第五十話 姉妹
リディオがクレムナント王国を発ってから、数ヶ月後のある日。
リリアンはいつものように夕方の開店に備えて、店内の掃除をしていた。テーブルやカウンターの拭き掃除から始めて、床の掃き掃除へと移る。昔はあかぎれだらけで、見るに耐えないほど痛々しいその手も今は綺麗に治っている。リディオが実家から持ち帰って来てくれる薬のお陰で、仕事に差し支えないほどによい状態を保つ事が出来ているのだ。
息子のウィリシスはそんな母を横目に、店の隅で積み木遊びをしている。緑色の服を身にまとい、下は茶色のズボンを履いている。リリアンの父親であるラゼロは、店の厨房で今日の仕込みに精を出していた。後数時間もすれば、一日の仕事を終えた採掘師達がやって来るのだ。
一通り掃除を終わらせると、レリアンはテーブルの上に載せていた椅子を戻し始めた。そして、それらの配置をしっかりと調整し終えると、やっと一段落つけるのだ。
掃除用具を店の裏手へと片付けようとしていた時、水晶石で出来た扉の上の鈴が鳴り響いた。まだ開店には時間が早い。店の外には準備中と書いた看板を置いてあったはずであるのだ。そんな事を思いながら、ふと音のするほうへと振り向いた時、そこには茶色のフードを目深に被る女性らしき人物が立っていた。
「あ、すみませんっ。まだ開店してないんです」
レリアンがその人物へと言うと、相手は徐にフードを下ろした。その顔を見て、驚いたのは言うまでもない。クレムナント王国で内乱が起こってから、行方知れずになっていた姉のミリアンだったからである。
「お、お姉ちゃん......?」
数年ぶりの再開である。しかし、その目の前の人物が本当に姉なのか、それさえも信じる事ができず、問いかけたのだ。その顔はレリアンによく似ている。瞳はブルーで、髪はスカイブルーの長い髪。顔立ちは整っており、美人だった。
八つ年上の姉は、王家の身の回りの世話をするために、侍女として奉公に出ていたのだ。しかし、ザイザナック王に反旗を翻したアバイトとの戦いが始まると、国は混乱に陥った。そして、城で住み込みで働いていた姉は、そのまま行方不明となっていたのである。
「レリー、私よ...ミリアンよ......」
レリー、その名でレリアンを呼ぶのは、自分の旦那であるリディオと、実の姉だけだった。その人物が本当にミリアンだと確信したとき、相手へと向かって走り出していた。そして、その体へと子供のように飛びついたのである。
「お姉ちゃん!心配したんだよ!もう...死んじゃったのかと思ってたんだから!何で、今まで顔も出してくれなかったの!お父さんも、凄い心配したんだよ!あの後、お母さん、病気で死んじゃって......最後まで...お姉ちゃんに会いたいって言ってったのに!」
レリアンはそのままブルーの瞳から大粒の涙を零しながら、次から次へと出てくるその言葉を止め処なく吐き出し続けた。そんな妹の態度を予想していたかのように、ミリアンは静かにそれを受け止めていた。普段見たことのないような母の様子に、何かを察したのか、部屋の隅で遊んでいたウィリシスは、泣き始めた。
それに気づいたのか、厨房からラザロが顔を出してきた。首からは薄汚れたエプロンを掛けており、布の服には仕込みで付いたと思われるスープの染みが目立った。
そして、店の入り口の方へと視線をやった。そこで初めて、行方知れずだったもう一人の娘が帰って来た事を知ったのである。
「ミ、ミリアン...なのか!?」
親父は驚いていた。死んだとさえ思い、その喪失感に何とか慣れてきた所だったのだ。しかし、確かに目の前に現れたミリアンは、生きていた。顔は少しやつれているように思えるが、その井出達は亡くなった妻にそっくりであったのである。
「父さん......ごめんなさい......今まで、何の連絡もとらずに.......」
ミリアンは申し訳なさそうな顔で言った。それは本心であろう。心配をかけたのを分かっていたのである。しかし、そんな娘にラザロは歩き寄ると、抱きつくレリアンを力づくで引き剥がした。そして、その姉の顔めがけて、平手を食らわせたのである。
「馬鹿野郎っ!どれだけ心配したと思ってるんだ!生きてたんなら、顔ぐらいだせぇっ!母さんはなぁ、死ぬ前に一度でいいからお前の顔が見たいって......泣いていたんだぞぉっ!」
店内に響き渡るその怒声は、部屋の隅で泣き喚くウィリシスを黙らせた。あまりの大声に、びっくりしたのであろう。
「ごめんなさい...ごめんなさい...」
ミリアンは、ただ只管に頭を下げて謝っているだけあった。怒りに我を失いそうになっている父親を、妹のレリアンは何とか制止する。
「お父さん、止めて!きっとお姉ちゃんにも、何か理由があったのよ!ほら、ウィリシスが泣いているわ。お願い、あの子を裏に連れてって、気を静めてあげて」
そう言いながら、父親の意識を孫へと向けさせた。顔を引きつらせながら、涙と鼻水をこぼすウィリシス。ラザロにとって、初めての孫は何よりも大切な存在だった。だから仕方なく、レリアンの子を抱きかかえて店の裏へと消えていったのである。
「うぅ......ごめんね、レリー......迷惑かけて......」
ミリアンは涙を流していた。ただ、それはすすり泣くようで、本当の深い悲しみを表しているようだった。そんな姉の態度に何かを感じたのか、妹のレリアンはとりあえず椅子に座るようにと促したのである。
「お姉ちゃん、とりあえずそこに座って...。今、何か暖かい飲み物でも持ってくるわ」
レリアンはそう言うと、二人分のカップと暖かい紅茶の湯気がたつ陶器のポットを持ってきた。それをテーブルの上に置くと、ゆっくりと注ぎ始めた。薄紫色の液体からは、気持ちを落ち着かせるには十分の草花のいい香りが漂ってくる。
カップを手に取ると、ミリアンはゆっくりと口元へと運んだ。そして、その味を噛み締めるかのように、飲んだのである。
「はぁ...ありがとう、レリー...うぅ.......」
そう言うと、ミリアンは顔を伏せた。そして、落ち着き始めたかに思えたその心は、再び、何かに揺さぶられるかのようにして泣き始めたのだ。
「お姉ちゃん、何があったの?今まで何処にいたの?ゆっくりでいいから、教えて」
レリアンは相手を慰めつつも、空白の期間に何があったのかを聞かずにはいられなかった。それは、あんなに元気のよく、明るい姉が、まるで別人になったかのように暗い雰囲気に包まれていたからである。
顔はやつれ、目のしたには隈が目立った。肌は白くて綺麗だが、その至る所には汚れがついていた。恐らく、身体を何日もまともに洗えないような環境にいたのだろう。
暫くすると、ミリアンは少しだけ落ち着きを取り戻したようである。そして、内乱が起こってから、何があったのかを話始めた。
「実はね......私が城で働き始めてから暫くたったある日、ある男の人と恋に落ちたの。でも、その人とは決して結ばれる事のない運命だった」
そう言いながら、ミリアンは言葉をとめた。
「決して結ばれない運命?どういう事?」
レリアンが問いかけると、それに静かに答えた。
「第三王子のギルバート様よ......」
姉の口から出たのは、驚きの名だった。今の時代、階級制度が緩和しつつあるとは言え、王家の者と一般階級の者が恋仲に落ちるなど、到底考えられる事ではないのだ。しかも、それが階級支配制度を強固なものとしていたザイザナック王の時代だと思うと、それはもう命懸けの恋である。
「え...お、王子の...ギルバート様...?そ、それは...許されるものなの?」
レリアンの問いは正直なものだった。一侍女でしかない女が、王家の人間と恋に落ちるなど、どう考えても許されるはずがない。それはきっと、今のアバイト王の時代でも変わらない事だろうと思ったからだ。
「許される訳...ないわよね。でも、あの人は私を愛してくれたの。だから、二人で国から逃げる事にした...誰も私達二人を知らない...どこか遠くへ......」
ミリアンの言葉は、予想していたよりも遥かに驚きのあるものだった。まさか、自分の姉が王家の者と恋に落ち、その相手の王子は自分の国までもを捨てて逃げようとしたと言うのだ。
レリアンは、カップに手を伸ばしたが、その中に注がれている紅茶を口に運ぶ気にはなれなかった。
「お姉ちゃん、それって...もし見つかったら殺されちゃうんじゃ......」
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。もしかしたら、この姉のミリアンは今、とんでもない事態に巻き込まれているのでは無いかと、思ったからである。
「うぅ.....ひっく......」
そしてそれはきっと、当たっていたのだ。レリアンの言葉を聞いたその姉は、顔を両手で覆いながら泣いていた。
「本当に、ごめんなさい...!家族を巻き込みたくはなかったの!でも、でも...もう頼れる人が誰一人としていなくて......!」
ミリアンは今まで以上の声を上げながら、泣き崩れた。それはレリアンの予期していた事が、図らずとも的中したのだと思わざる負えない言葉だった。




