第百七十四話 勝者と敗者
強大な魔力の衝突により歪みを起こした空間。空中に浮かび上がる青白い文字は何処かへ消え去った。漆黒の壁にはひびが入り、至る所で壁が崩落を始めている。
そんな中、力無く倒れている男がいた。大量の血がゆっくりと床を伝って広がっていく。傷は深い。半身に大きな損傷を受けており、左腕を失っていた。
「うっ………レリー……ウィリ……シス……うっ……レ……リー……ウィ…リ……シス………」
男は何度も口ずさんでいた。愛する者の名を。
生気の無い顔。光の消え入りそうな瞳。覇気の無い言葉。どれを取っても死が目前へと迫っているのを物語っている。
そこへゆっくりと、ハルムートが近づいていた。そして男の前で歩を止めると、口を開いた。
『それがお前の真の姿か、リディオ・ウェイカー。どんな魔法を使ったかは知らないが、肉体そのものを転化させ、魂の共鳴を起こすとはな。否、魂の解放と言った方が正しいか……』
灰色の瞳に色素の抜けた白髪。青白い血色のない顔。鋭い狐目。セルシディオン・オーリュターブは何処か近寄り難く薄気味悪い印象を他に与える男だった。
しかし今、ハルムートの目の前に倒れているのは違ったのである。ライトイエローの髪。太く釣り上がった眉に銀褐色の瞳。重傷を負い正に死の淵にたっているはずだが、その顔つきは精魂逞しい。
「おれの……まけだ……ころせっ……」
何処か遠くを見つめる眼差し。リディオ・ウェイカーへと肉体そのものを転化させた男は、息を吐き出すように言った。
『負け……か。負けと言う言葉が何を意味するのか、儂とお前では認識の違いがあるようだ』
ハルムートは黄土色の瞳で、リディオを見下ろしていた。
「なん……だ……と……?」
リディオは瞳を動かし、隣へと立つハルムートへと向けてた。そして時間をかけ十秒程で相手へと焦点を合わせたのである。すると、その体は淡い緑色の光に包まれていた。この世へと召喚された霊体であるせいなのか、背後が透けて見える程に薄らいでいたのだ。
『儂の姿を形作っていた魔力の核は粉砕された。見事な一撃よ。今の儂は外殻に残った僅かな力でここに存在しているだけ。この状態では何もできん。まぁこの剣をお前の首へと振り下ろすくらいは出来るが……』
ハルムートの右手には剣が握られていた。魔力の消失により、宝天剣はその形状を維持出来なくなってしまったのだろう。幅広の刃には古代文字が刻み込まれており、現出していた焔の刃は消えさっていた。
「なにが…いいたい……?」
リディオの問いに、ハルムートは言葉を続けた。
『リディオ・ウェイカーの勝ちだという事だ。儂の全てをお前が打ち砕いた。其の者を癒し給え』
ハルムートが左手をリディオの肉体へと向け魔法を唱えると、傷はみるみると塞がっていった。
「こ、これ……は……」
リディオは驚きを隠せずにいた。
『失った腕までは再生出来んが、せめてもの餞別だ。これも受け取れ。魔力を糧とし命を繋げてゆかん。儂の最後の魔力だ。他者の魔力を吸収する事の出来るお前なら、この魔力で十分に体を動かす事も出来るだろう』
淡く光る美しい緑の光。ハルムートの左手からリディオの肉体へと魔力が流れ込む。すると生気が戻り顔の血色が良くなっていく。
だがその反面、ハルムートの霊体はゆっくりと足元から光の粉となり、周囲へと飛散していく。
「何故だ……?何故、敵である俺に……?」
リディオは右腕を床へと付き、上半身をゆっくり起こした。
『ふっ。儂は儂の望む未来のために戦った。それはお前も同じだろう。そして儂が負けた。ならば勝ったお前にはこの先の未来をその目で確かめる義務がある。ただそれだけの事だ』
ハルムートの口元は綻んでいた。言葉はハルムートの言葉そのものだったが、表情からリディオが読みとったものはまったく別のものだった。
「ならば何故、負けたお前が笑う。貴様が背負っていた物から解き放たれる解放感か?望む未来とやらのために犠牲になった者達の事を少しでも考えた事があるのか?」
リディオは落ち着いていた。しかしハルムートへと向けられた言葉は、辛らつ極まりないものだった。
『無い、とは言わぬが……考える暇も無かったと言うのが正しいか。前へ進むのに必死だったのだ。後ろを振り向けば足が止まる。それが分かっていたからな。儂が憎いだろう。お前の愛する者全てを利用したのだからな。否、違う………認めよう。奪い取ったのだ。お前の全てを儂が』
ハルムートらしからぬ言葉。感傷にも浸るかのようであった。しかし視線は一切、リディオから外す事がなかった。
「そうだ。お前がっ俺のっ全てをっ………!」
リディオの瞳に憎しみが現れ出でた。消えかかっていた憤怒の炎が再び燃え上がったかのようであった。
「間違った事をしたとは思っていない……だが後悔をしていない訳ではない……その矛盾が儂の《答え》だ……リディオ…ウェイ……カー……すま…な……かっ………」
ハルムートは最後の言葉を言い終える直前、光の粉となって飛散し、そして消え去った。空に舞うその残光を見やりながら、リディオは暫く虚無に囚われていた。




