第30話 溢れる思い出
鷹也は忙しい。通常の仕事がある。会社でも責任のある立場だ。
家政婦を雇う必要がある。当面は自分の母親に協力をしてもらわなくてはならないと思い、思わずため息がもれた。
「明日……」
「ハイ……」
「離婚届をもらってくる」
「ハイ……」
「明後日はスズと一緒に実家に行く。その間に準備を整えて出て行ってくれ」
「ハイ……」
刻限が決められた。
しかし彩は泣かない。鷹也に言われるまま大きくうなずいた。
「お世話になりました」
「……うん」
「タカちゃんを愛してました」
「そうか……」
「未練ですがこれからも愛していると思います」
「そうか……」
二人の間に重いとも違う変な空気が漂った。
決まってしまうと、許せないとか反省とかという気持ちが少しだけ宙に浮いてしまった気がした。
「オレも未練ついでだ。何回も言うがお前はオレの天使だったよ。ずっと愛していたし、アヤを思うからこそ辛い仕事も頑張れた。キミの父さんに最後に託されたんだ。キミには内緒だったが苦労をかけるかもしれないが夫婦仲良く、解決して行ってくれ。……と……。だから遮二無二働いた。それが夫とキミの父親代わりとしての責務だと思っていたんだ」
「それを私が一番の裏切りをしてしまったんだよね」
「……そうだ……」
「中学のころからタカちゃんを好きだったんだ」
「そうか。オレもだ」
「別々の高校の時も週末は一緒にいたもんね」
「そうだったなぁ〜」
とりとめのない話だ。二人だけの昔話。
何もわからずデートをして失敗した話。
鷹也の方が少しばかり身長が低いがサバを読んで大きく言っていたのを知らなかった話。
同棲した部屋の壁がボロボロだった話。
子供が出来た時、産まれた時。
長い長いひとりぼっちの時間が寂しかった話……。
強がって平気な顔をしていたが実は玄関のドアノブが回るのを期待して見ていた話。
その話にも裏切りの時がやってくる。
彩が裏切ったこと。それを許せないこと。
鷹也の気持ちを踏みにじったこと。もうこの家にいれないこと。
二人の話は終わった。鷹也は目の前の一冊の通帳を手に取り彩へ渡した。
「これは車検代とか新しい車を買う為に積立てしていた通帳だったな。120万円あるんだろ? これはお前にやるよ。今まで苦労をかけた謝礼だ。本来はキミは不貞を働いて慰謝料を払わなくてはいけない。スズの養育費も払わなくてはいけない。だが許す。これだけしか渡せないがこれを元にこれから暮らして行ってくれ」
「そんな……。タカちゃんが頑張ったお金なのに……。ありがとう……」
「スズにはもう会わせられない。辛いだろうが忘れてくれ」
「ハイ……」
「……オレたちはもっと今みたいに話し合うべきだったのかも知れない。お前の過失だが、オレにも過失がなかったわけじゃない。だがそれは結果論だ。失敗はやり直せる訳じゃない」
「そうだね」
「さぁ、家族なのはあと一日きりだ。もう寝よう」
「ウン」
二人は互いの寝室に向かい横になった。
昨晩は眠っていない。体は疲れているはずなのだが寝付けない。
鷹也はずっと暗い天井を眺めていた。
彩はもう会えなくなる鈴の寝顔を見ていた。
こうして長い長い一日は終わった。




