第百二十二話 最強の辺境伯
ラミナント城から遥か南に位置するサウドラウト地方。そこには湿地帯が広がっており、水生生物が多く、それを餌に鳥や動物が集まってくる。クレムナント王国に短い夏が訪れると、王国を取り囲む山脈から平地へと雪解け水が流れ込み、大きな水源をいくつも形成するのである。
この地方を統治しているのは、クレムナント王国の貴族達の中でも名家と名高いディキッシュ家である。ディキッシュ家は大貴族グレフォード家の遠縁に当たり、国内では強い権力を持っているのだ。現在のディキッシュ家当主は八十七歳という高齢の老人である。そのため職務をこなし、実質的に人々を支配しているのは孫のベリン・エデン・デキッシュであった。
ベリンは四十二歳の男で、下には三十八歳の弟ゼナンがいる。二人は常に互いを補い合い、良き仲といってもいいほどの関係を維持している。他に二人の姉がいるのだが、それぞれが別の貴族へと嫁いでしまっているためにこの土地には居ない。
レンデスとサイリス達がディキッシュ家の領地へと入ったのは、ラミナント城を脱出してから五日後の事である。森を抜け山を越え、やっとの思いで辿り着いた頃には二人の王子達の服は薄汚れていた。目の前に広がる大きな湿地帯を瞳に写した時、レンデスは思わず叫んだ。「やったぞ!ついにディキッシュ家の領地に入ったのだ!」と。抱えていた思いが、そのまま口に出たような言葉だった。
そんな兄の横でサイリスは、泥のついた顔をジレの袖で拭っていた。王宮に居た頃には経験にしたことのないような日々を乗り越え、やっとの思いで目的地へと着いたのだ。その達成感と安堵から、涙を零したのである。
城からずっと付き従ってきた騎士達もまた、胸を撫で下ろしていた。ここまでの道程が辛く長いものだったのは確かではある。しかしそれ以上に大変だったのは、愚痴を吐きながら周りに当り散らすレンデスから解放されるという一心からくる別の安堵であった。
だが一人、浮かない顔をしている者がいた。それは守護騎士のレイノルフ・シュルイムである。数日前に追撃隊の足止めをするべく、たった一人で立ち向かっていった男。その男が戻らぬまま、結局デキッシュ家の領地へと着いてしまったからである。
それはシュルイムの旧知の友で、同じ守護騎士のハギャン・オルガナウスであった。豪腕の騎士の称号を持ち、どんな死地に飛び込んでいっても必ず生きて帰ってくる。誰よりも強く、そして気高い。そんな男であったはずなのだ。
しかしハギャンは遂に戻っては来なかった。この先に起こるである大戦を考えると、戦闘力がずば抜けて高く、統率力があり、兵からの信頼も厚い騎士の損失は大きすぎるものであったのだ。だがそこまで考えているのは、シュルイム唯一人であったのである。
そして勿論、一人の友を失った痛みが、胸の奥で疼いていた。ハギャンの亡骸を見つけ、戦士達の楽園へと送り出してやりたい。それが唯一のシュルイムの心残りだった。
レンデス達が湿地帯へと足を踏み入れたのは、まだ朝霧がかかる時間だった。目の前の平原には水がはっており、深さは一メートルほどはある。人がそのまま進むのは、小船がないと不可能だと思わせる程に水底はぬかるんでいた。
水の中へと入った騎士の一人は、足が泥の中にはまり身動きが取れなくなってしまった。それを数人で引き上げると、レイノルフはレンデスへと向かって言ったのである。
「レンデス様。ここを歩いて進むのは無理のようです。救援弾を打ち上げ、迎えを呼びましょう。流石にここまで来れば、追っ手の心配もないはずです」
レイノルフは麻の服の上に、茶色のマントを羽織っていた。顔は無精ひげが生えており、髪はぼさぼさである。五日も山の中をさ迷ってきたためか、身なりの手入れがされていないのだ。
城を出た時に身に着けていた銀の鎧は、すでに脱ぎ去っていた。数十キロもあるために途中で捨てると言う決断もあったはずだが、紐で纏めてここまで持ってきていたのである。それが足元に置いてあった。
「本当に大丈夫なのだろうな?ここまで来て死にたくはないぞ。もし何かあれば、命がけで私を守れ。いいな?」
レンデスの紫の瞳が、レイノルフを突き刺すように見ていた。この男もまた、髭が顎から伸びており、王宮にいた頃とは考えられないような憔悴した顔つきになっていた。髭は僅かに緑がかっており、頭髪のダークグリーン色を僅かに感じられるものだった。
「兄さん。シュルイムの言う通りにしましょう。ここまで来れば、追っ手も流石に引いているはずですし、もうはっきり言ってここを泳いで進むだけの体力は残っていません」
サイリスが口を開いた。レンデスの弟であるが、兄と違って温厚な性格の持ち主である。瞳は紫だが、髪色は父親譲りのダークブラウン色だった。やはり手入れのされていない顔には、不精ひげが目立つ。
「ちっ。どいつもこいつも......仕方ない。救援弾を上げろ。ザナル卿にこちらの位置を知らせるのだ」
舌打ちをしながら、レンデスは部下の騎士へ指示を出した。それを受けると、呪文を唱えた騎士の一人が両手の平から紅色の光の玉を空へと打ち上げたのである。
数メートル先はもう、視界を奪う真っ白い霧で覆われている。打ち上げた救援弾は遥か上空まで上がり、霧の層を突き抜けると大きな音を立てながら破裂した。それはまるで花火のようである。
「おいっ!南南西から救援弾が上がったぞ!ベリン様に知らせろ!」
霧の中に佇む町では、空に打ちあがった赤き火花を目にした守備兵が声を上げた。敵にはフィフニワールの強固な要塞として知られる場所で、平地にちらばった各建物が重要な役割をなしている。一つ一つの建物が数十メートルの石の土台の上に立っており、つり橋で繋がっている。
平時は町としての機能を果たすが、事戦闘になると要塞としての防壁機能が働くのである。クレムナント王国の最南端に位置するこの土地は、周辺諸国の敵が侵入する際に一番に到達する場所なのだ。そのため常に守りを固め、戦いに備えている。山間部に潜む部族からも狙いやすい辺境の土地だけあって、この領地を治めるディキッシュ家の歴史は戦いによって語られるものが殆どであった。
現当主で八十七歳のザナル・エデン・デキッシュは、十年前まで戦場の最前線に立っていたほどの人物である。ベリンとゼナンの父親であり、ザナルの息子であったオーバル・エデン・ディキッシュは、五年前に山間部の部族に攻められた時に死亡した。そのため、長男のベリンが全兵の指揮を執っている。
「おっしゃぁ!ついに来たかぁ!船を出せ!レンデス王子とサイリス王子を迎えにいくぞぉっ!」
石造りの建物の一つから、威勢の良い声が響き渡ってきた。入り口の木製の扉を勢いよく開け放って出てきたのは、とても貴族とは言えないような見た目の男である。
筋肉質の体には腕毛と胸毛が満載されており、百八十センチほどの身長は周りに比べれば高くもなく低くもない。しかし醸し出し雰囲気は、周囲の者とは一線を画す独特なものがある。
四十二歳という歳相応の渋みはあるが、若々しさは表情の活気の中に混じっている。ブラウンの髪は短めで、顎には髭が生えている。顔の掘りは深めであるのだが、きりっとした眉がすべてのパーツの均衡を整えていた。麻の服の上に熊の毛皮のようなマントを羽織っており、下は布のズボンに茶色の革のブーツを履いている。
「ベリン。気をつけていけよ。私は一応ここで待機している」
同じ建物から、もう一人の別の男が出てきた。最初のベリンと呼ばれた男とは、違う雰囲気が感じられる。筋肉質の体には変わりないが、荒々しい印象が付きまとうベリンに対して、この男は静かで落ち着いた空気を漂わせている。ブラウン色の長い髪を後ろでまとめており、眉は細く目は切れ長である。肌はベリンに比べれば白いが、それでも健康的な色あいと言ってもいいだろう。
服は白と緑のシュールコーと言われる長い上着をまとっており、その下には麻のコットを着ている。どこか知的な印象を受けるのは、佇まいとその衣服からのものが大きい。
「おう!留守は任せたぞ、ゼナン!」
ベリンと言う男はそう言うと、町の中へと入り込んでいる水源に向かって行った。そこに用意された小船へと飛び乗のると、衝撃で船は左右に激しく揺れたのである。先に乗っていた部下の数人は慌てて船の縁へとしがみ付いた。それが面白かったのか、声を上げてベリンは大笑いをしたのである。
先頭を進む船に続くように、何隻かの小船も次々と出船した。各船には武器を携えた兵士が五人づつ乗っており、それが六隻ほど出て行った。
霧の中を進む船は、小さな明かりを灯している。陽光石のランプの光が、周囲を照らしているのだ。東の空からは太陽が顔を出しつつある。しかし水源となっているその場所にはまだ、近くの山々の陰が降りかかっていて暗いのである。
「おーーい!ここだーー!」
霧の中に浮かぶ光を見つけると、レンデスやサイリスは声を上げた。徐々に近づいてくる光が大きくなるにつれ、うっすらと小船の形が見え始めたのである。そして遂に、彼らの前にベリン・エデン・ディキッシュ辺境伯が姿を現したのだ。
「がっはっはっ!レンデス王子!サイリス王子、お久しぶりでございますなぁ!いやぁ、でっかくなりましたな!前にお会いしたときは、まだこっなに小さかったのに!」
ベリンは船を接岸させると、レンデス達の前へと降り立った。そして深々と一礼すると、二人の肩を両手で抱き寄せたのだ。その所作の一つ一つがどれも、大げさで大雑把である。
「や、やめろベリンっ。私は疲れているのだっ。離せっ!」
レンデスは大げさな身振り手振りで歓迎してくるベリンを、手で払いのけた。しかしそんな相手の態度に、この男は気にも留めていない様子である。
「はっはっはっ!いいじゃないですかぁ!こうして顔を合わせるのは十年ぶりなのですぞ!私はお二人とまたこうして会えて、嬉しくてたまらんのですよ!」
ベリンはそう言いながら、二人を太い腕で再度抱き包んだ。
親しいものへの好意をこめた挨拶なのだが、レンデスはそれが嫌でたまらなかったのである。そして何よりも、自分の領域へと土足で踏み込み、我が物顔で荒らしまわるようなこの男を嫌っていた。しかし数ある名家の中でも、ディキッシュ家ほど戦闘行為に慣れ親しんだ者達は居らず、危機的状況の中で彼らを頼るのは必然でしかなかったのだ。
「ベリン辺境伯。お久しぶりで御座います。暫しの間、ご厄介になると思いますが、どうか宜しくお願い致します」
二人の王子にこれでもかと言うほどのボディランゲージを加える男へ、レイノルフ・シュルイムは丁寧な態度で言った。
「お!レイノルフ殿ではないか!いやぁ、久しぶりだなぁ!どうだ、剣の腕は衰えてはいないか?......ん?ハギャン殿はどうしたのだ?一緒ではないのか?」
ベリンはシュルイムの方を見ると、笑顔を向けた。しかし、そこですぐに周囲を見渡すと、一行の中に古い友の姿が無い事に気づいたのだ。
「ハギャンは、我等を追ってから引き離すために犠牲となりました。それが五日前の事。すでに生きてはいないでしょう......」
シュルイムは、苦虫を噛み潰したかのような顔で言った。目はどこか下を向き、俯いているようであった。
「なんだと!?あの豪腕の騎士ハギャン・オルガナウスがかっ!?し、信じられん......野獣人を素手で倒した男だぞ......」
威勢のよかった男は、突然の区報に驚いていた。ハギャンの騎士としての強さを、シュルイム同様に知っていたのだ。それが故に、信じられなかったのである。




