第二話
ミ・タ・ナ・・・
「うわーーー!」
飛び起きた康平は、がらんとした二十畳はあろうかという畳張りの広間の中央に寝ていた。
ーーここはどこだ?
自分に起きた事を思い出そうとして、康平は微かな違和感を感じながら辺りを見回す。物音一つしない、薄暗い部屋の奥には本尊らしき神棚が祭られてある。この広間は神社の本殿の中らしい。明かりは布団の四方に置かれたロウソクの焔だけで、それが揺れる度に己の影がまるで意思を持つかの様に蠢く。康平と影を囲む注連縄から抜け出そうとする様に。
ーーなんで注連縄に囲われてるんだ? それに注連縄についているあのヒラヒラの紙、紙垂だっけ? 普通は白色だと思ってたんだけど、なんか黒っぽいな。
静かに障子を開けて神主の五郎丸 正一が部屋に入ってきた。歳の頃は四十台ぐらいだろうか。丸い眼鏡をかけ、白の単衣に藤紋のついた紫の袴を履いていた。丸い眼鏡の奥の眼は険しく、表情は張り詰めていた。
部屋の中央に足音も無く踏み入った正一は、康平の周囲にある注連縄の外に立ち紙垂を手に取り何かを呟いた様であった。
「君、名前は?」
「黒田 康平といいます」
康平が神主に名乗る。依然神主の表情は険しく、その後は無言で口を真一文字に結び、康平をじっと見つめいてた。その表情から康平は自分の立場があまり歓迎されたものでは無い事を悟る。正一と視線を合せる事に気まずさを感じた康平はなんとなく注連縄に視線を向けると、紙垂の黒さが増している事に気づいた。
ーーそうえば晃は? 晃はどうなったんだ? なぜここにいないんだ?
起きた時から感じていた微かな違和感の原因。晃がいない。あの場所から途中まで一緒に逃げてきたはずだった。康平が前を走り、晃がついて来た。その後の事が思い出せない。晃を最後に見た光景を思い出そうとすると白いモヤの様なものが邪魔をする。康平はモヤを振り払おうと軽く頭を振った。
暫くの沈黙の後、正一が康平のおかれた状態について語りだした。
「そんな……」
正一の話によると、康平は丸一日寝ていたらしい。
鳥居の傍に倒れていたのは康平だけで、康平を見つけた正一はその場で大量の塩と酒で清めを施した。「そうでもしないとそれ以上奥に入れる事が出来ないほど穢されていた」と言いながら正一は右手に乗せた清めの塩を康平に見せる。
ーーこれが塩? 漆黒に染まった塩を見た康平は絶句する。注連縄の紙垂も最初は白かったらしいが、少しずつ黒化していったという事だ。それは康平を追いかけてきたものが、今尚この周りを徘徊している証拠だという。
「君はあそこへ行ったのか?」
神主は厳しい表情で、康平を問い詰める。あそことはかつて裏野ハイツと呼ばれた建物が建っている場所の事である。康平は友達の晃とそこの建物を見た事、人形と呼ばれるモノを見た事を話した。
「馬鹿な……、人形だって……」
正一は人形を見た時の晃と同様の反応を見せた。
康平は晃といい正一といい、これ程の驚愕をおこさせる人形というものが何なのかを知りたかった。
「残念だが、君の友達の晃君とやらはおそらく生きてはいないだろう。君の異常な穢れかたもそれならば説明がつく。正直に言おう。君が生き残れる可能性は極めて少ない。君たちは行ってはならない場所に近づき、決して触れてはならない禁忌に触れた」
そう言うと正一は静かに立ち上がって部屋を後にし、しばらくすると分厚いファイルを持って戻ってきた。
「かつて裏野ハイツと呼ばれる場所である事件が起きた」
ーー裏野ハイツは今から三十年前の一九八六年、バブルと呼ばれ日本の景気が隆盛を誇っていた時代に建てられた建物だ。当時はまだこの辺りも森や河川など自然が豊かだったが、都市開発が進むに連れて人口が増加し、それに対応する様に無計画に家屋が乱立していった。裏野ハイツが建っている場所には、かつて古びた井戸と祠があったという事だが、その井戸を埋め立て祠を取り壊しその上に裏野ハイツが建てられたという。
そして裏野ハイツが建てられた十年後、そう今から二十年前の一九九六年、一組の夫婦が引越してきた時、裏野ハイツで起きた事件の幕があがる。
当時の住人は
101号室 一条 六輔 五十代男性
102号室 二又瀬 武士 四十代男性
201号室 四谷 早苗 七十代女性
そして空室だった103号室に越して来た夫婦が
三輪 信彦 三十代男性
三輪 朋子 三十代女性
以上の五名が当時の裏野ハイツの住人になる。三輪 朋子は当時妊娠しており出産間近であったという事だ。三輪夫婦は霊媒体質で特に三輪 朋子は非常に霊感が強かったらしい。彼女が臨月に入ると彼女の周りで次々と不可解な事件が起こる……。
そこまで正一が語った時、不意に風に煽られた様に部屋の四隅に置かれた四本全てのロウソクの火がかき消された。障子を通して差し込む月明かりが、かろうじて康平の視界を保つ。
「ねぇ……康平……どこ?」
ーーあれは、晃の声! 晃、生きてたんだな! 晃!
月明かりに照らされた障子に晃の影が浮かび上がる。
「声をたてるな! 動くな! 息を止めろ!」
正一が引きつった表情で矢継ぎ早に康平に命令する。
正一は障子に背を向け正座していたが、それでもこの世のものならざる気配を感じたのだろう。額には油汗が浮かんでいた。
「ねぇ……康平……いるんでしょ?」
康平は口と鼻に手をあて呼吸を殺し必死に震えを抑える。
「何があっても……、そ……の注連縄から外に出るな! ぐはぁ」
正一は胸を掻き毟りながら必死の形相で康平にそう言うと、口から大量に吐血し昏倒した。注連縄の紙垂は既に漆黒に染まり、黒い液体がポタポタと垂れ落ちていた。
「ねぇ……康平……いるんでしょ? 出ておいでよ」
紙垂の一つが黒い液体の重さに耐えかねた様に千切れ落ちる。紙垂が落ちた部分の注連縄がどす黒く変色していく。その光景を目の当りにした康平は恐怖で叫び声をあげそうになるのを必死でこらえていた。
「やっぱりいるよね……、康平……なんで俺を……見捨てたの?」
「…………。」
「怒ってないよ、康平。そうだ二十年前の話をしてあげる約束だったよね」