第四十七話 優しさの応酬
「あっ、こっちです!」
大通りを歩いていた時、突然、その若い娘がレンガで造られた家の隙間に続く細い路地を指差した。リディオはそれに気づくと、人の波を交わしながら、ゆっくりとその指が指した先へと向かって歩いていった。
男の肩には、すらっと伸びた娘の白い手が載せられている。指はあかぎれが目立ち、肌はかさかさのようだった。恐らく、毎日水を使う仕事をしているのだろう。荒れた手は、採掘師のリディオの目から見ても痛々しいほどであった。
暫くその細い路地裏を歩いていくと、酒場が軒を連ねる通りへとでた。先ほどまでの道と違って、その道幅は多少なりとも人が行き交えるくらいはある。どの店先にも、飲んだくれて倒れた男達が、鼾をかいて眠りこけている。
まわりの建物はレンガと木の家が押し重なっていた。至る所で、焼け焦げた壁や、材木が放置されてあり、数年前の激しい内乱の傷跡がまだ生々しく残っていた。
「もうすぐです。実は父が小さな酒場を経営していまして...この先にうちの店があるんです」
娘がそう言うと、長く続いていく道の先を指差した。そこまでやっとの思い出たどり着くと、リディオへ向かって言った。
「ありがとうございます。ここがうちのお店です。よかったら、少し寄っていきませんか?もし、お昼ご飯などまだでしたら食べていってください。せめてものお礼になれば......」
店の扉の上には、酒豪ハイデンの酒場と書いてあった。木で作られた建物は、壁が少し焼け焦げていた。看板には文字と一緒に、酒樽の絵が描かれている。
「い、いや...あれは俺が悪かったので、そこまでして貰うのも悪いような......」
と、リディオが言って、断ろうとした瞬間。奇しくも、空腹によって鳴り響く腹。その音は、娘の耳まで確かに届いていた。
「あ......」
思わず顔を真っ赤にしながら、何とかその場を取り繕うとする。だが、それはあまりにもたどたどしい行いだった。相手はそれを察してか、笑顔で言った。
「お願いです!お礼がしたいんですっ!」
若い娘が頼みこむ形で、二人は酒場へと入っていった。娘の機転の良さで、リディオは何とか恥の上塗りをせずに済んだのである。
店内へ入ると、扉の上についた鈴が鳴り響いた。水晶石でできたその鈴の音は、透き通るような心地よい音色であった。
「おっと、まだ今日は開店してないよ!って、なんだ、お前か。どうした?お客さんでも連れてきたのか?」
木のほうきを使って床掃除をしていた男が、扉から入ってきた二人へと向かって言った。茶色の布の服とズボンを着ており、汚れたエプロンを首からかけている。足にはサンダルのようなものを履いており、体つきは逞しい。
「あ、お父さん。実はね、ちょっと路上市でぶつかっちゃって...。それで、足を挫いてね、この方がカゴを運んでくれたの。だから、せめてご飯でも作ってお礼がしたいと思って」
娘がそう言うと、その父親であろうか。男はゆっくりと、リディオへと歩み寄ってきた。
「アンタ、それはすまなかったなぁ。うちの娘はどうもその辺が抜けててな。注意力に散漫っていうのか、集中力が無いっていのうか。なんだかなぁ。うちの嫁はもっと出来た奴だったんだが...すまなかったな。まぁ、ゆっくりしていってくれよ」
娘の親父は頭を掻きながら、申し訳なさそうに言った。リディオから見たら、十分に器量のよさそうな子だったのだ。しかし、やはり親というものは、子供に対してどこか厳しくなるのかも知れない。
「い、いや。俺が悪かったんです。周りをよく確認もせずに、店へと向かって進んでましたから...あ、そうだ。このカゴは何処に置けばいいでしょうか?」
リディオも申し訳なさそうに、言った。酒場の親父の態度は、どこかその娘に似た所がある。瞳はブルーで、髪は短く切りそろえられているがスカイブルーの中に白髪があった。見た目も中身も、やはり親子なのだなと思えた。
「ああ、そうだな。すまねぇ、それは俺が預かるぜ。アンタはその辺の開いている席にでも座っていてゆっくりしていてくれ」
親父はカゴを受け取ると、店内へと視線を流した。いくつかのテーブルは、掃除のために椅子が上に上げられていた。そのため、リディオは一番奥にある壁際の席を選び、そこへ腰を下ろした。
気づけば、今日は朝起きてから数時間、何も口にしていなかったのである。確かに腹が鳴ったのも頷けるほどに、今は空腹に襲われていた。
椅子に座った男は、店内をぐるっと見渡しながら、何となく周囲を観察しているようだった。壁は木で出来ており、その至る所に採掘道具が飾られている。その道具を見ると、意外に使い込まれているのがリディオの目には分かったようだ。
ピッケルのもち手となる所には、赤い血と泥が滲んでいる。これは一流の採掘師の証であり、綺麗に研磨されたその先端は煌いていた。
どうやら、ここの親父は元は採掘師だったのであろう。それが一山当てたのか、はたまた溜め込んだ金でなのか、店を買い、酒場を始めたといったところか。店内は小奇麗に掃除してあり、決して広くはないが、居心地は今の所良かった。
「お待たせしました。うちのお店のおススメ。ポッタルナスープです。それにパンとお肉を持ってくるので、スープを飲んで待っていてくださいね」
娘は茶色のドレス状の服の上に、白のエプロンを付けてリディオの座る席へとやってきた。その手には、湯気が沸き立ついい香りがする半透明のスープが注がれた器が見えた。それを男の手元へとゆっくり置くと、木で出来たスプーンを手渡してきた。
「あ、ありがとう。じゃあ、いただきます」
リディオはそれを受け取ると、お礼を述べた。そしてそのスプーンでポッタルナのスープをすくった。香草の香りたつその半透明の液体を、かさついた唇の間へと入れ込む。
「う、うまい...何だこれ......」
思わず、独り言のように呟いた。まろやかな味わい。僅かな酸味。そして、絶妙な塩気が、口の中一杯に広がったのである。体の芯から温まる優しい味であった。
すきっ腹にどんどんとそのスープが入っていく。まさか、このような酒場で、このような美味い食べ物を口にできるとは、と言ったような顔つきであった。
「お待たせしました。ロロロパンと兎肉の燻製です。パンはスープにつけて頂けると美味しいですよって...あ...おかわりお持ちしましょうか?」
娘がそう言うと、男の動きが一瞬だけ止まった。すでにパンと肉が運ばれてきたときには、スープを全て平らげてしまっていたからである。
「あ、すみません...あまりにも美味くてつい......じゃあ、お代わりを......」
リディオは恥ずかしそうに答えた。空の器には木のスプーンが置かれており、すでにそれは一滴も残ってはいなかったのである。
「はいっ。今お持ちしますねっ」
娘は元気のよい言葉で答えると、空になった器を持って店の裏へと消えていった。新たに運ばれてきたロロロパンとは、長さ十五センチ程の小枝のようなパンである。そのパンが何本が積み重なり、陶器の皿の上に置いてあるのだ。これの先端にスープを浸すと、ポッタルナのスープ味が染み込み、新たな旨みを引き出すのである。
そして、もう一品は兎肉の燻製である。これは酒場で大人気の食べ物で、塩分がすこし強いが、その分酒には抜群に合うのだ。クレムナント王国では、山間部に生息する岩とび兎という種類の獣が多く生息している。これを狩猟して、昔からこの国の人は食べているのだ。
「お待たせしました。スープのお代わりです。どうぞっ。まだ、ありますからね!お代わりをしたければ、声をかけてくださいっ」
娘は気前のよい顔つきでそう言うと、リディオは軽く頷きながらお礼を言った。そして、ロロロパンを手に取り、そのパンの先にスープを浸し、口へと頬張った。
男が食べ物へと手をつけると、その娘は席を離れた。そして、店の親父が途中までしていた掃除の続きを始めるべく、カウンターの裏に置いてあったボロ雑巾を手にとってテーブルを拭き始めた。
食べ物は美味かったようである。満足げな表情を浮かべながら、全てを綺麗に平らげたリディオは、膨れた腹を摩っていた。その銀褐色の目は、無意識に店内を掃除している娘の姿を追っていた。冷たい水によって、手のあかぎれが痛むのか、時折、その手を摩るようにしながら拭き掃除を続けている。
男が全てを食べ終えたのに気づいたのか、娘はリディオの座る席へとやって来た。
「いかがでしたか?お口に合いましたか?」
娘が不安げな顔つきで言うと、男はものすごい勢いで首を縦にふりながら答えた。
「も、もろんです!あのスープ...なんて名前でしたっけ。凄い美味しかったです。あんなに美味しいスープは、初めて口にしました。あ、もちろん、パンと肉も最高でした!ここまでして頂けるなんて、なんとお礼を言っていいのやら...できれば少しでもいいので、お金を払わさせてください」
リディオは自分の感じた感覚を最大限の素直な言葉で伝えようと、必死だったようである。そして、最後はやはり、申し訳なさそうに、その食べ物の代金を払うと言い出した。だが、娘はそんな相手の申し出を笑顔で断った。
「よかった!あのスープ、実は私が作ったんです。この地方でしか取れないポッタルナというお芋を使っているんです。甘みがあって濃くもでる。スープには最高の食材なんです。パンとお肉はうちの父のお手製です。きっとその言葉を伝えたら、嬉しがりますよ!あ、お金は本当にいいんです。こんなに遠くまでカゴを持って、来てくれたのですから、それくらいのお礼はさせてください」
娘は迷いの無い言葉で言った。まだ若いにも関わらず、その顔つきには強い意志が感じられた。リディオはその言葉に甘え、腰元から取り出していた硬貨の入っている袋をしまった。
あとはこの店を後にして、できるだけ安い宿屋を取り、採掘道具の買い付けを行うだけである。しかし、リディオは席を立てずにいた。男の兄弟の中で育ったこの青年は、はっきりといえば、女性というものがあまり得意では無かったのだ。だから、彼は高鳴る心臓の鼓動を隠しながら、自分にこう言い聞かせていた。
(頑張れ俺!頑張れ俺!ここが勝負どころだ!言え!言うんだ!)
「あ、あのっ!」
「あ、あのう....」
二人同時だった。満を持してその言葉を放ったのは、何と娘も同様だったのである。二人は互いに顔を見合わせると、暫くの間、黙りこくってしまった。そして、リディオが口を開いた。
「な、何でしょうか?」
リディオが喉の奥から絞り出すようにそう言うと、娘は顔を赤くして答えた。
「あの...よかったらお名前だけでも教えて頂けませんか......」
下を俯きながら、男へと向かって言った。その言葉は空に漂い、すぐに消えてしまいそうなほどに、か細いものだったのである。
「あ、俺は...フェリア精霊国の外れにある小さな村から来た...リディオ・ウェイカーと言います。あ、あなたの名前もよければ、教えてください...!」
男は勇気をもって言い切った。最後の言葉を言ったときには、全身に入る力のせいで、何故か椅子から勢いよく立ち上がっていた。その男の態度に少し驚いた様子だったが、娘の顔はしだいに笑顔へと変わっていった。
「わ、私の名前はレリアン・ハイデンと言います。ここの酒場の店主の娘です...あの良かったら、またいつでもお店に来てください...待ってますから......」
娘もまた、その勇気を振り絞って最後の言葉を言い切った。二人の間には暫くの沈黙が続いた。胸の高鳴りが激しく襲いくる中、リディオは一番言いたかった事をついに口に出した。
「あ、あの!」
「はい?」
レリアンは、リディオの問いかけに素直な返事で答えた。すると、男は、持ち歩いている麻の袋に手をつっこむと、ある物を取り出した。
「これ、お礼になるか分からないんですけど......よかったら使って下さい。その手の傷に、効くと思います」
そう言いながらテーブルの上へと出したのは、蝋で出来たかのような正方形の四角い固体だった。両手に乗せれるほどの大きさである。だが、レリアンはそれが何なのか、分からないようであった。クレムナント王国では、見たこともない代物であったからだ。
「え、えっと...これは?」
レリアンはリディオへ向かって、問いかけた。その問いかけで、気づいたのであろう。何に使い、どうやって使用するのか説明をし始めた。
「これは俺の国でよく取れる方凛草という薬草をすり潰して、煮込んだもので出来ているのですが...これを手に塗ると、そのあかぎれが治るかもしれません...水もはじくので、仕事にも差し支えないはずです」
リディオはその固形物を差し出しながら、言った。しかし、それでもレリアンは今いち、どのような物なのか分からずにいるようだった。
「塗る?どうやってやればいいんでしょうか?」
素直な問いだった。固形であるのに、それを手に塗るというのは、どいった工程が必要なものなのかが分からなかったからであろう。
「あ、じゃあ今試しに塗ってあげるので、そこに座ってください」
リディオがそう言いいながら、レリアンの目の前にある椅子の一つを指さした。そこへ座ったのを確認すると、布袋から小さな刃物を取り出した。それは普段、果物等を食べる際に、食べやすい大きさなどに切るためのものである。
それを手に持つと、テーブルの上に置かれた白い固形物を、刃物で削り取りはじめた。そして手の平に小さな山を作ると、両手を合わせて擦り始めたのである。すると、固体だったそれは手の温度によって、液体へと変わったのである。とろみのある、塗り薬と言った所だ。
「じゃ...じゃあレリアンさん、手を出してください...」
「は、はい...」
リディオはそう言いながら、レリアンの小さな手を取った。そして、あかぎれが目立つその皮膚に刷り込むように、その液体を塗りこんだのである。
「痛っ」
レリアンは、思わず声を出した。そんなつもりは無かったのであろうが、傷に触れられた事で無意識に声が出てしまったのである。
「あ、ごめん。痛かったですか?」
リディオンは申し訳なさそうに問いかけた。細心の注意を払いながら、その手を取って薬を塗りこんだのだが、やはり傷が酷かったようである。少し触れただけでも襲い来る激痛は、耐え難かったもののようだ。
「いや、大丈夫です。ごめんなさい。続けてください」
そう言いながら、自分の手へと優しく摩るようにしてくれるリディオンへと、その行為を促した。
「痛かったら我慢せずに言ってください。俺も手荒れが酷くて...採掘師をしているのですが、そのせいで大分苦しみました」
相手の意識をなるべく遠ざけるためなのか、リディオンは初めて笑顔をレリアンへと見せた。ぎこちない顔だが、それは優しさと温かみに包まれたものだった。眉は少し太いが、きりっと上がっており、目の輝きは美しい銀褐色である。その瞳を覗き込むと、吸い込まれそうな感覚にレリアンは陥った。
「ありがとう...リディオンさん...」
全ての薬を塗り終えた時、レリアンは相手の名を呼んだ。恥ずかしそうであるが、精一杯の気持ちのこもった言葉だった。
「いえ、いいんです。よくなるといいですね。毎日、欠かさず塗りこんでください。そうすれば、数週間で傷は綺麗に消えるはずですよ。じゃあ、俺はこの辺で失礼します。本当に、おいしいご飯、ありがとうございました」
そう言うと、リディオンは身支度を整え始めた。あまりにも長居をすると、迷惑になると思ったからである。そして、扉に嵌まるガラス窓からは、夕日が差し込んでいるのに気がついたからでもあった。
そろそろこの酒場も開店の時間となるであろう。後数十分もすれば、採掘場で一日の仕事を終えた男達が、酒場へと集まってくるのである。そうなれば自分の存在は邪魔にしかならないという事も、分かっていた。
「あ、そうですねっ。絶対に毎日欠かさず塗りますね!こちらこそ、ありがとうございます!よかったら、また来てください...!」
レリアンは椅子から立ち上がりながら、リディオンへと向かって言った。その最後の言葉は、果たして社交辞令なのであろうか。男にはそれが判らなかった。できれば、また来たいと思ったのは確かである。しかし、迷惑にならないだろうかと、心配していたのだ。さらには、また顔を出して、もしさっきの言葉が社交辞令だった場合、気持ち悪がられたりしないだろうかと。
そんな事を考えながらも、素直に今は、嬉しいと思ったのは間違いではないはずである。
「あと一週間ほど、この国にいる予定なので...また...来たいと思います」
リディオンが相手の様子を伺いながら言うと、レリアンは満面の笑みを持って頷いた。そして、扉の方へと向かって歩いて行った時、店の裏から出てきた店主の親父が声をかけてきた。
「おい、あんた!ちっと待ってくれ!ほら、これを持っていけ!」
汚れたエプロンで両手を拭きながら、カウンターの裏に置いてあった紙の袋を手にとった。それは、本当は、レリアンがリディオンに直接渡そうとしたものである。しかし、何故か渡さなかったのである。
二人の様子を裏の厨房から覗いていたレリアンの父親は、そんな娘を見かねて、出てきたのであった。そして、リディオンの肩を引き寄せるように近づくと、小声で言った。
「これ、持っていってくれや。うちの娘が、あんたにってパンとスープに、兎肉の燻製を裏で容器に詰めてたんだ。腹が減ったときに、食ってくれ。あとなぁ、これは俺の独り言なんだが...うちの嫁はついこの前、病で倒れて亡くなっちまってなぁ。あの子の姉も城へと奉公にでて、最近は寂しいのかめっきり笑顔を見せなくなっちまってたんだ。だけどよぉ、今日は久しぶりにあんなに楽しそうないい笑顔を見たんだ。もしよかったら、明日もぜひ、うちに来てくれよ。飯は俺がおごる!だから、頼むぜ。な?」
親父の顔は至って真剣だった。その迫力に押し負けたかのよに、リディオンは頷きながら答えた。
「そ、そうなんですか。じゃあ有難くいただきます。ご夫人の事はお気の毒に...何と言っていいのか判りませんが、俺でよければ、ぜひ、明日も来させてください」
リディオンはそう言いながら、相手が差し出してきた袋を受け取った。それに満足したのか、親父は豪快な笑い声を上げながらその背中を勢いよく叩いて、男を送り出した。
「がっはっはっ!そう言ってくれると思ったぜ!ありがとうよ!」
そんな様子を店の奥から見ていたレリアンは、扉から出て行くリディオンの背中を眺めていた。そして、最後に振り向いた男と目があったのである。
その顔に向かって、満面の笑みを持って手を振った。それに相手も応えるかのように、会釈をして出て行った。
これが、後の水中都市国家の十三騎士団を纏める、セルシディオン・オーリュターブとクレムナント王国の第三妃レリアン・ハイデンの出会いであった。




