第四話
月明かりが逆光となり、康平は影でしか捕らえる事ができなかったが、確かに影は晃であった。
障子が開くと同時に紙垂が又一枚千切れ落ちた。残る紙垂はあと一枚。
「あと、一枚だね、あははは」
晃の乾いた笑い声が月明かりの夜空に響いた。
「極めて汚きも滞りなければ穢はあらじ 内外の玉垣清浄と申す」
どこからともなく祝詞が奏上される。
それは、晃の後方、神社の境内で月明かりに照らされた一人の巫女姿の女性が唱えたものであった。
白き単衣に緋袴、顔には能面を被りその手には大幣(注1)が握られていた。
「一切成就の祓!」
祝詞と供に能面の巫女が大幣を払うと、漆黒に染まった注連縄と最後の紙垂がみるみるうちに元の色を取り戻していった。注連縄と紙垂から取り除かれた黒いモヤが晃に向かって吸い込まれていく。その衝撃に晃がその場に片膝をつき動きを止めた。
「叔父様!」
そう叫びながら巫女が片膝をついた晃の横をすり抜け、正一の元に駆け寄る。正一を抱き起こした巫女は何やらぶつぶつと唱え、最後に”六根清浄”と祓った。
「うう、お前は……明日香か?」
目を覚ました正一は能面を被った巫女を見て、姪の明日香の雰囲気を察した。
「貴様、五郎丸の血筋の者か」
立ち上がった晃は能面を被った巫女装束の明日香を憎憎しげに睨む。
「儂もおるぞい」
その言葉に晃が振り返ると歳の頃は七十になろうかという老翁が立っていた。
「き、貴様……、二又瀬!」
翁の名前は二又瀬 武士。白髪に白く長い髭をたくわえた好々爺。
二又瀬はかつて裏野ハイツ102号室に住む住人であった。いや正確には裏野ハイツがある場所にあった井戸を監視・管理する在野の神主であった。かつて晃に憑いたものを人形に封じこめたのもこの翁であった。そのいでたちは白の羽織に白き袴を履き、袴には白い藤紋が施されてあった。
神職は六つの位があり袴の色で位がわかれる。五郎丸 正一が履く藤紋のついた濃紫の袴は、八藤丸文紫緯白と呼ばれその位は一級を表し、全国2万一千を超える神主の中で二百数十名しか履く事が許されていない。そして二又瀬翁が履く白き藤紋の白き袴は、八藤丸文大文白と呼ばれおよそ七十名程度しか履く事が許されない物であった。
「晃君、なぜあそこに近づいたんじゃ。二度と近づいてはならんと言ったはずじゃが」
「だまれ、くそじじい! ”君”は俺だ。俺は”君”だ。二人で一人なんだ! それを貴様が無理やり……」
生まれながらに憑かれた晃は人格が壊れていた。哀しみや恐怖といった感情が欠落していたのだ。だからそういった感情が必要になる時、晃は笑うしかなかった。笑いたくなくても笑うしかなかったのだ。
「じじい、貴様は俺が生まれる前に俺を殺そうとしてくれたな、あはははは」
かつて二又瀬翁は晃が生まれる前に、妊婦の三輪 朋子に言った事がある。”その子供を堕ろしなさい”と。こうなる運命が待ち受けている事は翁にはわかっていた。生まれながらに祓えぬ穢れに憑かれた者が幸せな人生など歩める筈も無いと。
「そうよ、あなたなんか生まれて来るべきじゃ無かった。あなたさえ生まれてこなければお母様は……」
正一を抱きかかえたまま明日香が能面ごしに晃に視線を向ける。
明日香の母、五郎丸 偲も又、巫女であった。
二十年前、晃と対峙するには一人で手に余ると判断した当時の二又瀬 武士が、近隣の神社に応援を要請した際、ほとんどの宮司は自分達の手に負えないと断った。そんな中唯一、武士に手を貸したのがこの神社で神に仕える偲であった。古来より神職の家系である五郎丸家は男は神主、女は巫女に就く事が慣例で、中でも偲の”神降し”の素質は飛びぬけていた。
偲の協力を得た武士は、晃に憑いたものを偲に移し変える事で中と外から封印する事を選んだ。あまりにも力が強すぎる為、魂を持たない人形の依代では封じきれない可能性が高かったからである。無論素質があり修行を積んだ巫女とはいえ、生身の人間に憑きものを降ろすなど危険極まりない方法ではあるが、当時はそれ以外に選択肢がなかった。
結果は半分成功であった。最終的に人形に封印する事は出来たが、偲の依代としての負担が大きすぎて魂が消滅してしまったのだった。
「あははは、だったらどうする? また俺を封印するか? 今度はその小娘に」
「否、今度はお前を完全に消し去る。ここには三人の神職がおる。特級一人に一級一人、そして偲を超える素質をもつ明日香がのう」
翁は淡々と述べる。
「あははは、あははは、あははは、俺を完全に消し去るって、あははは」
正一が明日香の手から立ち上がり、明日香もまた立ち上がり、本殿から境内に下りていく。
「加えて今宵は満月でここは霊験あらたかな神社の境内じゃ。儂らの力は強まりお主の力は弱まる。ここまでの条件が揃えば、かつては出来なかった事も今は出来ようて」
「あははは、あははは、あははは」
「正一、明日香、三種の大祓いじゃ」
「あははは、あははは、あははは」
満月が晃と晃を囲む様に正三角形を結ぶ頂点に立つ三人を照らす。
「吐普加身依火多女」
明日香が奏上する
「あははは、あははは、……」
「寒言神尊利根陀見」
正一が奏上する
「あははは、……」
「波羅伊玉意……」
「やめろーーーー!!」
三種の大祓い、最後の祝詞を奏上しようとした翁と晃の間に康平が割って入った。その手は大きく広げられている。祝詞が中断された事で一時自由を回復した晃はその場にしゃがみ込む。
康平には晃の笑い声が叫び声に聞こえていた。
”助けて、おいていかないで、見捨てないで”康平にはそう聞こえていた。
「康平君、今ここで完全にこの穢れを消し去らないと二度とこんなチャンスは無いんだ、邪魔をしないでくれ」
正一が康平を諭す。
「違うんだ! 晃はただ、ただ助けて欲しいだけなんだ!」
「助ける? 何から? こいつがお母様を殺したのよ! こんな奴生まれてこなければ良かったのよ!」
能面をはずした明日香が涙を浮かべて康平を睨む。
「……、お母さんを失った君の辛さは俺には想像も出来ない。でも晃が生まれてこなければ良かったなんて、そんな事絶対に無い。晃は俺の大切な友達なんだ!!」
「…ト…モ…ダ…チ…」
しゃがみこんだ晃が満月を見上げる。
「あははは、あははは、……」
笑い声をあげる晃の瞳からは涙が流れていた。
刹那
「波羅伊玉意喜餘目出玉」
翁が三種の大祓い最後の祝詞を奏上した。
「グ……ガァァーーー!」
晃が痙攣を起こしその場に昏倒する。
「あきらーーー!」
康平が晃に駆け寄り抱き起こす。晃は白目をむいて口から泡を吹いていた。
「ごめん、晃、気づいてやれなくて」
大粒の涙が康平の瞳から零れ落ち、晃の顔にかかる。
「案ずるな、康平君。祝詞とは本来神様への信奉心を伝えるもので、悪霊や邪気を祓うものでは無い。神様への感謝の気持ちを込めて祝詞を奏上する心こそが本来の正しき姿に戻す大いなる力になる。そこから転じてまるで祝詞が悪魔祓いの様に扱われる昨今の風潮はあまり感心せんがのう」
晃を思う康平の言霊が、孤独を恐れ助けを求める晃と晃に憑いたものに浄化作用を及ぼし、三種の大祓いによって二人を結んでいた歪んだ繋がりを断ち切る。後は浄化作用によって程なく晃に憑いたものは昇華し、晃も本来の姿に戻るであろう。それが翁の見解であった。
「今回は康平君に教えられたわい。我々神職にあるものはとかく穢れを忌み嫌い祓う傾向にある。悪い事ではないのだが、それだけでは今回の様な時には最善の行動がとれない事もあるとのう」
翁がそうポツリと呟くと時を同じくして、気高き山々の向こうから朝陽が登り始めていた。
朝陽を浴びた晃が目を覚まし、自分を抱きかかえる康平を見つめる。
「……康平ありがとう。君の声が聞こえたんだ。”俺の大切な友達だ"って」
「よせやい、真顔で言われたら恥ずかしくて爆発するわ」
「そうだよね、あははは」
朗らかな笑い声は早朝の澄み切った空気の中にいつまでも響いていた。
Fin
注1,大幣は、神道の祭祀において修祓に使う道具の一つで、榊の枝または白木の棒の先に紙垂または麻苧をつけたものである。
「大麻 (神道)」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より
最終更新 2016年2月2日