第六十二話 蒼空の王子 シュバイク・ハイデン
真夏の太陽が頭上に位置し、日差しが肌を焼くような熱を放つ。
止め処なく流れ出る汗。上がる息。
「うっ...はぁ...はぁ...」
シュバイクは思わず声を出した。頭上から照りつける太陽の光に、眩しさを感じたからだ。そしてそれと同時に激しく襲いくる頭痛と目眩が、身体の平衡感覚を大きく狂わせていた。
自分に何が起こったのか。それを理解するよりも早く、女性達の甲高い声が響いてきた。
「きゃー!」
大勢がこちらを見て、騒ぎ立てている。
シュバイクの足元は覚束ない。自分が今いる場所させも理解できずにいるのだ。
何故か右手には、捨て去ったはずの魔鉱剣が握られていた。
細身の刀身は研磨されており、七色の輝きを呈している。持ち手は黒の柄に金で装飾がされていた。それは間違いなくシュバイクの剣である。
足元を眺めると、緑の芝生が広がっていた。その心地よい感覚は、忘れる事がない。多くの時間を剣術訓練のために過ごした、王宮内の広場である。
「剣を振るう時はつねに身体の中心軸を維持!体内に留めている魔力を一定に保ちつつ、攻と守に素早く力の波を切り替える!」
鼓膜を揺らすような、重低音。
意識を朦朧とさせるシュバイクの頭に、その声が鳴り響く。
「ん?シュバイク様っ!何をぼうっと突っ立っておいでか!剣を振るいなされっ!」
男がシュバイクへと向かって歩いていく。
うっすらと視界の中に現れたその形は、段々と大きくなっていった。そしてそれが目の前に来ると、二メートルを優に超えるであろう大男だと理解したのである。
「う……こ、ここは?」
スカイブルーの美しい長髪は、滲み出た汗によって湿っている。上半身は裸で、皮膚を這うように汗が滴り落ちていく。下半身には茶色の布のズボンを履いているが、その下は素足である。
「ここ?何を訳の分からない事を…さっさと剣を振るうのです。まだ訓練は始まったばかり。休憩は認めませぬぞ」
男は筋肉質の身体に収まり悪そうに、服を着ていた。
赤と黒を基調とした皮の鎧と、布のズボンである。その男の顔をシュバイクはゆっくりと見上げるのである。
図太い首から繋がる顔は、がっちりとした骨格。鼻は高くて大きい。口も周りから頬にかけて薄い髭が生えている。
ダークイエローの髪は後ろに流しており、それが獅子の鬣のように見えるのだ。眉は太く眉間に皺を寄せているのが、眼光の鋭さを後押ししていた。
「うぅおぇっ!」
シュバイクは突然、その男の前で芝生に手をつくと、口から大量の胃液を吐き出した。
「なっ!?ど、どうされたっ!?」
目の前の大男は、只ならぬ光景に驚いていた。厳しい口調だったが、さすがに相手の不意の嘔吐に心配した様子を見せたのだ。
「うぅっ!ぐっ…はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
シュバイクは己の身に起こった事を理解出来ていない様子であった。
彼の記憶にあるのは、ウィリシス・ウェイカーと剣を交え、彼を殺したと言う事実である。その事が、強く頭の中に残っていたのだ。
しかし迫りくる頭痛と、視界を揺さぶられ続けているかのような不快な感覚。それが絶え間なく襲いくるために、思考の邪魔をしていた。
「大丈夫ですかっ!?シュバイク様っ!」
青年が駆け寄ってきた。
その声を耳にした時、自分の五感全てを疑ったのは当然である。
シュバイクの肩を支えるようにして、体を支えてきたのだ。
「シュバイク、どうした?大丈夫なのか?」
本人にだけ聞こえる小さな声。人前では主従関係と言う事もあってか、余所余所しい言葉を使う。
しかし人にその声が他人に聞こえない場所では、気兼ねのない態度で接するのが普段からの二人の関係であった。
「ウィ…ウィリシス……?」
シュバイクは思わず、ブラウンの瞳を見開きながら相手へと問いかけた。
そこに居たのは紛れもなく、ウィリシス・ウェイカーだった。己が手にかけた男よりも、遥かに若かったのである。そして何よりも左目が、美しく輝いていた。
「え?あ、ああ。どうしたんだ?俺の顔に何か付いているのか?だ、大丈夫か?」
ウィリシスは戸惑いながら答えた。
皮の鎧を上に着ており、腰には魔鉱剣を下げている。
ズボンは布の動きやすいものを履いており、その下はやはり素足だった。
シュバイクの顔つきは、あまりにも不自然なものだった。
ウィリシスをまじまじと見ていた。
何か信じられない光景を目の当たりにしているようなシュバイクの顔は、驚きと戸惑いに満ちていた。
「夢…じゃない?これは…現実?出発点に戻る…あれは本当だった……」
地面を覆いつくす芝生に視線を落としながら、一人で呟いていた。
ウィリシスが、自分と剣を交える前に言った言葉。それをシュバイクは思い出したのだ。
肌を流れる汗も、聞こえてくる言葉も、照りつける太陽の日差しも、そのどれもが紛れもない現実そのものなのである。
「夢?何を言っているんだ。本当に大丈夫なのかシュバイク。少し日陰で休むか?」
その顔を覗き込むように、シュバイクへと問いかけた。ウィリシスは心配そうな顔つきを見せている。
「だ、大丈夫です。なんて事ありません。これくらいっ」
頭痛は続いていたはずである。
平衡感覚も異常をきたしたままのはずだ。
だがそんな事を感じさせないほどに、嬉しそうであった。
目の前にいる男が生きているという現実。それが不快な感覚全てを軽く凌駕したのであろうか。
シュバイクの瞳から、雫がこぼれ落ちたように見えた。しかしそれが本当に涙だったのか、それとも汗だったのかは解らない。
下を向けた顔から、落ちたものが芝生に数的たれる。するとシュバイクは何事もなかったかのようにして、その場で立ち上がった。
「シュバイク様、訓練を続けまするか?」
前の前に立っていたのは、守護隊長のハギャン・オルガナウスである。
彼はシュバイクへと問いかけると、その意志を確認した。目は相変わらず鋭く、相手の瞳を直視していた。
「大丈夫です。やりますっ!」
シュバイクは強い言葉つきで言い切った。その瞳には一切の迷いがない。
「ふむ。ならば斬り込み、突き、薙ぎ払いを組みあせた流れを百二十回。さっさとお始め下され」
ハギャンはそう言うと、シュバイクとウィリシスの前から去っていった。そして他の王子達の動きを、余す事無く観察し始めたのである。
芝生が敷き詰められた広場。
シュバイク以外に四人の王子達がいた。
第一王子のレンデスに、第二王子のナセテム、第三王子のサイリス、そして第四王子のデュオである。
彼らは皆、魔鉱剣を右手に握り、一通りの型をこなしている。
王位継承候補者の王子達は、魔鉱剣と魔法指輪を扱う技術を体得しなければならなかった。
それがアバイト王より提示された、次の王となるべき者の必要最低限の条件だったからである。
ラミナント王家の玉座はアバイトの前の世代まで、長男による世継ぎ制だった。しかし四男だったアバイトが父親に反旗を翻した事で、それらの制度も取り払われたのである。
彼はこう名言していた。
「次の王位に付くべき者は、国を守れる強き者でなくはならない。全ての騎士達を取りまとめる力を持つ事は必要最低限である。そして何よりも大切なのは、民を想い、彼らを真の安寧の世へと導ける者でなくてはならないのだ」と。
シュバイクは何事もなかったかのように、訓練を再開させようとしていた。しかしそれをウィリシスだけは、心配な顔つきで見ていたの。
「シュバイク、本当に大丈夫なのか?無理をしていないか?」
ウィリシスの問いは、王子を思っての事だろう。
だがシュバイクはここで訓練を休む訳にはいかなかったのだ。この後、立ち向かわなければいけない現実が、すぐに迫る。
その状況から今はどんな理由があろうとも、逃げる訳にはいかなかったのである。
「大丈夫です!ウィリシス兄さん…本当にありがとう。兄さんに守られてばかりの僕だったけど、これからは違う。僕が兄さんを守るから……」
そう言ったシュバイクの顔つきは、何処か大人びていた。
その言葉の真意が何を指すのか、全く分からなかったはずである。しかしウィリシスはシュバイクの瞳を見た時、確かに強い意志を感じ取ったのだ。
「そうか。分かった。ならいいんだ」
まるで何かに気圧されるかのように、その場から足を引いた。得も言えぬ気迫と迫力に満ちていた表情が、ウィリシスを圧倒したのだ。
剣術訓練は再開された。
頭痛と吐き気は未だに残っていたはずである。しかしそれを振り払うかのように、無我夢中でシュバイクは型をこなしたのである。
そしてついに、その時は来た。
「次は相手と木剣を交え、実践闘技を行います!レンデス様とナセテム様!サイリス様とデュオ様でやっていただきます!魔法の指輪の装着はそのままで結構ですぞ!」
ハギャンの放った大声が、広場に響く。
騎士の手によって木剣が運ばれて来た。
王子達へと次々に手渡していく。
「シュバイク様の相手は、このハギャンが務めさせて頂きます!」
ハギャンが言った。シュバイクは大して驚かなかった。
一度経験した出来事だったからであるからだ。大きく息を吐いて、吸い込む。その繰り返しによって、型の稽古で乱れていた呼吸を静かに整えたのである。
すでに自分の精神を落ち着かせ、戦いに備えていたのだ。
しかしその時。シュバイクの右肩に、何者かが手を乗せてきた。
「よかったなぁシュバイク。ハギャンに可愛がってもらえよ」
そこに居たのは、長男のレンデスである。
ダークグリーンの長い前髪の隙間から、パープルの瞳を覗かせていた。
目鼻立ちはすっきりとしているが、そのにやついた顔つきは、シュバイクにとって嫌悪と畏怖の対象となった。
苦手な相手だったのは間違いない。昔ならその相手に萎縮し、何も言えなかったはずである。だが今は違ったのだ。
「レンデス兄さん。何か言いたい事があるのなら、はっきりと述べたらどうですか?」
シュバイクのブラウンの瞳は鋭かった。
その眼で相手を睨み付け、強い口調で言ったのだ。決して兄に逆らう事などしなかった少年が、初めて牙を向いた瞬間である。
「なに……?貴様、誰に向かって口を聞いている。調子に乗るなよ……」
レンデスの顔つきが一瞬で変わった。
自尊心が高く利己的な男。
不意に向けられた己への敵意に、すぐさま反応したのだ。
シュバイクは右肩に乗せられていた手を掴むと、相手を見据えて言い返した。
「兄さんは卑怯者だ。気に食わないのなら、自らの手で僕を叩きのめせばいい。それが出来ないから、ハギャン殿を嗾ける気なのですよね?」
シュバイクとレンデスの間に、只ならぬ空気が張り詰める。
二人は互いに睨み合う。相手を威嚇する。
レンデスは顔に怒りを露にした。
「ふざけやがって。生意気な奴だ。おい、ハギャンッ!シュバイクの実践闘技の相手は俺がする!お前はサイリスの相手でもしていろっ!」
レンデスは声を荒げた、周りに居た他の王子達や、周囲で見物していた者達も何事かと視線を二人へ集める。
ハギャンは驚いた顔つきであった。
「し、しかし……それで良いのですか?」
ハギャンには似つかわしくない態度であった。泣く子も黙る守護騎士の隊長である。そんな男が困惑していた。
「構わん!俺がコイツの相手をする!シュバイクッ、後悔させてやる!この俺に生意気な口を利いた事をなぁっ!」
レンデスが叫んだ。しかしそれにシュバイクは背を向けた。
そして距離をとると、向き直ったのである。
そんな二人の手元に、木剣が運ばれてきた。
だがレンデスは受け取らなかった。
「そんな物いらんっ!シュバイクッ、魔鉱剣でいいよな?それだけの覚悟があって、この俺に勝負を挑んだのだよな?」
対面するスカイブルーの少年を睨み付けながら、魔鉱剣を抜き去った。そしてその切っ先を向けたのである。
「勿論です。僕もそのつもりでしたから」
シュバイクは当たり前だといった表情で答えると、レンデスの怒りはさらに高まった。その言葉、顔つき、行動全てが苛立たせたのである。
「ちっ。どこまで生意気なんだっ!俺の剣術の腕は貴様よりも遥かに上だっ!それを分かって言っているんだよなっ!?」
レンデスとシュバイクは十歳の年の差があった。
レンデスは二十七歳で、シュバイクは十七歳である。鍛えてきた年数が、そもそも違うのだ。しかしそれを分かっても尚、動じる気配など微塵も見せなかったのである。
「レ、レンデス様っ!どうか気をお静めになってくださいっ!シュバイクは体調が悪く、一時の気の迷いできっと、あのような言葉を言ってしまっただけなのですっ!」
二人の間に割って入ったのは、ウィリシスであった。レンデスの怒りを静めようと、必死に問いかけていた。
「黙れ、ウィリシス・ウェイカーッ!これは俺と弟の問題だっ!騎士であるお前が口を出すなっ!」
その言葉一つで、ウィリシスは引かざる負えなかったのである。
それほどまでに王家の人間と騎士とは、一方的な力関係なのだ。
それに相手は、第一王子である。いくら王位継承権が五人の王子全員にあっても、殆どの者の見方では、レンデスが今もっとも玉座に近いと言われていた。
それに長男であるが故の誇りなのか、どの兄弟よりも権威を振りかざしていたのは事実である。
「レンデス兄さん。そろそろ始めましょう。僕はもう準備は出来ています」
シュバイクの一言で、レンデスはその生意気な口ぶりの弟へと意識を向けた。そして呪文を唱えたのである。
「ぶっ殺してやるっ!深淵の衣っ!」
レンデスは本気だった。
その魔法が何よりもの証拠である。
体全体を包む薄黒い瘴気が、肉体から発生したのである。レンデスの姿はその靄の中に隠れてしまった。
クレムナント王国で魔剣技を極めた者達は皆、己の性格と魔力の特性から来る魔法を体得している。
それは基本となる四元素の火、水、土、雷に独自の力を中和し、新たな力を生み出す事にある。無論、その四元素の一つを極める者もいるのは確かだ。
ハルムートが炎に準じた強い力を発揮するのは、自分の特性がそこに合致していたからに他ならない。
だが多くの場合は、その四元素に外れた未知の領域に、得意とする分野があるのだ。それをレンデスはすでに会得していたのである。
「無理だ……レンデス様にシュバイクが勝てる訳がない。基本の光魔法しか、まだ体得していないのだ……」
ウィリシスは、レンデスの放つ禍々しい瘴気を見ながら、独り言のように呟いた。
王子を守護する騎士ともなれば、自分の特性を理解し、それに準じた力を身につけている。だからこそ、その力量の差を肌で感じ取っていたのだ。
だがその後、全ては覆った。
「蒼空の翼!空よ!我に力をっ!」
シュバイクが呪文を唱えると、突如として広場に突風が巻き起った。
王子の背から小さな翼が二本、生えていた。それは美しい純白の羽である。
翼と言うにはあまりにも小さいが、光に包まれていた。
スカイブルーの髪の少年を中心にして、風の渦を巻き起こしているのはその翼であるのは明らかであった。
「な、何なんだっ!あの魔法はっ!」
ウィリシスは吹き荒れる渦の中にシュバイクの異様な姿を見た。
それは見たことも聞いたこともない魔法である。常にその側を離れずに付き従っていた守護騎士の青年でさえ、初めて見る力だったのだ。
スカイブルーの髪が風によって逆立つ。
肉体に漲る魔力が、波を打つかのように全身を駆け巡る。
誰もが己の目を疑っていた。まだ魔法の基礎しか使いこなせないはずのシュバイクが、すでに己の特性に準じた力の一端を見せたのだ。
「くっ!何だ、これはっ!?」
シュバイクと対面するレンデス。相手の周囲に巻き起こる風が、突然襲い掛かって来たのだ。
「ぐぅぅぅっ!」
凄まじい突風に、体が後ろへと持っていかれそうになる
「ま、まさかっ!」
レンデスは声を上げた。身体を包み込んでいたはずの深淵の衣が、シュバイクの放つ風によって吹き飛んだのだ。
普通の風によって魔法の衣が剥がれる事等はない。
それは魔力によって実体化しか力が、実世界の現象とはかけ離れたものだからである。とすれば、その風も、シュバイクが魔法によって起こした何らかの効果を持つ力であると考えるのが妥当なのだ。
そして風が急に止んだ。その時。
「いくぞっ!レンデス兄さんっ!」
シュバイクが声を張り上げた。と同時に、レンデスへと向かって駆け出す。
背中に生える白き翼から、美しい羽を舞い散らせていた。




