(2)
私は柄にもなく、久しぶりに吃驚していた。
樹海へと足を踏み入れてから、おおよそ二十分程。一般人よりも視野の広い私が見付けたのは、覚えのない生物だった。距離はまだ開いている。向こうは間違いなく私に気が付いていないだろう。二足歩行で歩くその生物は、棍棒を手に持っている。素振りなのか、その棍棒を空中に向けて振り回していた。練度は大した程ではない。
「動物……って感じではないかな」
それこそ猛獣が出る事も予想していたのだが、的が外れた様である。
二足歩行や棍棒、腰に巻いた何かの毛皮は少なからず知恵を持つ象徴だ。化け物じみた外見ではあるが、人型の生物である――しかし、青白い肌や朱色の瞳、伸びた牙はお世辞にも人と呼べる特徴ではなかった。異形の存在だった。
私は覚えのないその存在を、小説で見た事があった。
一説によると、邪悪な精霊らしい。また、別の一説には意地の悪い妖精だと記される事もある(邪悪とは限らない)。他にも醜い幽霊の姿だとか、小さき鬼、ノームやドワーフの一種とされる事もあるが、一般的には邪悪かつ醜悪な小人として描かれている。ここまで語れば分からない者はいないだろうが、私が見た異形はゴブリンそっくりだった(私のゴブリン像にそっくりだったのだ)。
「……何だか、先が見えた気がするよ」
私は木の蔭に隠れながら、密かにため息を吐いた。
何度か目を擦ってみたけれど、ゴブリンらしき異形は確かに実在している。ファンタジーではあるにしても、夢や幻ではない。まごう事なく現実である。ならば、あの異形に対して何かしらの反応を示さなければならない。もちろん道を尋ねるとか、今の状況を説明して貰うとか考えてはいない。ただ、ここまで露骨な手掛かりなのだ。見ないふりをするのも味気ない気がしている。というか、不思議な生物との邂逅に少なからず高揚していた――いざとなれば武器も持っている。そもそも、武器がなかろうと私は強い。人の身ながらバケモノと謗られた事もあるくらいである。それに伝承によれば、ゴブリンは下級の存在らしいから命の危険もなくはないにしても、割と低いのではと思われた。
私は隠密の如く息を殺しながら、異形に歩み寄った。
木から木へと移動する。念の為に匕首を構えながら、異形の近くの木に背を預ける。ゆっくりと息を整えてから、出来るだけ音を立てずに歩み寄った。遮るものは何もない。幾ら音を立てなかろうと、異形の視界内で動いているのだから、見つかるのは自明の理だった。そんな事はもちろん理解していたから、匕首は既に抜身の刃である。
「やあ、ゴブリンくん。機嫌が良いね――」
出来るだけ気に触れない様笑みを浮かべた私だったが、しかし、かの異形は私を視認した時点で襲い掛かってきた。戦闘の合図は、異形が放った蛙が潰れた様な声だった。粗雑な棍棒を振り回しながら、突貫してくるのを左に跳んで避ける。なんてことはない速さだった。女の私よりも恐らくは遅い。いや、鈍いと言うべきか。空を切った棍棒に激昂しながら、再度異形は私を襲ったけれど、今度はすれ違い様に匕首で肩を斬りはらった。ゴブリンの身体が脆いのか匕首が鋭いのか、恐らく両方だとは思うが、私は匕首の切れ味の良さに驚いた。腕力がほとんど必要なかったくらいだ(その道を志す者ならば、刀の良し悪し関係なく、力要らずに斬り裂けるらしい)。
「飾られるだけあるみたいだね。ご愁傷様」
異形は棍棒を落とし、地面に這い蹲っている。結構深く入った感触はしたが、もう動けなくなるくらいの傷ではない。致命傷足り得ていない。私は匕首を弄びながら、異形が立ち上がるのを待っていた。その間に考える事はこの場所の事である。いよいよ、謎が深まってきた気配がする。屋敷の中では大体が茫洋としていたのだが、外に出て何となく理解出来た。それは私の直感にも従った、純然たる結論である。正直、信じられない気持ちもない訳ではないのだけれど、あらゆる路線を想定していた身としては、収まるところに収まったと言うべきなのかもしれない。使い古された常套である。実は日本にもゴブリンが生息している、という展開もないではないが、むしろそっちの方が稀有な考え方だ――もっとも、まだ確証はなく、直感でしかないのだから、断定するのは控えるが――ここは、考えが正しいとするならば、日本ではないどころか地球圏内ですらないのかもしれなかった。
「……ありふれた展開かな」
小説の中でなら、という前置きは必要だけれども。
私はやっと起き上がった異形を眺め、また息を吐いた。
襲い掛かってくる異形を避け、今度は脇腹に一閃。血を噴き出しながら、地面に沈んでいく異形は掠れた呻き声を上げた。断末魔とも言うのかもしれない。厳密にはまだ生きている様だったから、苦しまない様に止めを刺した。触るのは躊躇ったが、血の付いたまま鞘に納めるのも憚られたから、異形の布巻で軽く拭ってから納刀する。人型の生物を殺した事に、何の感慨も抱いていなかった。醜悪だったからなのか、人間ではないと思ったからなのか、それともそういう性なのか、それは分からない。しかし、殺す事を躊躇う様な人間でない事に私は安堵した。怯えながら殺される醜態を晒さなくて済みそうだ。
それから、森の中には様々な異形が住みついて居る事が分かった。
どうやら私は相当危険な所に迷い込んだらしい。常人よりも視野が広いから何とか立ち回れるものの、異形の種類も千差万別だ。獣の姿をした異形は当然ながら嗅覚や聴覚に優れ、少し立ち回り方を誤ると簡単に気付かれてしまう。中には不定形の生物や、ゴブリンが可愛く思えるくらいの巨大生物、挙句の果ては竜らしき影も見た。正に魑魅魍魎が縦横無尽に跋扈する人外魔境と言った風情である。人の踏み入れる領域ではない。少々私が特殊だから良いものの一般人ならば、直ぐに死んでいる事だろう。ふとその辺りに、私がこういう現状に巻き込まれた一端がある様な気がしていた。自惚れではなく、私の力は地球じゃあ異端だったのだ。何を基準にしても私は強者だった。
井の中の蛙だと、言いたいのだろうか。
流石の私も正真正銘の化物と比較されても困る。あくまで人間的には異常な存在だっただけなのだ。強いとは言ったけれど、化物を相手に出来る程私は人を辞めてはいない。せいぜい物を宙に浮かせるくらいの、可愛らしいマジックの類である。そのくらいなら、種も仕掛けも用意すれば出来る人だって居る。種も仕掛けもないから異端だった訳だが、つまりはそれが化物相手に通用するか、という話である。
工夫を凝らせば、通用するかもしれない。
しかし、そもそも生物的な地力が違う。その種も仕掛けもないマジックが、果たして化物に通用するのかどうか――こう考えている時点から、私は化物に取って比較にならない存在なのである。私の力は通じるかどうか分からないが、化物の力は間違いなく私に通じるのだ。こう捉えると、彼我の力量差は明らかである。
私は自分の力量と、相手の力量を見極めながら進んでいた。
先ほどのゴブリンは、はぐれだった。その後に見たゴブリンは全て群れて行動していた。複数の相手は接触しない。人型でないのも接触しない。そういう風に定めながら、単体で行動している人型の生物にだけ、接触していた。別に何かを得られる訳ではない。異形の者は日本語を介す事は出来ないし、私も異形の言葉は分からない。結局は出会った瞬間戦闘に入ってしまうのだけれど、慣れる心算で戦っていた。
もちろん、深追いはしなかった。
現状をようやく理解し始めた段階なのだ。好奇心は猫を殺す、とも言うのだから、例えゴブリンが出ようとも、竜を見掛けようとも線引きは大事である。全体を見るのならば、私はここから出る事は出来ないのだから、まだまだ時間はある。せっかく面白そうな展開になってきたと言うのに、今死ぬのは勿体ない。せめて諸々楽しんでから死にたい。私はある程度樹海を散策し終えると、聳える屋敷を見据えて帰路に着いた。
丁度お腹も空いた所だった。久しぶりに結構歩き回った気がする。異形との戦闘も良い運動になった。永らく惰性を溜め込んできた肉体が、一気に解放された様である。私は元来インドア派なのだけれど、運動も嫌いじゃあなかった。恐らくは、運動神経に恵まれていたからだろう。最近運動が不足しがちなのは気になっていた。意図せずゴブリンと戯れる結果になったのだが、一人で運動するよりかは楽しかった。インドアなだけに、元々のモチベーションは低いのだ。飽きたら辞める程度の運動をたまに行っていたくらいである。だが、ゴブリンとの戦闘では勝利するという目的もある分、ゲーム的な達成感があった。もちろん、ゲーム感覚で油断してはいけないのだが、戦闘狂という言葉の意味を少しだけ分かった様な気がしなくもないのだった(語れるほどに戦闘を熟してはいない)。
屋敷への道では、運よく異形には出会わなかった。
私が調節していた部分はあるが、まったく全てを避けられる訳でもない。道を遠回りするとそこでも異形に出くわす可能性があるから、勝てる相手であるのならば、躱さない方が無難なのだ。だから一度も遭遇しなかったのは間違いなく運が良かった。私は行きよりも比較的安全に屋敷へと帰ってきた。
汗は掻いていないが、折角だからシャワーを浴びる事にする。
衣装室から適当に服を見繕い、浴室に向かった。豪華な設備なのである。これは使わなければ勿体ないとは思っていた。私は汚れたネグリジェを脱ぎ捨て裸になると、浴室に入った。中の設備は、日本で見るのと変わりはない。大理石で出来ているみたいだ。私はサラっと全身を洗い流し、軽く風呂に浸かってからあがった。長年使われていないのならば、きっと湯船は張られていなかっただろう。生活する為の物が揃っている事と言い、私が客室に寝かされていた事といい、絶対誰かこの家の主が居るのだと思った。確かに今は居ないだろうが、もしかしたら帰って来る可能性もある。それにしては不思議な点もあるのだけれど、それは今考えても解けない謎である。家主に会ったら聞くとしよう。
衣装室から持ってきた白いドレスを着ると(ほとんどドレスしかなかった)、キッチンで軽く昼ご飯を作る。賞味期限など書かれていなかったが、おおよそ問題なさそうだった。これでも一人暮らしをしていた身である。料理に一家言を持っている訳ではないが、それ相応のレベルに習得している。簡単なサラダと味噌汁、見慣れない魚があったから、それを切り分けて刺身にした。先と同じく食堂にあるテーブルに、料理を並べた。「いただきます」と手を合わせ、静かな雰囲気の中、黙々と食事を終えた。デザートにケーキも食べたのはご愛嬌である。私は暫くの休憩を挟んだ後、もう一度屋敷の中を探索した。その最中、私が元々寝ていた部屋も見付かった。荒れたベッドや開かれたカーテン等を見るに、間違いないだろう。どうして迷ったのか分からない。あの時、三時間も掛けて一つのエリアを探索したのだが、今思えば、それ程の時間が掛かるものだろうか。二階や一階はもう少し比較的スムーズに見回る事が出来た。確か構造的な違いはなかった筈である。私は屋敷の中を歩きながら、首を傾げる。直感的には、そこに何かがあった気がしているのだ。別に重要かどうかではない。確かに、何らかの干渉があった様な感じが肌に伝わってきた。それが何なのかは分からない。ゴブリンが居る世界だ。魔法があってもおかしくはないし、何かに惑わされてもおかしくはない。つまりは何があるのか分からないのだ。この世界のルールが、概念が分からない。それは恐ろしい事である。私はそれほどルールに囚われる人でもないのだが(もちろん、法律は守っていた)、それは分かっていた上で匙加減が出来るからである。何が良くて何が悪いのかを知っているからである――だから何も分からない、謎も深まる現状には少なからず危機感を持っていた。楽天家として名を馳せていた私が、である。情報収集は重要だと言えた。確かこの屋敷には書庫が所々にあった筈である。私は今日の残り時間を使い、本を読み込む事にした。
ただ、そこでも不思議な現象に見舞われる。
私は本に綴られた言語を知らなかった。しかし、どういう事なのか、その言語を読み解く事が出来たのである。解読出来るのではない。頭の中でその言語が日本語に修正される様な感覚だ。知らないのに分かる。その感覚はとても不思議なものだった。視覚から得た言語を、間もなく翻訳している。私の頭の中には翻訳機でも詰め込まれたのか、なんて一瞬考えた。或いは地球ではないのだとすると、超常的な何かが絡んでいる事も疑った。結局は、これも答えは出なかった。私は好都合だと思う事にした。
私がその謎の手掛かりを見つけた頃には、すっかり夜も更けていた。