第二十四話 海の皇子
僅かに開きかけた瞼の隙間から、光が差し込んだ。
しかし夢と現実の狭間をさ迷い歩く青年は、自分の肉体さえも上手く動かすことが出来ずにいた。
「うっ...ぅぅ...」
もて得る力込めて、のどの奥から搾り出した言葉。それは弱弱しいうめき声のようであった。
「目を覚めましたのね...さっ、一先ずこれをお飲みなさい」
ただ受け入れる事しか出来ない身体。息を吸って吐くためだけに開かれた口内に、何者かがゆっくりと少量の液体を流し込む。
「これで暫くすれば動けるようになるはずよ。それまでは横になっていなさい」
霞がかる視界が、少しづつ鮮明になっていく。感覚を失っていた格器官と神経系が、微かに反応を見せ始めた。
数十分ほど経つと、まったく微動だにしなかった体の一部が反応する事に気づいたのである。
両手の親指、人差し指、中指、薬指、小指を順番に動かしていく。確かな反応が、肉体へと返る。身体機能が回復し始めた証拠である。
やがて青年は、皮製の大きなソファへと横になっていた身体をゆっくりと起した。右から左へ、左から右へと、ゆっくりと首を動かす。するとそこは大きな広間である事が分かった。
よくよく見てみると、壁だと思っていたのは全て本棚だった。無数の本が、壁一面に敷き詰められている。
書庫にしては広々としすぎていた。
室内の中心地には背の低いテーブルと、それを囲む様にしてある四つのソファ。青年が腰かけているのは、その内の一つであった。
青年はふと、頭上を見上げた。
すると十メートルはあろうかという高さの壁に、きらりと光る何かがあった。
目を凝らすと、天体図が描かれていた。異様な輝きを放つ星ぼしには、息を呑むほどの美しさがある。
「気分はどうかしら?」
頭上を見上げていた青年へ、投げかけられた言葉。その声が聞こえてきた方向へと顔を向けた。
するとそこには、大量の書籍が山積みになった木製の机があった。本の山の隙間から覗き込むようにして、誰かが青年の方を見ていたのだ。
「最悪です」
たった一言。皮肉交じりに答えた。
「そう。まぁ、見た感じ大丈夫そうね」
声の主は、書籍の裏から姿を現した。
声に張りがあり、明朗な言葉。だがそこに姿を現したのは、真っ白な長い髪をした老婆である。
着ているローブは、決して高価な布地ではない。しかし質のいい素材でしっかりと作られている。品と位の高さを、それが物語っていた。
ローブとは、上下が一体となっている布製の服である。主に聖職者や、魔道議会に属する導師達が身を包む服であった。
「仲間が居たはずだ。大柄の男と小柄の女が......」
目の前に現れた老婆に対して、青年は警戒心を強めた。何かしらの思惑が、相手にある事を理解していたからである。
そしてそれは今までの経験上、よからぬ結末になる事が多い事も知っていた。だがそんな相手の心を見透かしているかのように、老婆は微笑んだ。
「なぁに、とって食ったりはしていないわよ。安心しなさいな。貴方に危害を加えるつもりもないわ」
子供をあやすかのような口調で優しく語りかけた。
「ならばいいが...もし、俺の仲間に何かしてみろ。そん時はアンタを......」
鋭い眼つきで、青年は老婆を睨み付ける。
「仲間を大切にするって良い事よね。まぁそんなに尖がらないでちょうだい。二、三質問に答えてくれれば、すぐにでも解放するわよ?」
青年の向かい側に位置するソファへと、老婆はゆっくりと腰を下ろした。
妙な納得と安心感。それを感じた次の瞬間には、青年は普段の気の抜けた顔つきへと戻っていた。
「分かった...なら、質問には何でも答えよう。だがこちらの質問にも答えて欲しい。何故俺達が捕らえられたのか?ここは一体どこなのか?そして、アンタは一体何者なのかを」
老婆は相手の言葉一つ一つに頷きながら、静かに傾聴している。どこか気品を感じさせる井出達でありながらも、それを鼻にかけない態度であった。
「いい子ね。じゃあまず貴方の信用を得るために、こちらが先に質問に答えようかしら。私はこの国に仕える魔道師のアルンドゥーという者よ。クレムナント王国では魔道師の集団の事を、魔導議会と呼ぶの。魔導議会の仕事は様々だけど...私の主な役割は、簡単に言えば探知と監視ね。そしてここは魔道議会の議会堂と呼ばれる場所。城下町で言えば、ちょうどウィザンドリードの地下に位置するわね」
自分の名をアルンドゥーと述べた老婆。笑みを浮かべながら、ゆっくりとした口調で説明した。
「なるほど。そう言う事か。この国へ来た者であるならば必ず宿屋に泊まる...それを利用していた訳だな。だからウィザンドリード...魔道士の道なんて名前をしているのか。全てはこの国にとって危険な存在を排除するためと言う事かな?」
「まぁそう言う事ね。無論、害があると判断すればだけどね。だからこの城下町のあらゆる箇所には、貴方達の様な者を捕らえる罠を設置しているの。まぁ、最近は色々あってその数を増やしていてね。その中の一つに、偶然かかったという訳よ」
アルンドゥーは小さな子供に物事を教えるが如く、優しく丁寧に相手へ教えた。
「でも分からないなぁ。普段俺達は波動を...いや、この国では魔力と言うのかな。それを極限まで抑え込んでいるんだ。それでも反応するものなのか?その罠とやらは」
「まぁ時と場合によりだけど、貴方の仲間である大柄の男。彼が微かな違和感を察知して、魔力を高めた事が原因じゃないかしらね。それに城下町へと足を踏み入れた時点で、貴方達はすでに監視対称になっていたのよ」
零は驚いていた。それを顔に出してはいないまでも、心の中では確かな動揺があった。
まさか城下町へと入った時点から、すでに監視されていたとは思いもしなかったからである。
大通りを行きかう人々の数も尋常ではない。その中で対象を見失わず、監視するにはそれなりの高等な魔法による仕組みが構築されているはずなのだ。
それが国の中で制御され、統制されていると言う事実。魔法と何らかの高度な技術が組み合わさったものであるのは、間違いないのである。この時代において、そのような仕組みを持つ魔法が、果たしてあるのだろうか。
老婆の言葉から推測し導き出された答えは、あまりに常識から逸脱した馬鹿馬鹿しい考えだった。だからそれを青年は、口には出さなかったのである。
「では、こちらの質問に入らせてもらおうかしらね。まず聞きたいのは、何故この国へ来たのかってことよ。最初に言っておくけど嘘は駄目よ?私はこれでも相手の嘘を見抜く、特別な力があるんだからね」
アルンドゥーはそう言うと、しわだらけの顔で笑顔を作ってみせた。
数多の経験と体験。それら一つ一つが、そのシワとなって刻み込まれているかのようだ。
「嘘をつくつもりはないさ。まぁ隠す事でもないしなぁ」
青年はソファの一番深いところに腰を当て直した。何故だが零にとって、このアルンドゥーと言う老婆との会話が、心地良いものへと変わりつつあったのだ。
「ある鉱石を探しているんですよ。それは俺達の国にとって唯一の希望なのかも知れない。ここまでの長い道程で得た情報によると、この国にその鉱石を知る人物がいると聞いたのでね。その情報集めをしようと思っていた所だったんだ」
「そうなの...大変なのね、貴方の国も。じゃあもう一つ聞くわ。貴方達三人は一体何者なのかしら?魔法を扱える者であるようだし、普通の一般人...って訳じゃないわよね。それにあの大柄の男。彼ほど戦闘に長けた者は、この国の中においても数人しかいないわよ。そんな者を従える貴方は、一体どこから来た、何者なのかしら?」
青年は老婆の琥珀色の瞳の奥から、得体の知れない力を感じていた。
「俺達はフレンバ海にある、島国アンリカリウスという所から来た。俺はその国の皇帝の息子だ。名をロッソ・零・リューと言う。小柄な女はユーファ・リネル。大柄の男はベグート・ロンダイムだ。俺は皇帝の十四番目の子供で、対した権力も地位もない男だけどな。そんな俺が国から出る時、ついてきてくれたのがあの二人だ。別に部下とか主従関係とか、そういうのじゃないんだ。信頼できる唯一の仲間ってやつさ」
「そう...だからあの男は必死に貴方を守ろうとしたのね。全てに納得が言ったわ」
老婆は腰掛けていたソファから、ゆっくりと立ち上がった。そして続けざまに言ったのである。
「ありがとうね。お仲間も解放するから、貴方の目的のために好きに動くといいわ。さ、出口はあちらよ。地上までは他の者が案内するから安心して着いて行きなさい」
老婆は笑みを浮かべながら、扉を左手で指した。
零は立ち上がると、一歩ずつ踏みしめるように歩き出す。どうやら先ほど飲まされた液体により、全身の感覚がほぼ正常に戻っているようであった。
「あ、そうだわ。貴方の探している鉱石...もしかしたら鉱石商のアウルス・ベクトゥムが何か知っているかもしれないわ。だから会いたければ、大通りを挟んだ向かい側。一般階級の居住区805番地に行きなさい。彼の家がある場所よ」
「なっ!?本当か!?」
「貴方の探している物が見つかるといいわね。幸運を祈っているわ」
零へと向けられた微笑みは、最後の言葉と共に強い印象を残した。
アルンドゥーは書籍が山積みなっている机の裏側へと消えてしまった。
「ありがとう。恩に着る」
零は深く頭を下げると、そのまま室内を後にした。




