(5)
ストックが切れそう。
最近忙しいよお。
私の前を闇の奔流が駆け抜けていった。
アークの闇魔術が猛獣型の魔物――ダークウルフを呑み込み、周辺の木々をも巻き込みながら大きなクレーターを象る。縦横無尽に駆け巡るそれは、圧巻の一言だった。最早災害レベルの力である。不定形な闇が重量を伴って荒れ狂う様は、見ていた私を畏怖させるのには十分だった。地球においても、前世においても、ここまでの純粋な力はなかなか見なかった。表向きは平和だったあの世界では、ここまで思い切りぶっ放す事は出来ない。周辺の地域に迷惑を掛けてしまうのを嫌うのだ。
「ふむ。手ごたえがないな」
アークは顎を撫でながら、ボソリと言った。
ここは樹海の中層である。ゴブリンの様な雑魚だけではなく、油断すると命を刈り取られかねない自然界の猛者が跳梁跋扈している。そんな最中、私も多少は気を引き締めながら歩いていたのだが、今の所私の出番は皆無の様だった。アークは出会った瞬間――いや、察知による出会う前から高火力の魔術を惜しみなく放つ為、一切無駄のない蹂躙劇が繰り広げられるのである。この樹海の生態系が変ってしまわないか、そっちの方が私は心配だった。屋敷周辺にまで押し込められたゴブリン達が不憫でならない。前門の虎後門の狼とは、正にこの事だ。弱肉強食とは儚いものである。
「私の出番も残しておいて欲しいな」
アークの背後に立ち、私は苦言を呈した。
「樹海に来ているのは、私の調子を確認する為なんだよ?」
「そんな事は分かっている。だが、初めて遭遇する魔物には俺が見本をしてやった方が安全だろう。お前がどんなギフトを持っているのかは知らないが、魔物は容赦してくれない。万が一の為の配慮だ。分かるだろう?」
「そういうのも含めての肩慣らしだよ」
「ああ?」
「だからね、もし仮にアークが傍に居ない時に知らない魔物に襲われたりしたら、今経験していない所為で対処に遅れるかもしれない。今だったら、ここの魔物を物ともしないアークが傍に居るんだから、今のうちに練習しておくべきなんだよ」
「お前は俺に付いて行くのだから、傍に居ない事なんてないだろう」
「絶対はないよ。別行動する場合もあるかもしれない」
「例えば?」
「さあ」
私は肩を竦め、アークを抜き去って歩き始めた。「兎に角。次は私の番だよ」と念を押しておくと、アークはしぶしぶ頷いた。どうにも過保護である。『歪な存在』だと、人とは思えないだと語るのに、実際に私が難なく魔物を殺すところも見ているのに、何だか私が矢面に立つのを忌避している様に思えた。折角捕まえた猫なのだから大事にしているのかもしれないが、このままの調子が続くようならば、考えなければいけない。私は私の愉しみを邪魔する奴が一番嫌いなのだ。それは生前から言っている事である。
私の出番が回って来たのは、それから三十分後の事だった。
樹海の中腹に点在する湖に、オークが六体休んでいた。姿は間違いなく豚である。二足歩行なだけに肥えた中年の様な風体をしている。オークと言えば、地球においてもいわゆる女の敵として有名なのだが、成る程確かに、女としての根底に響く様な嫌悪感だった。生理的に無理というのは、きっとこういう事を言うのだろう。鼻が利く私には、臭い的な面においても出会いたくない存在だった。
「ま、じゃあ手は出さないでね」
「分かった」
アークはいつでも助けに入れる様に木の蔭に隠れた。私は気配を消すことに掛けては一家言を持っているのだが、アークもまたそっち方面の技術を習得している様だった。火力にモノを言わせている姿しか見ていないから、少し意外である。ただ、『絶対的な存在』と思うからには何においても問題なく熟せるのだろう。私は持ってきていた匕首の鞘を抜き払いながら、気配を限りなく消してオークに歩み寄った。魔術を使う事も考えていたが、今回は近接戦だ。記憶の断片からトレースした動きは、それなりに様になるものだけれど、如何せん、人としての肉体には限度がある。それでも、オークくらいなら相手にならない筈だ。粗末な槍を持ってはいるが、所詮獣に毛が生えた程度の知恵である(この比喩を使うと、獣は体毛が多い分、何だか特に賢い生物の様に聞こえてしまう)。というか、そもそも戦闘云々以前に私の存在を察知できるだけの力量は備わっていなかった。
「雑魚は死すべし」
私は複合されたギフトの一つ『怪力』を行使する。
強化された筋力のまま、私はオークの背中を一閃。それは正に鬼の如き力だった。気が付けばオークの上半身と下半身は別れていた。周囲に居た同胞が驚愕に声を上げる。まさに豚の鳴き声だった。濁った音である。今のアクションで私の存在は露呈した。他のオークが私目掛けて槍を振るってくる。私はそれを難なく躱すと、次々とオークを両断していった。体格なんて基本的にはどこの世界も関係ないのである。華奢な私は怪力無双で名を馳せた存在だった。オーク如き相手になる訳がない。
「肩慣らしにもならないね」
匕首を鞘に納め、私は倒れ伏したオークを見下ろした。
真っ二つなのである。私じゃあるまいし確実に死んでいるだろう。影から出てきたアークはオーク共を見下ろし(アークとオーク似ていると思った)、「どこから、そんな力が出ているのだろうな」と小さく呟いていた。私という存在にそれは愚問である。性質的にそういう存在なのであってそこに確かな理由はない。強いて言えば伝承の賜物である。この異世界でこそギフトとして発現しているが、それこそ生前は意図せず物を壊してしまう事も間々あった。当時は溢れかえった力を持て余していたのだ。今での本質は変わらない気もするのだが、特に昔は享楽的だった。大好きな酒になら溺れて死んでも良いと思えるくらいに、他のなにより享楽を優先した生涯だった。
「じゃあ、今日はもう少し奥に行こうか」
私はアークに告げて歩き始める。
正直、オークやゴブリンは相手にならない。私の心は躍らない。この世界には龍やそれに比肩する伝説級の化物が居るそうなのだが、如何せん、そういう存在にはなかなか出会えないものらしい。この世界は広いのだ。地球よりもずっと。大きな図体ではあるにしろ、一個体と一個体が出会う確率なんて相当低いものである。私の方から探しにいかなければ、出会う事はきっとないのだろう。過去には同類と死闘を繰り広げた事もあったのだが、今の私はギフトによってあの頃よりもきっと強い。誰にも負ける気はしない。それでも慎重を期すのは、きっと私が多少丸くなったのだろう。昔はそれこそ後先考えずに行動していた。それが時には功を奏す事もあったのだが、逆に死に直結した事もあった。
前世が遠い夢の様で、今の私はきっと当時とは別の人間なのだと思う。その過去が性格に影響したのは間違いないのだろうが、しかし、私は『藤堂アリス』である。前世の名は様々だったが、少なくとも藤堂アリスではなかった。私の前世という認識はあるのだが、同一人物ではないのだ。そんな私がこの世界で何を成すのかは分からない。何度も言うように、本質はまったく変わっていないのだ。快楽主義の自己中心的な女である。そんな私が最終的に何処に行き着くのかは、純粋に興味があった。
アークが旅の供をして欲しい、と言ってから五日経った。
明後日にはこの閉ざされた樹海の外を出るらしい。本での知識は多少得たにしても、やはり新しい世界を見に行くのだ。ジパングを求めるマルコポーロの心境である(私が歴史的な人間を挙げると違和感がある)。いいや、規模を考えるのならば私の場合もっと壮大な話になってくる筈だ。何せ大陸ではなく世界そのものだ。これほどスケールの大きな観光は前世今世両方においても初めてである。近江の山に根付いたのはおおよそ間違いだった。慕ってくれていたあの子達は可愛かったけれど、悦楽的な刺激があの場所にあったかと言われたら、決してそんな事はなかったのだ。面白おかしく生きていたにしろ、きっとあの頃の未練が私の中には残っている。別の世界ではあるのだが、その未練を無くす為に私は舞い戻って来たのかもしれなかった。悪鬼羅刹を蘇らせるとは、世界も粋な事である。
もっとも、現代も割と魑魅魍魎渦巻く世界だったけれども。