第百四十話 放たれた王声
来賓館の大広間。静けさの中に、すすり泣く王子の声だけが聞こえていた。そこへ突然、血相を変えて入って来た者がいたのである。
「た、大変です!」
鎖帷子を着ており、腰には剣を下げている。その格好から守備隊の兵士なのが分かった。
「何事だっ?」
大広間の隅で、シュバイクとウィリシスの様子を見守っていた者が問いかけた。
「バ、バウザナックス様。そ、それが南門の警備兵から緊急連絡があったのです!城壁から約二キロ程の地点に、三千を超える部隊を確認したとっ!それがこちらへと向かって真っ直ぐ進んできているようですっ!」
「何だと!?何処の軍だ?判別は出来たのか?」
唯事ではないのを、すぐに察知したようである。バウザナックスは険しい顔つきで、守備隊の兵士へと問いかけた。
「そ、それが妙なんです。掲げられている白地の旗には世界樹が描かれておりっ」
兵士の言葉に、誰しもが動揺していた。
「世界樹の紋章?そんなまさか……」
バウザナックスは眉を上げ、目を見開いた。明らかに驚いているようだった。
「ど、どうすれば?守備兵を南門へと集めますか?」
男は指示を仰いだ。しかしそのバウザナックスでさえも、すぐに返答する事が出来なかったのである。口を開く前に、静かに歩き出したのだ。
そして王子の前で止まった。すると膝を床へと着け、頭を下げた。
「シュバイク王子。このような時に申し訳御座いません。どうすれば良いか指示をお願い致します」
バウザナックスの問いかけに答えたのは、王子の横に居た青年だった。
「世界樹の紋章が掲げられている?それは間違いないのか?」
ウィリシスはバウザナッスへと問いかけた。
「はっ。そのようです。しかし世界樹と言えば、十年以上も前に滅亡した国の紋章のはず。何故それが今頃になって……」
顔を上げたバウザナックスは、ウィリシスと視線を合わせた。その顔は困惑した顔つきであった。
「シュバイク、聞いたか?世界樹の紋章だ。彼女が約束を果たしてくれたのだ」
ウィリシスの顔は、バウザナックスとは正反対と言っても良いほどのものだった。
その言葉を聞いたシュバイクは、流れ出る涙を服の袖で拭い取った。革の軽鎧の下に来ている布の服は、そのせいで少し湿っているようだ。そして静かに立ち上がったのである。
「大丈夫か?」
共に立ち上がったウィリシスは、シュバイクへと優しく問いかける。するとそれに静かに頷いて応えたのだ。
「ふぅ……」
僅かな溜息。それは乱れた呼吸を整えるためのものだ。
「バウザナックスさん。すぐに南門の警備兵に伝えて下さい。警戒態勢を解き、軍を迎え入れる準備をせよ、と」
シュバイクがそう言うと、バウザナックスは驚いていた。
「よ、良いのですか?」
その問いかけに、ウィリシスが頷きながら言ったのである。
「ああ。彼らは敵ではない。それを兵へとすぐに通達するんだ」
「か、畏まりましたっ」
シュバイクとウィリシスの言葉は、確信に近いものだった。だからこそバウザナックスは疑念を振り払い、すぐに命令通りに動いたのである。
「ウィリシス兄さん。彼女達を迎えに出ましょう」
「ああ。そうだな」
二人はそう言うと、来賓館を後にしたのである。そして今先ほど進んできた道を、再び戻っていった。
時間は六日前へと遡る。
シュバイク達がハドゥン族の集落へと辿り着き、そこで一夜を明かした次の日の事だ。
魔力を使い果たしてしまったセリッタや、精神に負った深手から立ち直れずにいたラミル。その中で一番に気力と体力を取り戻したのは、シュエルフ族の少女だった。
精霊国の最後の王であるミレーナ・アイ・リューネは、魔法の書庫で受けた攻撃から意識を失っていた。しかし一日経つと目を覚まし、良好な状態を見せたのである。
「一人で大丈夫ですか?」
シュバイクは、ハドゥン族の集落から一人発とうとするリューネへと問いかけた。
山々に囲まれた谷間にあり、中心部には大きな川が流れている。空は青く晴れ渡っていて、壮大な自然が見せた荒れ狂う姿はもう感じられなかった。
昨日までは豪雨が降り注ぎ、この谷間を濁流が襲っていたのだ。しかし地下に洞穴を築くハドゥン族の集落に身を寄せていたため、難を乗り越えることが出来たのであった。
「ええ。大丈夫ですよ。これでも私は森の民と呼ばれるシェリフ族の王。何処に居ても自然は私の味方なのです。だからご心配なさらずに居てください。必ず仲間達を連れて、ラミナント城へと向かいます」
金色の長い髪。すらっと伸びる背。細い腕に細い足。白い肌は、透き通るように美しい。少女というには、あまりにも大人びた顔である。
白い布のローブに身を包むリューネは、笑顔でシュバイクに答えた。
「そうですか。分かりました。ではリューネさんをお待ちしています。後…これだけは言わせて下さい。最初に疑ってしまった事、どうか許して下さい!ごめんなさいっ!」
シュバイクは少女へと謝罪を述べた。
「いいえ。いいのですよ。気にしないで下さい。突然森の中で語りかけてきた小鹿を、信用しろと言う方が難しいのですから。シュバイクさんの反応は当然だったと思います」
リューネはそう言いながら、少女らしい笑みを作って見せた。シュバイクよりも実年齢は遥かに上である。しかしシェルフ族は肉体の成長が著しく遅いために、年下のように見えるのだった。それもまだ十代の前半のような見た目である。
「ありがとう…」
「では、そろそろ行きますね」
リューネはシュバイクに最後まで笑顔を見せていた。そしてたった一人で、森の中へと消えていったのである。そんな少女の後ろ姿を見ていたシュバイクには、聞く事の出来なかった不安の種があったのだ。
それは魔法の書庫で起こった、出来事の一つである。リューネと血の契約を交わした時、シュバイクとの間に起きた不可解な現象である。互いの記憶が結びつき、気づけば異空間に居たのだ。
そこに現れたのは書庫の管理人と名乗る、大魔道師のハル・エルドワールだった。彼女の提案でリューネは、自分の中に混同してしまったシュバイクの記憶を切り離す事にした。全ては順調にいったかに思えたのだ。だがリューネの記憶が元の形に戻った時、エルドワールは豹変した。
自分の記憶を魔道書へと移しこむ事を拒んだシュバイクに、突如として襲いかかってきたのである。命からがら何とか、セリッタの助けもあって逃げ出す事に成功した。
しかしエルドワールの魔法によって一時的に記憶を全て失い、新たな記憶を注がれたリューネの体に、何が起こるかは予想が出来なかったのである。
エルドワールの記憶の断片。自身をそう言っていた書庫の管理人は、自分達に言えないような恐ろしい事を企んでいたのではないか。そう思わざる負えなかったのだ。
だがシュバイクはそれらを、リューネには言わなかった。何故ならリューネの記憶から、異空間で起こった出来事そのものが消えていたからである。
こうしてハドゥン族の集落を離れたシュエルフ族の少女は、愚者の森と呼ばれる場所の中心部へと向かっていった。そこは小さな洞窟の奥にある、美しい湖であった。
湖と言っても、その直径は百メートルもない。中央に聳え立つ大きな樹木が、幻想的な雰囲気を醸し出している。水面は鏡のように水上を映し出し、淡い塵芥が輝きを放って漂っている。
遥か頭上には陽光が差し込む岩場の切れ目がいくつもあり、そこから注がれる光は樹木の光合成に必要なものを全て与えている。
白毛の小鹿が、木へと向かってゆっくりと進んでいく。水面を歩いているかのようだ。小さな蹄が打ち付けられる度に、僅かな波紋を作る。
首には白い布が巻きつけられており、それを良く見ると、人の服であるのがわかる。袖の部分を縛って、固定しているからだ。
小鹿が大樹の前へと辿り付くと、姿をゆっくりと変えた。長い金色の髪の少女である。首元に巻いた布を取り払うと、露になった素肌の上に着込んだ。
樹木の皮脂へと右手の平を当てると、少女は呟くように言ったのである。
「森の意思によって選ばれし者。ミレーナ・アイ・リューネ。どうか私の声を同胞達へと届けて下さい」
リューネの言葉に、大樹の葉がざわめいた。風によるものではない。無風の洞穴の中で、確かに葉っぱがざわめきを上げたのである。擦れあうかのように、葉の一つ一つが音を立てたのだ。そして緑の葉っぱが白くなり、光を放ち始めた。
「感じます。森の命を。貴方の息吹を。私達をいつも見守ってくれていたのですね……」
やがてリューネの体も光に包まれていった。
「『精霊王の名の下に、森の民シェルフへと告げる。巨悪によって滅亡へと追いやられた私達の国が、今、再び息を吹き返す時が来たのです。各地へと散り散りになった仲間達よ。戦うべき日が来ました。クレムナント王国、愚者の森にて、私は皆さんを待っています。どうか力を貸してくださいっ』」
リューネの想いは、大樹レキメノから伝わり、大地へと浸透していった。森から森へとその想いが伝わり、各地で生きるシェルフ族の心に繋がったのである。
それは精霊王にのみ許された、秘中の儀、王声と呼ばれるものなのだ。
森の意思を伝い、世界中の同種族へと王の声を届ける。それによってリューネは、各地に散らばる仲間を集めようとしたのであった。
そしてその声を受け取ったのは、シェルフ族だけではなった。珍しい人間との混血種である者も、森の意思を受け取っていたのだ。
それこそオルシアン帝国と長き戦いの日々を生き抜いてきた猛者。サラナイファ連合のバゥレンシア北和国が誇る最強の騎士。フラガナン・エンリュ・ケイオスである。彼もまた、リューネの声を聞いたのである。




