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わたしのヘイオン

 妹カヨと兄カケル。二人はあの後……。その一部を描いた後日談的短編です。ジャンルは恋愛になっていますが、他にあてはまるものがなかっただけで、恋愛小説ではないです。

     ゼロ


 平穏。

 それはなにも、平和な日常だけを指す言葉ではない。そう、わたしは思う。




     ワン


 犬の鳴き声が遠くから風に乗って聞こえてくる。ワン、というより、ぅわぅぉお〜おーん! という響きだ。吠えたがりのあの動物は、いったい何をそんなに訴えているのだろう。悲痛な叫びだったらおもしろいのに、と思う。あんなに偉そうに、いやー助けて〜! と叫んでいるなんて、滑稽でしょう?

 わたしはそいつとは対照的な、全く吠えないおとなしい小型犬の頭をなでつつ、そんなことを考えた。目の前のこいつは、私のほほ笑みにくりっとした濡れた瞳で応えてくれる。いい子ね。そうやってひととおりなでてやってから、またね、と挨拶をしてその子とも別れた。

 小学校の帰り道だった。今のように散歩している犬と人間が多く見られる夕方だ。いつのまにかお日様が夕日と入れ替わって働いている。今日も「二人一役」お疲れさま。

 わたしは吠えない種類の小型犬を見ると、つい、なでてやりたくなる。カワイイんだもの。やかましい犬はそれだけで悪よ。ブサイクねぇ。泥棒にだけ吠えればいいのに。泥棒のにおいだけを嗅ぎとればいいのに。

 いつまでも犬の話をしているわけにもいかないので、わたしは何かおもしろいものはないかと辺りを見回した。しかしここは散歩道であるらしく、そこここに犬のものらしい糞が目に入る。うぇ……。あんなごっついの、きっと大型の犬のものなんだわ。ばっちぃわねぇ。飼い主の人間の顔が見てみたいものだわ。きっと顔も心も醜く汚れきっているのでしょうね。やっぱり見たくないわ。そんな物を見てしまったらわたしの目が腐って溶けちゃうかもしれないもの。あーあ、どこかに「醜いモノが見にくくなるメガネ」とか無いかしら。あったら札束をうずたかく積み上げてでも欲しいのだけど。

 わたしはいつもなら複数のトモダチたちと帰るのだけど、今日はあいにくと掃除当番だったの。ひとりは嫌いじゃないけれど、変質者に捕まりそうでコワイわ。こんなに可愛い小学3年生がひとりっきりで歩いているのよ? それこそ辺りがよだれの海になってもおかしくないわ。無数の変態な視線で貫かれるのよ。ぅげ、考えただけで鼻水がチビりそうだわ。コワイコワイ。

 もう二度とそんな思考はしないことにして、わたしは空を見上げた。赤く染まった空に黒い何かが浮いていた。――びちゃ。きっとカラスだ。つい今しがた数メートル横に糞が落下してきたし。……また糞よ。今日のあたしはアンラッキーガールなのかしら。テレビの占いをチェックするべきだったわね。それで運気最高だったら、訴えてやっていたところなのに。残念だわ。

 そうやってつまらない思考をしている間に、家が見えてきた。家というより屋敷というべきかもしれないそれは、周りの家々を押しのけるようにしてそこに鎮座していた。黒一色なので夕日には染まっていない。なにものにも染まらないその色が、わたしはなによりも好きで、愛していた。この家を黒く塗るように命令したのはわたしだ。おじいちゃんには黙ってやったけど、怒られなかった。

 わたしには家族がいない。この家に住む今はメイドさんと一緒に暮らしているけど、少し前までは広い家にひとりで生活していた。さらにその少し前まではそこでお父さんと二人暮しをしていたけど、お父さんは自分で死んでしまったからもうこの世にはいない。二人暮しのその前は、わたしは5人家族の一員だったらしいのだけど、当時生後まもなかったわたしには記憶がない。そして現在、その5人のうちで一般社会で生きているのは二番目のお兄ちゃん(といっても、一番目の人とは面識がないし、わたしのお兄ちゃんはひとりでいい)とわたしの2人だけだ。悲しくはない。寂しくもない。偶然でない喜劇が他の3人を排除しただけなのだから。

 本当はお兄ちゃんと二人暮らしがしたいのだけど、それは色々と問題があって困難だった。どんな問題があるのか詳しいことはわたしも知らない。お兄ちゃんがそう言っていたのでそれを鵜呑みにしているだけだ。お兄ちゃんはわたしに優しくしてくれる……というか、わたしにだけ優しくしてくれるのだけど、ときどき厳しいのだ。でも、厳しいお兄ちゃんも好きなのであまり文句はない。それくらいのガマンならわたしにもできるもん。


 いつのまにか自分の部屋にいた。門の前で待っていたメイドさんを視認したところまでは覚えているけれど、そのあとは知らない。メイドさんは少し怒っていたように思う。本来、ひとりで登下校することになったら家に電話をして送迎リムジンで移動する決まりなのだけど、今日は連絡せずにひとりで帰ってきた。きっと連絡しなかったことを怒っていたのだろう。別にどうでもいいじゃんねぇ。あ、でも、そういえば変質者に狙われるんじゃないかと気が気でなかったし、やっぱりこれからはちゃんと連絡しよう。人質として誘拐されて監禁されて身代金がダンプカーで運ばれるだけなら楽しいけれど、それ以外は嫌だもの。……あ、護送車で運ぶのもいいかも。犯人もついでに護送しちゃえ。

 部屋はさすがに黒一色というわけにはいかない。黒の欠点は明るい色との差異がありすぎて目に悪いということだ。わたしだってまだまだ若い9才の女の子なんだから、明るい色の小物とか部屋に置きたいのよ。というわけで部屋の中で黒色の物といえば、真ん中にあるグランドピアノくらいかしら。グランドピアノって大層な名前だけど、お兄ちゃんの部屋と同じくらいの大きさしかないのよね、名前負けだわ。それにしてもお兄ちゃん、あんなせまい部屋(しかもその半分は来客用スペースだから実際は残り半分だけ=グランドピアノの半分)で引きこもっているなんて、絶対、人間じゃないわ。……あぁ、お兄ちゃんはもともと人間じゃないのよね、わたしってバカねぇ。

 殺風景といえば殺風景なのかもしれない部屋を、見回してみる。グランドピアノはあってもシャンデリアが無いので少し違和感がある。彫像とか名画とか装飾品も邪魔だから無いし、トモダチたちのようにぬいぐるみとお話する能力はないのでお人形のたぐいも一切無い。貴金属類も重たくて邪魔なので小さな10カラットの天然ダイヤを引き出しにしまっているだけだ(カッティング技術が凄すぎてまぶしいったらありゃしない。おじいちゃんのプレゼントじゃなかったらとっくに捨ててるわ)。テレビは観賞室、音楽を聴く機械は鑑賞室、勉強道具や本はリラクゼーションルーム、玩具類はアミューズメントルーム、というように分別されて別の部屋にあるので、ここにはほとんど何も無い(ピアノは演奏室にあって、ここにあるのはただの飾り)。したがって、家の外見は立派でもわたしの部屋はただ広いだけの空間なのだった。寝室も別にあるし。まぁ、なにしろ広いだけが取り得の家だから、部屋はあまりに余っているのよ。お兄ちゃんもここに住めばいいのになぁ。


 思い出したようにわたしはケータイを手に取り、秘密の番号をプッシュした。この番号を知っているのは世界でただ二人だけ。つまりお兄ちゃんとわたしだけなのだ。えっへん。

「もしもし、お兄ちゃん?」と、ソファに寝そべってわたし。

「もしもし、間違いないと思うけど、カヨかい?」と、いつものナイス声でお兄ちゃん。今日もしびれるほどにカッコ良い。

「決まってるでしょ」

「いや、そうとも限らないよ。道に落ちていたケータイを誰かが拾って電話してくれたのかもしれないじゃないか」

「でもわたしの声だったじゃない」

「僕には小学生の女の子の声なんて全部同じに聞こえるけどなぁ」

 お兄ちゃんはときどき……というかかなり頻繁にヒドイことを言うのだった。でも悪気はないので許しちゃう。

「わたしの声くらい覚えてよー」

「覚えてるよ。でも似たような声の人はたくさんいるからね。無駄だよ」

「用心深いわねぇ」

「用心するに越したことはない」

 お兄ちゃんには話を盛り上げる優しさもないのだった。

「で、何の用だい」

「んー、特にないよー」

「……切るよ」恐ろしく冷たい声だった。背中がゾクッとする。快感。

「あー、やだやだぁ! いーじゃん、ヒマなんでしょー?」

「ヒマはないよ。暇人の相手をするようなヒマはね」

「ひっどぉーい!」

「他人を振り回すカヨのほうがヒドイね」

「……ぅえ〜ん! カヨ、泣いちゃうよぉ?」

「いちいち泣くって宣言する泣き虫はいないよ」

 ホントに本当にヒドイ。マジで泣きそう……。ぅ、ぅう……。

「おぃおぃ、マジで泣くなよ。……ちぇ、女の子ってだからヒドイんだよなぁ。男は損損」

 ぃえーい、チャンスだ!

「言うこときいてくれたら泣きやむかもね」

「はいはい、聞けばいいんでしょ?」

「ハイは一回!」

「……はい」

 なんだかんだ言っていっつも言うことを聞いてくれるお兄ちゃん。だから大好き!

「で、ホントに本当に何の用だい」

「決まってるでしょ。これから一緒に遊ぼーよー!」

「決まってないだろ」

「あー……」ぅ、ぅう……。

「嘘嘘、冗談だよ! んー、これからって?」

「今すぐ!」

「えー? それはちょっと……」

「嫌なの? 嫌だったら別にいいんだよ? このあいだ貸した――」

「あー、いやいや! いいよいいよ。オッケイオッケイ」

 脅しに弱いお兄ちゃんもちょっと魅力的ー。たとえそれが演技でもサイコー。

「じゃぁ、いつものカラオケBOXで待ち合わせねー」

「へいへい」ピッ。

 ぅわ。注意する前に切られちゃった。へいへいだなんてやめてよお兄ちゃん……。与作が木を切るみたいじゃないか。これは会ったらすぐ注意しなくちゃね。


 しかしその決意はお兄ちゃんの「輝く微笑み」の魅力で完全に消し飛んでしまうのだった(後日談)。




     ツー


 ツー、ツー……。お兄ちゃんが先手必勝とばかりに電話を切ったおかげで、わたしのケータイはむなしく泣いていた。

 いや、そんなカナシミモドキに沈んでいる場合ではない。今すぐと言っておきながら、お出掛け――もといデートの用意などまったくしていなかったのだ。時間に几帳面なお兄ちゃんのことだからソッコーで待ち合わせ場所に向かったに違いない。あの人にお出掛け用の格好なんてものは存在しないから、本当にすぐ向かったはずだ。やばい! お兄ちゃんを待たせるなんてダメだ! お兄ちゃんを眺める時間をたとえ一秒でも無駄にしたら、もったいなさ過ぎて死んじゃうっ!

 わたしは即座にケータイの非常ボタンを押した。フツウのケータイにもついているでしょう? あの赤いボタンよ!

 瞬間、どこかのだれかに電話がつながる。わたしは相手が名乗る時間も待てず、叫んだ。

「はやく車を出しなさい!」

 それだけ。その一言だけでじゅうぶんだった。まず床が抜けて玄関と直結する。わたしの部屋は玄関の真上なのだ。下に体格のいい男がいて、わたしをキャッチ。そして、投げる。開いていた車のドアにジャストミートし、1秒とたたずにドアが閉まり、車が発進。行き先は告げるまでもない。わたしが急いでいるとしたら行き先はあそこしかないのだ。カラオケBOX!

 ちなみに車以外にヘリコプターという選択肢もあるけれど、お兄ちゃんは目立つのが嫌いなので胴が短めのリムジンでガマンする。いや、近くにヘリポートがないからリムジンのほうが速いか。別にヘリからダイブしてもいいけのだど、それも目立ちすぎるからダメなんだってさ。厳しいなぁ。

 法定速度の倍ぐらいのスピードで走る車の中は震度7くらいのヒドイ揺れに見舞われる。でも平気、いつものことだ。わたしはそのがむしゃらなバイブレーションの中でデート用の服にお着替えする。これも、慣れたものだ。あぁもちろん、運転席からは見えない構造になっているわよ。そこは当然でしょ。

 ブー。

 不正解……ではなく、これは到着の合図だ。なぜこんな気の抜けるような音なのかというと、それは興奮しすぎた心を落ち着けるためだ。まさか、傍若無人なハイテンションのままお兄ちゃんと会うなんて、失礼でしょ。わたし、礼儀やマナーはきちんと守るのよ? だってお嬢様ですもの。

 わたしは車に備え付けてあったハンドバッグ(サイフ入り)をつかみとって、外に飛び出した。カラオケBOXの正面玄関前だった。ほとんど間を置かずに、リムジン(くるま)が撤退する。これをお兄ちゃんに見られてはマズイ。だって、なんかズルして早く来たみたいでしょ。


 数分後、まだかなまだかなーと道路に目をやっていると、遠くに黒い点が見えた。きっとあれはお兄ちゃんだわ! と眺めていると、しばらくして、お兄ちゃんは自転車に乗って颯爽と現れた。ママチャリなのにカッコ良い。反則だわ。自転車も服装も全部ブラックなお兄ちゃんは、真っ黒なのになぜか、まぶしかった。

「おまたせ」

 ほほ笑みながら言うお兄ちゃん。あう……、なんかそれだけでノックアウトしてしまいそうな勢いよ。わたしは何か忘れているような気がしながら、「ぜんぜん、待ってないよ! いま来たとこー」と返事した。もちろん、ほほ笑み返しだ。うりゃ〜! しかし、

「嘘だね」

 またほほ笑んで言うお兄ちゃん。しかしさっきのとは種類が違う。冷たくてゾクッとする、妖しい笑み……。吸い込まれそうな恐ろしい魅力……いや、魔力を感じる。あぁ、もうダメだわぁ。

「な、なんで分かったの……?」もう嘘だって認めちゃってるよ、わたし。

「簡単だ。きみの息が整っている。さっきの電話。あのときまだ家にいたはずなのにもう到着しているということは、少なくとも自転車を僕以上の速度でこいだはずだ。なのに息切れしていないし、汗も出ていない――」

 お兄ちゃんはそこで、わたしの手首をつかんだ。ドキッとしてしまうわたし。

「――うん、緊張しているという状況を鑑みて脈拍も正常だね。自転車で来たんじゃない。僕の自転車より数段速い乗り物で来て、待ってたんだろう。なにより、きみの自転車が見あたらないしね。違うかい」

「あのときまだ家だったなんて、分からないじゃない……」

「いや、あのとき周囲に音がなかったからね、きっと部屋にいたんだろう。きみの家からここまで、今の時間は人間とか犬が多く出歩いているはずだから、それが聞こえなかったということは外ではないね」

「わざと静かなところに行って電話したのかもよ?」

「そんな面倒なこと、きみはしないね。する意味もない」

「…………あ、そうだ! あの電話のあとすぐに出発したんじゃなくて、色々準備してから車で来て、偶然いまさっきついたのかも!」

「言いよどんでる時点で違うのは明らかだけど、なるほど。でも、待ち合わせ時間を今すぐと言っておいて、そんなゆっくりするかな? きみの性格上、最短時間で来るようにしたはずだ。準備なんてどうせ車の中でもできるだろう」

「………………はぁ、降参」


 ため息をつくわたしとは対照的に、あはは、と笑うお兄ちゃん。実に好青年らしいさわやかな笑みだ。

「まぁ、そんなに気を落とすな。嘘をついたほうが不利なんだよ、こんなのは」

 慰めの言葉。やっぱり、お兄ちゃんは優しい。

 店員が部屋に案内してごゆっくりと言って出て行ったあと、お兄ちゃんは言った。

「しかしカヨ。不用意な嘘はついちゃいけないよ。無駄に嘘をついてもボロが出るだけだからね」

 忠告。わたしのために言ってくれた言葉。嬉しい。

「うん、わかったよ、お兄ちゃん」

「それよりさ、今日は何の用事なんだい」

 密室に男女が二人きりだというのに、こんなに密着して座っているというのに、お兄ちゃんは真顔で言う。

「決まってるでしょ。デートよ……」頬が熱を帯びるのを自分で感じる。お兄ちゃん、顔、近いよぉ。

「デートか。日付、もしくは男女が約束して会うこと、だな。うん、間違っていないね、これはデートだと言える。しかし、会って何をするんだい」

「楽しいこと、だよ……」

「ふーん、そんな意味もあるのか? 辞書には載っていないけど。で、楽しいことというのは具体的になんだい」

 お兄ちゃんには常識が欠けているのだ。デートも知らないなんて本当にどうかしている。お兄ちゃんの名前は「カケル」といって、「駆」と書くらしいけど、本当は「ける」なんじゃないかと、わたしは思う。

「遊びだよ。カラオケとかボーリングとか。別に遊ばなくても二人で一緒に居れたらいいけどね……」

「カラオケやボーリングはさておき、一緒にいるだけで楽しいのかな」

「……わたしは楽しいよ、お兄ちゃん」

「そうかい。それは簡単でいいね。でも、僕はぜんぜん楽しくないよ」

 この人にヒドイことを言うなと言っても無駄だ。常識が欠けているのだから。それに、正直なのはいいことだしね。

「ん、なんか元気ないなぁ、カヨ。どうかした?」

 ショックで黙っていたわたしに、お兄ちゃんはそう言った。

「あ、ううん、なんでもないよ! それより歌おう!」

 わたしは自分の好きなヒットソングをデタラメに入れまくった。しかし、お兄ちゃんは歌わない。お兄ちゃんにマイクを渡そうとするが、「ごめん、知らない曲だ」と毎度つき返される。お兄ちゃんはこう見えてヒキコモリだからか、ヒットソングに疎いようだ。でも、

「ごめんな、カヨ。僕はこれしか知らないんだ」

 そう言って、ようやくお兄ちゃんがマイクを受け取ってくれる。曲は、「桜坂」。

 恋心には疎いくせしてなんでこんなベタな歌だけ知ってるんだろう。不可思議すぎる。しかも、上手い。季節はずれ(今は秋)の名曲を歌うお兄ちゃんの美声に酔いしれる小学3年生♀。歌い終わったお兄ちゃんがなぜかぼやけて見えるのは、わたしの目にうるうると涙がたまっているからだった。うえ〜ん、何度聴いても泣けるよぉ〜。って、まだ2回目だけど。

「……また泣いてるよ、こいつ」

 そんなお兄ちゃんのつぶやきがかすかに聞こえたけど、別にいいんだもん!

 それでも、優しいお兄ちゃんはわたしが泣きやむまで、しっかり抱きしめてくれた。前に落ち込んだときも抱きしめてくれた。これはもう条件反射なのだろう、お兄ちゃんにとってはそんな程度のものなのだろう。けれど、それでも、そうだとしても、わたしは嬉しかった。嬉しくて余計に涙が出てしまった。


 結局、わたしが泣きやんだところで時間がきて、カラオケ自体はぐだぐだに、けれどわたしの心はうきうきな状態で、わたしたちは店を出た。




     スリー


「スリだー! 誰か捕まえてくれー!」

 日の沈んだ暗い午後に、そんな叫びが街を走った。

 それに反応して前方を見ると、なにやら怪しげな男が、サイフをバトンのように握って、こちらに走ってきていた。場所は街灯の明るい商店街。ヒマをもてあましていまだに街をうろついている人々の中を、そいつだけが駆けていた。

「世の中にはあんなに分かりやすいスリがいるんだね」

 お兄ちゃんはいたって冷静に感想を述べた。視線から、数十メートル先のそのスリを見つめているのは明らかだった。

 しかし次の瞬間、お兄ちゃんが動いた。ポケットに左手をつっこんで何かを取り出す。それに百円ライターで火をつけて、わたしたちとスリの間にある、人のいない空間に、放った。

 スリは何も知らずにそのまま、そこへつっこんでくる。その瞬間、大きな、バチバチバチ……ッ! というけたたましい音が鳴った。男の足元で火花が散っている。その音に驚いて、男は手を勢いよくバンザイにしながらころんだ。握られていたサイフが男の手から解放され、後方に飛んでいく。それとは反対に、加速度のついていた体は前傾姿勢になり、顔からアスファルトに激突する。

「痛そう……」と、わたし。

「なんだい、呆気ないな。爆竹ていどで一件落着とはね」

 嘆息するお兄ちゃん。足払いでもかけてやろうと思ったのに、とつぶやいた。そうかと思えば、いきなりわたしの腕をつかんで、

「逃げるよ」

 短くそう言って、お兄ちゃんは建物と建物の隙間に駆けこんだ。そのまま暗い路地裏に出て、適当な場所に身を潜める。

「ダメだね。ガラにもなく人助けをしてしまった。反省反省」

 お兄ちゃんは誰も追ってこないことを確認してから、不思議そうに首を傾げているわたしを無視して、そうつぶやいた。

「……お兄ちゃん、なんで逃げたの?」

「ん? あぁ、警察とは極力かかわりたくないからね。ホントは無視するべきだったんだけど、都合よくポケットに爆竹が入っていたもんだから、ついやってしまったんだ。街灯のそばにいなくて良かった。きっと暗くて僕たちのことは見られていないよ。それにしてもちょっと軽率な行動だったな。反省反省」

 お兄ちゃんは何度も反省反省とつぶやいていた。人助けをして反省するなんて変だなぁ。わたしなら感謝状とかもらいたいのに。

「あれは人助けというより『悪人イジメ』という遊びだよ……」

 そんなことを言って、お兄ちゃんはなぜか笑っていた。つられて、わたしも笑った。

 暗い路地裏に、ブラックなお兄ちゃんは完全に溶け込んでいた。途中ではぐれていたら、きっと見つけられなかっただろう。


 翌日の地方新聞に、この事件のことが載っていた。「マヌケすぎるバンザイ! 爆竹の主はいずこへ?」という見出しが、躍っていた。




     フォー


「フォアグラって何?」

 お兄ちゃんが信じられないことを言った。ちょっとおしゃれな飲食店に入ってメニューを見ているときだった。

 さっきの商店街からは少し離れたジュエリーショップで無数の宝石を眺めていてそれらが食べ物に見えてきておかしいなと思ったら、すでに夕食の時間だったのだ。

 わたしはお腹の虫が鳴くのを危惧して、急いでこのお店に入った。入ったはいいのだけど、何料理のお店かわからない。普段はメイドさんがフランスとかイタリアとか教えてくれるのだけど……。あ、よく見たらちゃんと書いてあるじゃない。へぇ〜、ここ、いろんな国の料理が食べれるみたい。フランスにイタリアに中華に和食……うわ、何これ、珍味?

「なぁ、カヨ……」

「ん、な〜にぃ?」

「質問に答えてくれないかな。フォアグラって何?」

 しまった。お兄ちゃんの言葉を無視するなんて、わたし、なんて罪深い女なんだろ……。

「あ、ごめん! えーなになにフォアグラ? あれでしょー? なんか高級なやつ」

「そんなの値段見ればわかるだろ。フォアグラの正体は何だと聞いてるんだよ」

「知らない。得体の知れないもの」

「……一応聞いておくけど、食べたことあるよね?」

「あるよー」

「正体不明のものを食べたのかい」

「うん。なんだっけ……宇宙仙台珍味……ちがうかな……仙台高級住宅…………なんか違う気がするけど、なんかそういうやつ! らしいよ。まぁ、味はわたしの好みじゃなかったはず。好みだったら覚えてるはずだから」

 興味のないものは覚えない。それがわたしの記憶の基本メカニズムだ。

「はぁ……、宇宙とか仙台とか、ワケわかんないね。まぁいい。おいしくないんだね?」

「たぶーん」

「それにしても、これは本当にメニューなのかな。見たことない名前ばっかりだ」

「えー、そんなはずないよ。このお店、何でもあるみたいだよ? いくらお兄ちゃんが非常識人類のリーダー的存在でも、さすがに自分の国の料理くらいは知ってるでしょ」

「自分の国? あぁ、ここはニホンコクだったね。しかし、ニホンコクの欄なんてないよ?」

「お兄ちゃん、大丈夫? 日本食はフツウ、和食って言うでしょ。それに、日本のことをわざわざ正式名称で『日本国』なんて呼ぶ人、見たことないよ?」

「そうかい。それは僕もきみも初耳だね。経験値が上がって良かったな」

 お兄ちゃんが不必要なことを言うときは、たいてい半分意識がなくなっているとき――つまり、他のことを考えているときだ。こんなカワイイ妹を目の前にして、いったい何を考えているんだろう。さすがにそこまでは分からない。


「……カヨ。やっぱりワカラナイのだけど……」

 念のために言っておくけれど、お兄ちゃんは決して字が読めない「イタイ子」ではない。難しい漢字や、英単語だって知っているはずだ。貧乏だから高級料理を知らないだけに違いない。カワイソー。

「お兄ちゃん、普段食べてるものにしたら?」

 そうだ。いくらわたしがお嬢様だからって、気を遣って高級なものを頼む必要はない。だいたい、それでもし、お口に合わなかったらこの店を勝手に選んだわたしが悪者みたいじゃないか。

「んー、もちろんそうしたいところなんだけどね、どうやら見あたらないんだよ。僕が普段食べているのはもしかして和食じゃないのかなぁ……?」

 お兄ちゃんが普段なにを食べているかなんて、さすがにそんなプライベートなことまでわたしは知らない。そういえばお兄ちゃんの家の冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかった。いったい何を食べているのか。いい機会なので聞いてみよう!

「お兄ちゃん。いっつも何食べて生活してるのよぉ?」

「ん。なんだったかな……鉄とかそういうのだよ」

「へぇ、そうなんだ」わたしはもう少しで聞き流すところだった。「ぇえー!? 鉄!? 鉄って、あのっ、金属の鉄ぅッ!?」

 わたしは相当驚いたのだろう。イスを倒すほどの勢いで立ち上がり、店内の人間すべての視線を受けるほどの大声を上げてしまった。あうぅ……。

「………………」無言の二人。いや、店内すべてが完全に静まっていた。

 近くにいた店員がこの事態にどう対処していいやらわからないといったふうな顔で立ち尽くしている。きっと新人のアルバイトなのだろう。しばらくして、中年の店員がやってきて、

「あの、どうなさいましたか?」

 と言ったのを合図に静寂は崩れた。何事もなかったように、周囲の雑音が再開される。

 立ち上がったままだったわたしもようやく腰をおろして(もちろん倒れたイスを立ててからだ)、

「いえ、ごめんなさい。なんにもありません。ちょっとビックリしちゃって……。本当にどうもご迷惑おかけしました」

 ペコリ、と、かわいらしくお辞儀も忘れない。

「そうですか。何もないようでしたら、それでは、失礼いたします」

 中年店員は斜め30°の完璧なお礼をして立ち去った。

 前方に視線を戻すと、お兄ちゃんはなぜか立ち上がっていた。

「帰る」

 短くそう言って、お兄ちゃんは店の出入口のほうへ歩いていった。明るい照明の中で、その背中だけが黒いオーラを発している、ように見えた。冷や汗がわたしの背中を流れるのを感じた。

 わたしはレジカウンターの店員さんに謝って、急いでお兄ちゃんを追いかけた。焦った。その焦りは尋常じゃなかった。あのままだとお兄ちゃん、もしかしたら無差別殺人鬼になってしまうのじゃないか、と危惧したからだ。そんなはずはないけれど、可能性はゼロじゃないから……。

 わたしは大粒の涙をふりまきながら、鼻水もチビるどころかだらーっと垂らしながら、もちろんわき目などふらず、お兄ちゃんの背中を追った。お兄ちゃんの名前と同じに、夜の闇を駆けた。




     ファイブ


 ほどなくして、わたしは急に立ち止まったお兄ちゃんに激突した。でもわたしはかろうじて転ばずにすんだ。ぶつかる寸前、お兄ちゃんがこちらに振り向いて受け止めてくれたからだ。おそらく、わたしのドタドタという足音でタイミングを測ったのだろう。

「あぶないなぁ、カヨ。どうした、そんなに慌てて。……え」

 きっとヒドイ顔をしていたのだろう。お兄ちゃんはわたしの顔を見て絶句した。

「なんで泣いて鼻水たらして息切らしてるんだよ。何かあったのかい」

 わたしは息切れでなにも言えず、ただお兄ちゃんに抱きついた。泣いた。

「おぉ、よしよし」

 まるで赤ちゃんをあやすような優しい声でお兄ちゃんはわたしを抱きしめてくれた。もちろん、優しく。

 そのままの状態で数分、いや、もっと長かったのかもしれないし、もっと短かったのかもしれない。とにかくわたしが泣きやむまでずっとその状態だった。お兄ちゃんの暖かい胸に抱かれてわたしは幸せだった。最初は怖くて泣いていたのだけど、後半は嬉し泣きだ。お兄ちゃんの服を涙と鼻水とよだれで汚し終えて、わたしは身を離した。

「ようやく泣きやんだか。やれやれ」

 お兄ちゃんはそう言いながら、わたしの頭をなでてくれた。辺りを見回してみると、そこは人気のない公園だった。もし人気のある場所でも、お兄ちゃんは抱きしめてくれただろうか……? いや、それは考えないことにしよう。

 わたしを近くにあったベンチに座らせて、お兄ちゃんは自販機で飲み物を買って戻ってきた。

「これでいいかな?」爽健美茶を差し出すお兄ちゃん。その顔にはいつもどおりの、いや、いつも以上に柔和な笑顔が貼りついていた。

「うん!」負けじと満面の笑み(でも泣きはらしたヒドイ顔)でわたしは受け取った。

「ふぅ、良かった。正直、自販機で何か買うなんて久しぶりだったから、どれにしようか迷ったよ」

 そう言ってお兄ちゃんが飲み始めたのは、ファイブ・ミニという栄養ドリンクだった。

 意外だった。水以外の物を飲むお兄ちゃんなんて、初めて見た。この人は、正体のはっきりしたものしか口に運ばないのだ。用心深い。そんなわたしの思考を読み取ったように、

「ん、僕がこんなものを飲むなんて意外かい?」

「うん。わたしてっきり、水しか飲まないんだと思ってた」

「うん。水が一番、正体がはっきりしている飲み物だからね。まぁ、いろんなものが溶け込んでいるから一概に安全とは言えないけど」

「どうしてファイブ・ミニなの?」

「あぁ、ネット上でたまたまこれが話題になっていてね。薄い色がついてるだろ。これ、合成じゃなくて天然の着色料でつけた色なんだってさ。だからって安全というわけじゃなくて、実は毒素を含んでいるらしいんだけど、それよりその天然着色料の原料がおもしろいんだ」

 なんだと思う? お兄ちゃんにしては珍しく饒舌だった。

「えー、なんだろぉー? ……ヒント、ヒント!」

「蟲」

「えー、そんなー! ゲロゲロぉ〜……」

「あれ、蟲嫌いだったっけ? ごめんごめん。じゃあ、答えは教えちゃマズイな」

「いや。聞きたい」

「アブラムシだよ」

「ぃやーッ! ゴキブリいやぁー!!」

「ゴキブリじゃないよアブラムシだ。アリよりちっちゃいかわいいやつさ。どこの国だったか忘れたけど、サボテンにむらがってる大量のアブラムシを捕まえて殺して天日干しするんだ。あとは、干した彼らを粉々にして水にとかして色素を抽出するらしい。詳しいことはわからないけど、そんな感じ。

 つまりこの色は、アブラムシの大量虐殺の賜物なんだよ。死んだ彼らの怨念がこもっているかも、しれないね」

 お兄ちゃんは快活に、そんなえげつない話をした。あははは、という声が闇に溶けて消えていく。わたしは笑い声をあげなかった。でも、脳内では大量の蟲がミキサーにかけられて粉々にされており、わたしの口の端はわずかにつりあがっていた。

 ピタ。そんな音がしたわけではないが、お兄ちゃんが急に黙り込んだ。周囲の空気までもが一気に引き締まり、緊張する。温度が急激に下がったような錯覚におちいる。

「なぁ、カヨ。さっきはなんで驚いてたんだい?」

 温度を感じさせない静謐な声。鼓膜を振動させるのではなく脳内に直接響いてきたような、絶対的な言葉。さっき走ったときのとは違う種類の汗が、全身を濡らした。思わず、ツバをごくりと飲み込む。

「あ、え、えーと……」緊張で口が思うように動かない。静かな圧力がメンタルに響く。「だって、お兄ちゃん、鉄を食べてるなんて言うんだもん。ビックリするに決まってるでしょ……?」

「鉄を食べちゃいけないのかなぁ?」

「え、だって、鉄だよ? 鉄棒の鉄だよ? あんな硬いの、食べれるわけないじゃん」

 一瞬の間。

「あはははは……」急に空気が緩んで、わたしの緊張も消し飛んで、お兄ちゃんの笑い声が再び闇へと消えていく。

「あー、ごめんごめん。それはビックリするよねぇ。まさか、いくら僕が人間じゃないといっても、鉄棒は食べれないよなぁ!」

「だよねー」わたしも自然と笑顔になった。「でも、じゃぁいったいどういう意味だったの? 鉄を食べるって」

「うん。鉄というより、鉄分だね。牛乳とか野菜に多く含まれているらしいよ。でも僕はそんなもの食べないからね。栄養剤で直接、鉄を摂取するのさ」

 なるほど! わかってしまえばなんでもないことだ。それなのにあんなに驚いて……恥ずかしいわぁ。

「そっかそっか。いやぁ、僕にしてみればあれは鉄そのものだからね。だって錠剤のケースにそのまま『鉄』って、デカデカと書いてあるんだから。

 いやいや、なんか、カヨに恥かかせちゃったな。すまない。この埋め合わせは絶対するから。許しておくれ」

 そう言って頭をなでてくるお兄ちゃん。たしかに屈辱ではあったけれど、お兄ちゃんを屈服させるためのいい「ネタ」になったので良しとしよう。

「気にしないで、お兄ちゃん。それより、いま言ったこと、忘れないでね?」

「あぁ。僕もそこまでイジワルじゃないよ。埋め合わせは必ずする。約束だ」

 お兄ちゃんが小指を立てた右手を差し出したので、ユビキリをした。

「ゆ〜びき〜り、げーんまん、ウーソつぃたら――針千本なんてもう古いわね――毒針1本刺すわよ。ゆ〜びきっったッ!」

「それじゃあ語呂が悪いよ。リズムにも乗れてないし」

「文句ある?」

「……いや、とくにないです」

「よろしい!」

 わたしはそのままの勢いでお兄ちゃんの手を握って、夜の街を早歩きした。

 しかし明るいところに出た途端、お兄ちゃんは手を離して無表情になってしまった。残念ー。




     シックス


「……ねぇ」

「ん」

「暗いね」

「見ればわかるだろ」

「冷たいなぁ……」

「あぁ、風が冷たい、塩の香りもする」

「そうじゃないよぉ……。いや、いいや」

「…………」

「……お兄ちゃん」

「ん」

「なんかしゃべってよ」

「『なんか』って、漠然としすぎていて何を話していいかわからない」

「じゃぁ、ネタ振るけどさぁ。お兄ちゃんはなんでそんなに冷めてるの?」

「ネタというかただの質問だね」

「……話をそらすってことは、言いたくないんだね」

「言いたくないというより、意味がわからないんだよ。『なんでそんなに冷めてるの』って聞かれても、僕は冷めてる自覚はないから」

「ウソ。だってお兄ちゃん、見た感じフツウの人間だけど、それってただの演技なんでしょ? 本当はすごく冷静なんでしょ?」

「冷静じゃないよ。平静だよ」

「あうぅ、そっか……」

「………………」

「じゃぁ、ちょっと話題を変えるけど、お兄ちゃんは超能力って信じる?」

「シックスセンスなら半分だけ信じてるよ」

「?」

「ん、知らないかい。シックスセンス。日本語では第六感だね。つまり、五感以外の感覚のこと。常識を超えたチカラという意味では、超能力と同じだよ」

「ふぅ〜ん。で、半分って?」

「可能性の問題として、常識を超えた何かが存在するってことは十分にありえることで、否定はできないんだよ。しかしだからって体験していないこと、知らないこと、未知。それらを100%信じるわけにもいかない。証明していないのだから。だから、どっちつかずになってしまう。したがって、僕は公平に、半分だけ信じて半分だけ疑おう。と、そういうわけさ」

「んじゃ、『シックスセンスなら』っていうのはどーゆーこと? 超能力と区別する理由は?」

「シックスセンスと超能力の違いなんてどう定義されているのか知らないけどね、僕が考えるに、感覚と能力の違いなんだと思うんだ。感覚と能力の違いはわかるかな?」

「んー……、感覚は、感じることができる。能力は、することができる。かなぁ?」

「ほとんど正解だね。もう少しつっこんで考えるなら、感覚は、何か物事が起こってからそれを感じ取るんだ。つまり、受身、受動的なもの。能力は、何も起こらないうちに、何かが起こる以前に――というか、そういうことは関係なく、自ら何かを起こす、ってことだよ。つまり、能動的」

「……それはわかった。でも、受動は半分信じてるのに、能動は違うって、どーゆーこと?」

「あぁ、ただの偏見。『卑怯』の度合いの問題。感じるだけならまぁ、良しとしよう。でも、常識を超えたなんか凄いことができるなんて、卑怯すぎるだろ。そんなの才能勝ちじゃないか。努力もへったくれもないね。でも世界はそういうふうにできている。不公平に、不平等に、不条理に、弱肉強食だ。だから僕の文句なんてちりほどにも意味が無い。戯言だよ」

「……お兄ちゃん、なんか『いーちゃん』みたいだね、『戯言遣い』の」

「あれ、バレちゃったかい。僕は哲学が苦手だからね、ちょっと彼の考え方を拝借した。

 しかし、さすがミステリマニア。西尾維新も読むんだね」

「うん! なんかよくわかんないけど、人間っぽくておもしろいよね」

「そうだね。人間って、なんであんなに意味の無いことばかり考えるのかな。いや、これも戯言か」

「もー、お兄ちゃん、それやめてよーっ! そんなの逃げだよ!」

「逃げるもなにも、僕はそもそも戦っていないじゃないか」

「それでいいの! お兄ちゃんは戦わなくていいの! 戦うのは愚民の役目よ!」

「それじゃぁ、僕が王様みたいじゃないか」

「王様だよ! お兄ちゃんは王様なんだよ!」

「はいはい」

「ハイは一回!」

「……はい。……でも、王様に向かって命令するカヨって……」

「ん、なにか言ったぁ?」

「いいえ、何もありませんよ、お嬢様」


 わたしとお兄ちゃんはそこで別れた。波の打ち寄せるザパ〜ン、という音を聞きながら。互いに背中を向けて、逆方向に。

 わたしはすぐ振り返ってお兄ちゃんの姿を探したけれど、そこには闇がたたずんでいるだけで、なにもなかった。それは、真っ黒なお兄ちゃんが闇と同化して見えなかったというより、本当にかき消えてしまったという印象だった……。




     エンディング


 本当は、もっと別のことを聞きたかった。

 ――お兄ちゃんは、なぜわたしだけ残してるの?

 お兄ちゃんの家族は昔、本人を除いて4人いた。でも今はいない。わたしだけが残っている。それは、お兄ちゃんが望んだからそうなっているのだ。

 ではなぜ、わたしだけが残っているのか――否、残されているのか。

 その一応の理由はあの『手記』に記されていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。本当はもっと深い理由があるんじゃないか。

 そんなはずはないのに、お兄ちゃんにそんな感情なんかないって知っているのに、

 わたしは、そう願わずにいられないのだ。

 わたしがここに生きている理由があるんだと、信じたいのだ……

 あーぁ、シックスセンスでも超能力でもいいから、お兄ちゃんの心が知りたいなぁ。

 知りたいよぉ……。


 叶わぬ夢。

 求めても意味のない、けれど求めてしまう、願い。


 人間って、なんであんなに意味の無いことばかり考えるのかな――


 お兄ちゃん。

 どうやらわたしも人間みたいです。

 悲しいけど、そうみたいです。

 お兄ちゃんは、違うんですか……?

 お兄ちゃんは、人間じゃないんですか……? ほんとうに…………

 いやです。そんなの、悲しいです。

 お兄ちゃんが人間じゃないなら、わたしも、それがいい。

 人間じゃないほうがいい……


 わたしは、眠りについた。

 まくらを濡らして。

 人間だから、涙が出るの……


 お兄ちゃんといるときには、こんな悲しい涙は出ないのに。

 お兄ちゃんを見ていると、理屈ぬきで安心していられるのに。

 とってもとっても幸せなのに。

 わたしの心の平穏は、お兄ちゃんといるときだけ、保たれる。

 学校や家にいるときの――平和な日常ではなくて。

 お兄ちゃんといるときの――非日常が、

 夢のようなひとときが、

 わたしにとってまさに、

 平穏なのだ。



     END


 実の兄妹でありながら、どこまでもすれ違い続ける二人。彼らは今後どうなってゆくのでしょうか。それともずっとこのまま……? 作者のボクにも、まだわかっていないままです。

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― 新着の感想 ―
[一言] ますますわからないこの兄妹…でも前作と前前作を読んでいるのでだんだん愛着がわいてきます。カケルが鉄を食べてる発言をした時、不思議と納得できちゃいました。だってもはや人間かどうかも曖昧ですもの…
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