第五十二話 天を舞う邪悪なる影
オルフェリア精霊国。
それは、緑と水によって包まれた小国である。
ロッテイル地方の山奥に存在するその国は、森の民シェルフと言われる種族が中心となって国家を形成している。彼らはすらっと伸びた高い背と、尖った耳が印象的な者達である。どの者も百八十センチ以上の身長に、美しい金色の長い髪を靡かせている。
閉鎖的で利己的な彼らは、外界との接触を好まない。そのため、この混乱の世にあっても、戦火に晒される事なくひっそりと生きてきた。
オルフェリアの都は緑に囲まれ、川が流れている。旅人がその国へと足を踏み入れる事は滅多にない。それは、森の木々に魔法がかけられてあり、人や魔獣の侵入を防いでいるからだ。まるで意思を持ったかのような植物が、外敵の進行を阻むのである。
唯一の都マーディントは、シェルフと人、そして精霊が共存して生きる場所である。巨大な大樹レキメノの幹の中に、住居や商業施設を作って生活しているのだ。その木々は数百本も立ち並び、枝同士が木製のつり橋によって繋がっている。
精霊とは、数千年と命を育んできた、大樹レキメノの木に実る蕾から生まれた森の子供である。精霊の羽ばたきには、花や虫、そして動物の成長を促進させる不思議な粉が飛び散るのだ。これを浴びた動植物は、この国に大きな恩恵をもたらしていた。
シェルフはその高い身長からは予想もできないような、身のこなしを持って木の上を飛び回る。そして、動物などを狩猟しながら生きている者が殆どであった。弓の腕は一流で、生い茂る草の葉の中でも、数百メートル先まで優に見通せる目を持っている。これにより、彼らはその森の中でも、特異な存在として人間達から一目置かれているのだ。
国政を司る者は、精霊王と言われている。森に存在するありとあらゆる生物の意思。この意思の集合体から言葉を預かった預言者が、精霊とシェルフと人間を束ねる王を指名するのだ。この儀式によって選ばれた者は、次の王が決まるその日まで、与えられた玉座へと座り国を纏めなければいけない。
王の元には、霊下院と呼ばれる十人のシェルフの老人達で結成された組織があり、彼らは皆、玉座を退いた過去の王であった。この老人達の役割は、新たなる若き王に知識と知恵を授ける事である。そして助言を求められれば、その都度、十人が集まって王への言葉を告げるのだ。
シェルフは人間の数倍ほどの寿命故か、一代で子供を一人つくるかつくらないかと言った所であった。そのため、多くのシェルフは人間の年齢で言うと百二十歳程であった。
そしてこの国に突如として侵略者がやって来たのは、ミリアン・ハイデンが実家である酒場へと帰って来てから数ヶ月目の事であった。
空に現れた黒き翼をはためかせるそれは、ぎらついた牙で人々をかみ殺し、その口内からは黒炎を放つおぞましき生き物であった。鱗は漆黒で、鉄の如き頑丈さ。精霊国を守る弓備兵の矢を悉く弾いたのである。
その生物の数は数百にものぼり、次々と森を焼き払っていく。西の森の入り口からは、結界で守られた木々をなぎ倒しながら数万の兵士達が都へと迫っていた。
そんな中で、現精霊王であるバルノッサ・ジェス・アーゼムは霊下院の老人達を集め、迫り来る大軍への対処で議論を交わしていた。
都の中心に位置する一際巨大なレキメノの木。その木の葉っぱは白く、淡い光に包まれている。太い幹の中にはいくつもの部屋があり、その一つに彼らはいた。
「どうすれば良いのだ、ご老人達よ。知恵を授けてくれ。これ以上、時間を浪費してはいられない。もう敵の大軍は都の目と鼻の先まで迫っている。このままでは我等は皆殺しにされるだろう。やはり、スウィフランドの条件を呑み、私の首を差し出すしかないか......」
精霊王アーゼムは、白い肌に長い白髪の髪。瞳は緑で、眉は太い。美しさと力強さを兼ね備青年のようである。人間の二十代前半ほどの見た目に見えるが、年齢は百近くであった。彼は円卓に座る十人の老人達の顔を見ながら言った。
室内の壁は全て木目調であり、床もそれに続いている。木の内部であるその場所は、至る所から大樹レキメノの生命を感じる事ができる。
中央に置かれる巨大な円卓には、十人のシェルフと、木の枝で出来た玉座に座る王が顔を合わせていた。これは、互いに平等な存在であるという無意識の現われなのかも知れない。その場にいる者達は、互いの意見を遠慮なく交す事が目的であるようだった。
「精霊王よ。我等はシェルフ、森の民。最後の最後まで戦い抜き、この地を守らねばなりませぬ。しかし、敵の力は強大、もうこれ以上は持ちますまい。王はお逃げ下れ。森の意思によって選ばれた貴方が生きていれば、また国はいつしか復興できまする」
シェルフの老人が、玉座へと座る若い男へと言った。老人と言っても、そのみためは人間の四十台後半ほどに見える。実年齢は有に三百歳を超えるのだろうが、外見は衰えていない。この場に座る誰しもが、シルクと絹を折り合わせた緑と白のローブを身にまとっている、ローブと言っても、壮麗で豪華な者だ。気品と位の高さを表しているようだ。
「そうですぞ、精霊王よ。敵は人間、奴等の命など我等に比べれば儚くも短いもの。数十年、いや、百年も待てば、必ずまた我等の時代がやってきまする」
最初の男の言葉を後押しするように、もう一人の老人が答えた。この者もやはり、老人というにはあまりにもその見た目は若いように思える。
「老人達よ、だからこの国は滅びようとしているのだ。民を置いて、私一人が逃げるだと?それが王と呼ばれる者のする事か。それに、奴等の狙いは私の命だ。私が生きている限り、この国は戦火に包まれ続けるだろう。そうなれば、多くの者が死に続ける。それだけは避けねばならん。我等は長く生きすぎ、大切な者が何か分からなくなってしまったのだ。奴等の最初の申し出を受け、この私の首を差し出しておけばここまでには為らなかったと言うのに......」
青年は悲しそうな顔で言った。赤や緑、白といったシルクと布を折り重ね、花と木で出来た冠を頭に載せている。十人の老人達は皆、民を犠牲にしてでも、王であるこの男に生き残れと言うのだった。しかし、そんな古臭いシェルフの考え方に、彼はほとほと呆れ果てていたのだ。
そんな話をしている室内へ、一人の女性が入ってきた。彼女は人間であり、見た目から察するに六十代の後半と言った具合であろう。
彼女はシェルフとは違い、背は一段と小さく、その着ている布服は動物の骨等で組み合わせた、飾り物を至る所につけている。歩く度に、それがぶつかりあい、妙な音を出していた。
「精霊王と十人の長老達よ。お話中に申し訳ないが、驚くべき事が預言された」
女は室内へと入ってくると、その全員の視線を一挙に集めた。
「どうされました、マバル様。こんな非常時に預言とは......どういったもので?」
精霊王アーゼムは玉座から、その女へと問いかけた。
「俄には信じがたい事なのですが...今さきほど、森の意思が新たなる王を選定しました......」
それはあまりにも衝撃的な言葉だった。敵が迫り、国の存亡の危機に瀕している最中で、新たな王が森によって告げられたのである。これは、只事ではなかった。老人達はどよめきだった。王であるアーゼムも驚きを隠せない顔つきで、その女へと問いかけた。
「な、何ですと...都へと敵が迫り来る間際、森の意思が新たなる王を選定したとは.....如何にも信じがたい......」
十人の老人達も皆、同じ事を思っていただろう。国が一丸となって、この危機へと立ち向かわねばならない時であるのだ。それが、国を取り纏める王が、今この状況で変われば、さらなる危機へと直面するのは避けられないと感じたからだった。
「本当なのです。森の意思は私にこう告げました。『東の森にある小さな村。そこに住まう一人のシェルフの少女。名をミレーナ・アイ・リューネと言う。彼女がこの国の新たなる王だ。彼女はこの国の民の未来を握る、唯一の希望の光である』と...私にも信じられなかったのですが、確かに次の王はその少女だと...」
預言者のマバルは、真剣な顔つきだった。この場にいる誰しもが、その言葉に耳を傾けたが口を開く者はいなかった。王であるアーゼムを除いて。
「そうか...新たなる王が、森の意思によって告げられたか。ならば、やはり、私の最後の役割は決まったな。この首をスウィフランドへと差し出し、オルフェリア精霊国は降伏をする」
王がそう告げた時、一人の老人が声を荒げた。
「なりませぬぞ、アーゼム様!貴方はまだこの国の精霊王なのだ!その少女が森の意思によって、次の王と定められたとしても、今はこの国必要なのは貴方なのです!年端もいかぬ子供などではなく!」
美しい金色の長い髪を揺らしながら、普段、感情の波を見せることのないシェルフの老人が大声で言った。
「長老よ、無駄に歳を重ねて耄碌なされたか。森の意思は絶対だ。森は我等シェルフの知識と知恵を遥かに超越した、自然の存在そのものだ。その森が我等に告げたのだ。この国の未来を握る一人の少女が、次の王であると。ならば、長老達の役目は、来るべきその日まで、その少女を敵から隠し、その成長を手助けする事のはず。そのために私の首一つで事が収まるなら願ってもないことだ」
そう言うと、アーゼムは玉座を立ち上がり、部屋の外に待機する兵士を呼びつけた。
「弓備隊長!オルフェリア精霊国は、水中都市国家スウィフランドへ降伏する!その意志を伝えるために、使者を用意しろ!向こうの返事が着次第、元首ガルバゼン・ハイドラへと会いに行く」
「か、畏まりました!」
室内へと入ってきた男は、白金の鎧を纏っていた。シェルフの技術の粋が結集されて製造された物である。その男がアーゼムからの指示を受けると、数人の使者を用意し、スウィフランドの前線基地へと向かわせていった。
この数週間後、二国間の争いは幕を閉じた。精霊王アーゼムは斬首刑に処され、その首と引き換えに、スウィフランドの支配国となる事で存続を許されたのである。
これにより、オルフェリア精霊国の健康な男子は、強制的にスウィフランドの兵士として徴収される事となってしまった。その多くの者達は家族から引き離され、軍人として生きる事を余儀なくされたのだ。そしてこの中に、リディオン・ウェイカーの姿もあったのである




