第百七十三話 価値と対価
「迸る力より石の意志」
レインは特殊監房の一室へと辿り着くと、封魔石が嵌め込まれている扉へと向かって呪文を唱え始めた。すると扉はうっすらと透過し始め、やがて静かに眼前から消え去った。
封魔石は非常に稀少な魔鉱石の一種で、術者の魔力を封じ込める事ができる。それを術式を編込んだ魔法陣と併用する事で、監房内に閉じ込めている者の魔力を抑え込んでいるのだ。
薄暗い監房内が瞳へと写った時、レインは思わず声を上げた。
「お兄ちゃんっ!」
ぼろ布を一枚身につけただけの男が、床に横たわっていた。全身は生傷だらけで、酷い拷問を受けたのは誰の目にも明白である。血を垂れ流し、生きているのかさえ定かではない。
そんな男へとレインはすぐさま駆け寄ると、両腕で抱き込んだ。そして魔法を唱え始めたのである。
「魂の残渣を掬い取りて命に輝きを戻したまえ」
暗黒騎士の中でも一部の者だけが使える蘇生魔法。
それは自分の魔力を相手の身体へと流し込み、一時的なショック状態に陥れる事で、脳を覚醒状態にするのだ。そして肉体から離れかけた魂を引き戻す。
本来ならば他者の魔力が体へと流れ込むと、拒絶反応を起こし、麻痺、痙攣から最悪の場合は死に至る。だが死の淵を歩き続けて得る暗黒騎士の力は、それらを逆手にとって生み出された邪道とも言えるべき魔法なのだ。
しかしいくら蘇生魔法と言えども、死してから時間が経過し過ぎていては意味がない。魔法の効力は死して間もない肉体のみに適用されるからである。肉体から魂が完全に離れてしまう僅かな時間こそが、この魔法の唯一の発動条件なのだ。
そして命と言う皿から零れ落ちる魂をレインは見事にすくい上げ、再び灯火を燃え上がらせた。
「うぐっ!ガハッ!」
意識を取り戻すと同時に、男は大量の血を吐き出した。胃液と唾液混じりの血液が、レインの顔へと飛び散る。しかしそんな事を微塵も気にしていないようである。
「お兄ちゃん!頑張って!私が助けるからっ!痛みは癒しへ苦しみは力へ命の煌きへ!」
蘇生魔法により引き戻した命を維持させるべく、レインは回復魔法を唱えた。すると男の傷は見る見ると癒え始めた。痛々しい傷が塞がっていき、全身から流れ出る血が止まったのである。
「うっ………うぅ………」
死に掛けて苦しんでいた男の顔が、幾分か和らいでいく。
幼き頃に両親を亡くしていたレインには、歳の離れた兄がいた。
悲しみに暮れる妹を必死に励ましながら、一家の大黒柱として軍の雑用をこなし、何とか妹を育て上げたのはその兄である。
レインにとってこの男は唯一の家族であり、もっとも大事に互いを想い合う兄妹なのだ。
下級兵として他国への潜入任務をこなす兄と比べ、妹は軍内部でも一握りの人間しか成る事の出来ない暗黒騎士への道を駆け上がる。子供時代に絶望と失望、そして憎悪と憤怒に心を落とした故に、暗黒騎士としての素養を自然と身に着けたのだ。そして素養は素質へと開花し、やがて才能へと昇華した。
そんなレインに目を付け、自身の補佐役へと任命したのは十三の団からなる暗黒騎士を取り纏めるセルシディオン・オーリュターブである。
この時点で、軍での立場は完全に兄と妹で逆転していた。それがレインを苦しめていたのは言うまでもない事実だが、任務に私情を挟む事は無かった。クレムナント王国へと潜入した兄の消息が絶たれるまでは。
オーリュターブはそんなレインの動揺を全て見抜いていたのだろう。滅多に戦いへと赴く事のなかった部下を指名し、第二王子ナセテムのクレムナント王国帰還に同伴させたのだ。
そして戦いの起こる前夜、レインを呼び出し、オーリュターブはこう言った。
そこは夜の帳が落ちた城下の路地裏である。折り重なるように立ち並ぶ建物の影によって、僅かな月夜も届かない。
「戦闘面で他の暗黒騎士よりも劣るお前をこの地へと連れて来たのには理由がある。何故か分かるか?」
上官からの不意の問いであった。
レインは誰よりもオーリュターブと言う男を理解していた。どんな任務にも一切私情を挟まず、有用な者は側に置き、無能な者は切り捨てる。
補佐役として任命される以前にこの職務へと付いていたのは約二十名にも上る。その誰しもが一年未満で無能と判断されたのだ。だからこそその問いに対して、レインは自分の暗黒騎士としての器量を計られているのだと思わざる負えなかったのである。
「解りません。セルシディオン団長は意味の無い事はしないお方です。何かしらの理由があるのでしょうが、私の中で持ちうる答えはどれも私自身でさえも納得させる事のできない答えです。教えて下さい。何故ですか?」
レインの嘘偽りない気持ちであった。思った事を包み隠さずに言うのが、自分の強みでもあると理解しているのだ。そしてその率直な意見こそが、オーリュターブの目に留まった理由の一つであるからと知っているからである。
「下級兵は使い捨ての駒だ。駒にはそれぞれ意味がある。民は国を支える労働力としての駒。兵士は他国を制圧するための駒。そして我々暗黒騎士は元首ガルバゼン・ハイドラ様の剣となり盾となる、盤上を縦横無尽に回る最も使い勝手の良い駒だ。駒は常に差し手の思うままに動かなければならん」
オーリュターブの言葉は冷たいものであった。だが最もオーリュターブらしい言葉であると、レインは感じていた。自分の心の動揺も不安も、そしてある種の憤りさえも見抜いているようなそんな風に思えたのである。
「分かっています。それくらい」
レインは笑って答えた。水中都市国家スウィフランドの第七層で繰り広げられる《笑みと殺意の応酬》のつもりだったのだろう。しかしこの日のオーリュターブは違ったのだ。
「だがな……駒だろうが何だろうが、自分の大切な者を護れなかった者に生きる価値は無い。価値とは対価の代償であり、生きる意味そのものだ」
普段のオーリュターブの様子とは違う事に、レインは戸惑っていた。しかし建物が入り組む狭い路地裏。光も届かない場所では、相手の表情を読み解く事も出来なかった。だからこそ、レインは黙って言葉の続き待ったのである。
「お前には下級兵として、ラミナント城下へ潜入している兄…がいたな。名は確かオルフェンズ・フィース。奴は今、ラミナント城の地下外れにある牢獄に囚われている。場所は一般監房から更に奥に位置する特殊監房。特殊監房へと入るにはまず外と中から兵士が息を合わせて錠前を回さなければ開かない鉄扉がある。その扉を超えたら特殊監房だ。監房には封魔石が嵌め込まれた魔鉱石の扉が設置してあり、特定の呪文を唱える事でしか中には入れない仕組みとなっている」
「えっ?そ、それって私に兄を助けだして来いと……?」
「選べ。お前の意思で兄を助けに行くのか。それとも私からの命令として行くのか」
レインは間髪入れずに答えた。
「行きます。自分の意思でっ!」
全ての不安を吹き飛ばす、覇気の篭った声であった。
「ふっ。お前ならそう言うと思っていた、レイン。監房の扉の解除魔法は迸る力より石の意志だ。上手くやれ」
「オ、オーリュターブ団長っ!ありがとうございますっ」
レインは闇の中で叫ぶように言った。オーリュターブはそのまま静かに夜の帳へと消え去った。これが二人の交わした最後の会話であった。
そして腐臭漂う監房の中で、レインは確かに聞いた。
「レ………イン………なの……か………?」
弱弱しいが、命を吹き返した兄オルフェンズの声を。
「お兄ちゃん………ぐすっ………良かった………」
瞳から溢れ出た涙が頬を伝いて滴り落ち、レインは安堵の表情を浮かべた。先ほどまで緊張感に包まれたいた鋭い目つきも、何処かへ消え去ってしまったようである。




