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第百七十五話 神の檻

 崩落の進む空間内では、遥か先まで深く闇が広がっていた。


 リディオは柄へ手を伸ばし、剣の切っ先を床へと立てる。そして全身に力を込めた。


「ぐっ!」


 軋む肉体を一気に動かして立ち上がる。鈍い痛みが全身を走る。受けた傷は大きく、魔力の大半を失ったのだ。今残っているのはハルムートから授かった僅かな力のみである。


「レンデス王子…レンデス王子何処だっ!出てこい!」


 リディオは周囲をゆっくりと見渡した後に叫んだ。しかし何の反応もないようである。


「生きているなら返事をしろ!頼む!危害を加えるつもりはないっ!うっぐ………はぁはぁ………」


 ハルムートとの戦いで負った傷が、大きな波となって襲い来る。歪んだ顔からは痛みのあまりか、脂汗が吹き出していた。左肩から抉るように失った腕は、治癒魔法で傷だけ塞がれたのみである。肋骨、鎖骨、大腿骨の亀裂。さらには内蔵への損傷までは回復に至ってはいない。

 常人であるなら立ち上がる事さえ困難だろう。無理に動けば激痛で失神さえもあり得る。


「私とハルムートの話を聞いていただろ!私はウリィシス・ウェイカーの実の父!リディオ・ウェイカーだっ!ぐっ………長い間セルシディオン・オーリュターブと言うまったくの別人として生きてきたっ。それも全て、この日、この時の為だ!うぐぅ………」


 声を張り上げる度に襲い来る痛みに、リディオの意識は朦朧としはじめていた。

 よくよく考えれば二人の戦いに巻き込まれ死んだ可能性だってあるのだ。あの激戦の中で消し炭となり、跡形も無く消え去っていても不思議ではない。

 だがそれでもリディオは諦めていなかった。


「レンデス王子!私はこの世界に…愛する者全てを取り戻したいだけなのだっ!貴方にも願いがあるだろっ!ぐっ………何にも代えられぬ願いがっ!神の檻に入る事が出来れば全ての願いが叶う!そのための鍵は貴方が!そして入るための鍵の使い方を私は知っているっ!だから頼む!ぐふっ……はぁ…はぁ…生きているなら出てきてくれぇっ………」


 リディオはついに両膝を床へと着いてしまった。

 最後の力を振り絞っているのだろう。項垂れるように視線を落としている。柄を握る手だけは離さずに、剣の切っ先を立てて何とか態勢を維持していた。


「お前を殺して俺は一人で神の檻へと入る。鍵の使い方を言え。」


 背後から聞こえた声と同時に、リディオの首筋に刃が当てられた。


「やはり………生きていましたか………レンデス王子」


 リディオは視線を床へ落としたまま言った。


「腐っても議会の五大魔導師がかけた防御魔法だ。お前達の戦いの最中でも最後まで耐えてくれたよ。ラミナント王家が魔導師共の傀儡でしかなかったと知った今、奴等の力で生き延びた事は屈辱でしかないがな………」


 レンデスの瞳には憎悪の炎が見てとれた。崩壊していく現実と耐え難い真実。そのどちらもが自分を苦しめていたのだ。


「真実とは往々にして残酷なもの……だがその残酷さを超えた先に………掴むべき本当の未来がある………うっ!ぐっ………」


 リディオの魂が悲鳴を上げていた。ハルムートとの激闘の際に肉体を転化させた反動が如実に現れ始めたからである。


 魂とは本来の器である肉体と一対になっているもの。しかし、ガルバゼン・ハイドラによってオーリュターブの体へと移し変えられた魂は、不完全まま幾年もの歳月を過ごした事で弱りきっていた。

 そんな状態で転化した事で、本来の器である肉体にも拒絶反応を引き起してしまったのである。

 

 リディオ・ウェイカーは死を悟り始めていた。幾度と無く駆け抜けてきた未来が、本能へと語りかけてきていたからだ。お前は死ぬと。


「だったら俺はお前を殺して、掴むべき本当の未来とやらを手に入れる。最後だ。鍵の使い方を言え!」


 レンデスは語気を荒げた。崩壊していく現実と耐え難い真実の狭間。抑制していた感情のたかが外れる一歩手前にいるのだ。


「鍵の…使い方は…己の血を床へと垂らし…こう言えばいい……《我思う、(カ・ルデ)故に我あり(アル・デカッド)》と…そうすれば扉が現れ…神の檻へと…入る事が出来る……」


 抑揚の無い声。覇気も消え去り瞳からは雫が零れ落ちていった。


「お前を信じる事が出来るなら、今すぐにでもその首をはねている所だ。しかし、実際に《扉》とやらを見るまでは信用できない。それまでは僅かだが生かしておいてやる。だが分かっているな?もしその言葉が嘘偽りであるなら、どんな苦しみや痛みを与えてでも本当の鍵の使い方を吐かせてやるぞ」


 底知れぬ冷たい眼差しがリディオの背後から向けられていた。首筋に当てられた刃は微動だにせず、薄皮一枚の所で止まっている。


「今さらここまで来て…ぐっ…嘘等つきませぬ…はぁ…はぁ…どうせこの体も長くは持たない……貴方がやらずとも私は……死ぬ……」


 リディオの衰弱した姿に、レンデスは一度剣を引いた。目の前の男に抵抗する力も無い事を感じ取ったのである。

 レンデスは自分の左手の平を開くと、魔鉱剣の刃をそっと当てた。じわりと滲みだす血。ゆっくりと流れ出て、一滴、二滴、三滴と床へと落ちていく。それを確認すると呪文を唱え始めた。


我思う、(カ・ルデ・)故に我あり(アル・デカッド)


 ゆっくりと周りを見渡す。レンデスのパープルの瞳に写るのは、至る所で崩落する壁と砂煙。そして何処までも続く暗闇。


「何も起こらない?騙したのかっ」


 レンデスが怒りを露にした瞬間であった。それは突如として起こったのである。


 床へと落ちた血が青白き光を放ったかと思うと、そこから噴水のように湧き出る古代文字の数々。頭上高くへと舞い上がり、雨のように降り注ぐ。リディオとレンデスを包み込む。


「こ、これはっ!?」


「やっとだ…やっと…願いが叶う……」


 降り注ぐ光の文字が二人の男の体をゆっくりと塵芥(ちりあくた)へと変えていく。まるでそれはガウル・アヴァン・ハルムートが霊体の姿から昇華していく光景に重なる。ただ違うのはその塵のように見えたのは極小の古代文字。文字が体から剥がれて浮き上がり空へと舞って消えていく。


「何なんだこれは!?お、俺の身体が消えていくっ!やめろ!どういうことだっ!?神への檻への扉が現れて開くのではないのかっ!?おい!リディオ・ウェイカー!答えろォォォォォッ!」


 混乱状態に陥ったレンデスは、声を張り上げながら魔鉱剣を無我夢中で振り払った。しかしそこで気づいたのである。振るったはずの右腕がすでに消え去っている事を。


「うわぁぁぁぁぁぁっ!俺の腕がっ!腕がぁぁっ!」


 身体のあらゆる箇所が塵芥となって舞っていく。顔も手も足も腹も背中も。その全てがまるで美しい。


「レンデス王子……申し訳ありませんな……私は嘘を……言った……神の檻など……端から存在しない……ふふ……やったぞ……私はあの男さえも出し抜いた……これでやっとこの世界から……解放さ……れる……」


 リディオは慌てふためくレンデスへと言った。そして身体の全てが青白き文字となって空へと舞い散ったのである。


「神の檻など存在しないっ!?世界からの解放だとっ!?どういう事だ!くそっくそっくそォォォっ!こんな所でっこんな所でっ!俺はまだっ!ヤメロォォォォォォォッ!」


 レンデスにとっての唯一の目的は、弟であるサイリスを玉座へと押し上げる事であった。エデンのためと言う建前で起した城内への潜入作戦は、そんな自分の気持ちを隠すのに都合が良かったのである。

 しかし、目の前の男が最後に残した言葉はそれら全てを唐突に吹き飛ばし、そして無にするものだった。到底受け入れられないであろう結末。最後の断末魔は虚しく残響し、光と共に闇へと吸い込まれていったのである。


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