろうから。
街路樹から雀が私を見下ろした。とても小さな茶色い鳥は、高らかに鳴いていた。
自分がこんな気持ちになるときが来るなんて思わなった。きっとこのまま自分の思いに背を向けて、戦うことも恐れてかよこたちに飽きられるのを待つばかりだと思っていたのに……。
私がこんな風になれたのはきっと――
振り返り、シロと居た裏山を仰いだ。よく見れば、ぽつんと昨日座っていた白い大岩が見える。
「見ててね、シロ」
曇天の隙間から朝日が差し始めた。
*
昼休みのチャイムが鳴る。
私は未だかよこたちに一言も話せないでいた。
理由は一つだった。
恐怖だ。
かよこたちを見た時、いきなり問い詰め寄ろうとしていた私の計画は儚く崩れ始めた。
怖かった。先ほどまで息巻いていたはずの自分が滑稽に思えるほどに私はかよこたちに委縮し、今から自分がしようとしていた事に胸を縮みあがらせた。ただ俯いてかよこたちと目を合わさないようにしていた。いつものように。
――こわい。こわい。
大きな声で話すかよこの甲高い声が耳にへばりつく。
もし私が計画通りにかよこたちに楯突いたら、あの声で怒鳴りつけられ、取り巻きの友梨佳と春奈に囲まれる。教室はシンと静まり返り、私は――
すると、かよこたちが窓際の私の席に近づいて来る。
――来ないで。私のところに来ないで!
近付いてくるローファーの足音に、そう願ってしまった。
かよこたちは私を素通りして、後ろの席に向かった。
胸を撫で下ろして息を着く。
「千代ちゃーん一緒にお昼ご飯食べよ?」
「……っ!」
春奈のマスク越しのくぐもった声が千代を誘う。私は脂汗をかいて耳を澄ませた。
「屋上来いよ」
友梨佳はかぎ爪の様に長い付け爪で千代の頬を突いた。
「うっ……でも私、今日はあまり具合が良くないから」
か細い千代の声。かよこはクラス中に怯える千代を見せびらかすように大きな声で続けた。
「なんだ生理かー、あはははは。なんか鉄臭い臭いがするようなー」
「えーかよこわかんのー! ぎゃはははは」
「違う、そんなんじゃ」
「あ?」
腕を組んで、オレンジ色の巻紙を指に巻き付けながら、かよこは千代の黒いおかっぱ頭を見下ろした。
威圧するような物言いにクラスの喧騒が静まり返る。
「来いっつってんだろ」
「……うぅ」
声からも涙目なのがわかる千代の震えた声。
「いくぞー!」
春奈が千代の髪を引っ掴んだ。
「痛い! 痛いよ!」
クラス中の誰もがそんな千代から目を逸らし、ただ聞き耳を立てているだけだった。私は一人こぶしを握り締めて振り返っていた。
――言うんだ! 千代を守ってあげなければ!
「…………!」
言え! 私! 言え! 言うんだ! そしてかよこを壁にたたきつけて言ってやるんだ!
「…………………!」
「あ?」
友梨佳が一人振り返った私の視線に気づいた。私は反射的に視線を逸らした。
「おい桜風―。何見てんの? 文句でもあるわけ?」
「……」
「聞いてんだろおい!」
ギョッとして友梨佳の怒声に目を瞑り、私はこう答えた。
「なにも……」
同時に後悔の念が押し寄せる。そして恐怖も。程なくして甲高い声。かよこが私を見下ろして話した。
「おーい、千代はお前の親友だろー? 何も言わないの? 千代から聞いたよーあんたたち中学からの大親友なんだってー?」
面白がるように春奈がくぐもった声で続く。
「親友がこんな目にあってんのに無視ですかー、あははは屑だな」
かよこは腕を組んで少し考えるような仕草をしてから続けた。
「まぁいいわ。こいつらの友情なんてこんな程度よ」
友梨佳が嬉しそうにほほ笑んでかよこの腕を掴む。
「あたしはかよこがこんな目にあってたら絶対助けるけどなー」
続く春奈もニヒルな笑みを見せている。
「当たり前だよね。うちらツレだし。一生裏切らないっしょ」
媚びるような二人の発言にニヤついたかよこは言った。
「そうよね、なのにこいつらと来たら、ペラペラの友情なんだもん。ウケる。これで親友って」
「「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」」
何時までも続くかのような下品な笑い声が、クラス中に響き続けた。
「さ、いくわよあんたたち。そ、れ、と、親友の千代ちゃん」
かよこたちは教室を後にした。それに続く形で、千代の小さな背中が少し離れてついていった。
俯いた千代の髪の隙間から視線が覗く。
涙で濡れた瞳と私の視線が交差した。
「――――」
千代の口元が私に形だけで何かを告げた。
千代の背中が教室から出て行ってしまう。
かよこたちが出ていくと、たちまちにクラスの喧騒が戻って来た。けれどそんな喧騒の中で、私の耳には千代の口元が刻んだ音もないメッセージを繰り返していた。
『だいじょうぶだよ』
千代は私にそう伝えた。久しぶりに千代と交わしたメッセージ。涙を流し、恐怖に襲われながらも私に伝えた言葉。
――千代から聞いたよーあんたたち中学からの大親友なんだって?
かよこが言っていた何気ない一言。
「……千代」
離れてしまったのだと思っていた。互いの気持ちも関係性も。疎遠になって、このままもう話すこともないのだと思っていた。
「まだ……千代は私を…………」
きっと境遇の似た私たちは、虐められている自分を見ているような錯覚に陥るから、互いに避けるようになっていたのかもしれない。
「ずっと……ずっと……。千代は私を……」
けれど私はいつからか、無意識にまた千代の事を考えるようになっていた。そしてそれは私だけじゃなく、千代もまたそうであったということが、先ほどのかよこの言葉から理解出来た。
「千代はまだ、私を親友だって……まだ、そう思ってくれていたの?」
呟いた自分の目尻に熱いものが伝う。けれどそれを拭おうだとか、恥ずかしいだとか、そういった感情よりも先に、私は駆け出していた。
クラスメイト達がそんな私を驚いて眺めている。それを尻目に私は教室を勢いよく飛び出した。
「千代!」
廊下を遮二無二駆けながら私の口から親友の名がついて出ていた。廊下の女生徒たちが不思議そうに私に振り返る。
角を曲がって階段を駆け上がる。途中つまずいて膝を勢いよく段差の角に打ちつけた。
「く……千代!」
再び立ち直って階段を走る。すぐに屋上へと続く締め切られた鉄の扉が見えた。
この先にかよこたちが居る。そして千代も。
恐怖が拭い去れた訳ではない。むしろ増していた。思い直し、今すぐにここから立ち去ってしまいたいとすら思う。だけど――
助けてシロ。
――真央。失敗を恐れるな。
シロの声がした気がした。目の前に立ちはだかる強大な扉を前に、その幻想の声が反芻する。
「行くわよ!」威圧してくる扉のドアノブに私は手をかけた。
シロ。
何時かあなたはこういった。
――僕は何もしない。聞くだけさ。
そんなことは無い。
あなたの言葉が、あなたの存在が、今私にこんなにも勇気を与えてくれている。
開かれた扉の隙間から光が漏れて、そしてそれは徐々に大きく、私が重い鉄の扉を押して開く程に大きくなる。やがて私の体が包まれて、まるで光の中に飛び込んでいく様だった。