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第百十四話 本当の幸せとは

 ウィリシスは結局、剣を抜く事が出来なかった。最後の最後で思い直し、柄から手を離したのである。何がそうさせたのかは解らない。しかしそれはきっと、主であるシュバイクを思っての事だったのだろう。


 モルナに介抱されたセリッタは、ゆっくりとだが意識を取り戻し始めた。まどろみの中に居るかのような、気の抜けた表情であった。


「セリッタさん、大丈夫ですか?」


 シュバイクはハンモックへ近づくと、その上で横になるセリッタに問いかけた。

 日に焼けた小麦色の肌に、黒い瞳。

 そしてきりっとした眉に、引き締まった顔つきが普段は印象的な女性である。しかし今は消耗仕切っていたためか、弱弱しい姿だった。


「シュバイク...王子。よかった...無事だったのね...シェルフの子は?」


 セリッタはシュバイクの顔を見ると、安堵した表情を浮かべていた。


「リューネさんですか?彼女も無事ですよ。今はハンモックで横になって眠っています」


 シュバイクがそう言うと、セリッタは心底安心したようであった。しかしそんな二人のやり取りを背後から見守っていたウィリシスは、妙な違和感を感じ取っていた。


 リューネと血の契約を交わしたシュバイクが意識を失い、その暫くした後にやっと目を覚ました。だがその時に、確かにこう言ったのだ。「何が起こったのかを覚えてはいないんだ」と。だが、それにしてはセリッタと話をしているシュバイクは、そんな素振り一切見せてはいなかった。


 まるで全てを理解している上で、セリッタと会話をしているかのようであったのだ。だがそれは不確かな疑惑である。自分の主である少年を疑うには、何の確証もない些細な疑念程度であった。そこでウィリシスはあえて、後ろから口を挟んだ。


「セリッタ導師、教えて欲しい。シュバイク様とリューネ様の身に何が起きたのですか?」


 ウィリシスがそう言うと、シュバイクははっと息を呑んだ。


「え...?シュバイク王子は、何も覚えていない...の?」


 セリッタは驚いていた。しかし実の所もっと驚いていたのは、紛れも無くシュバイクの方だった。ウィリシスに背を向けたまま、やや下を向いてうつむいた。それは自分の表情から、心を悟らせないためである。


 シュバイクは自分がつい先ほど、その青年に対して記憶がないと言ったのを、あろう事か忘れていたのだ。それを思い出させられた時には、肝が握りつぶされる思いだっただろう。


「リューネさんと血の契約を交わした所までは、何とか記憶にあるのですが......」


 シュバイクは、感情を隠しながら言った。


「そうなの...まぁ確かに大きな負担を脳に受けてしまったかも知れないし...記憶障害が起こっていても不思議じゃないわね。でもきっとそれは一時的なもののはずよ。暫くすればきっと全部思い出すわ」


 セリッタは不安そうな顔をしていた相手を、何とか元気付けようとして言ったのである。だがそんな言葉をかけられたシュバイクは、何とも言えない複雑な気分になっていたのは言うまでもない。


 まったくの別の所で悩みを抱えていたのだ。しかしそんな事を口に出来るはずもなく、今は只当たり障りのない事を言うしかなかった。


「そうですか。良かった......」


 シュバイクは心で抱く気持ちとは裏腹な事を言わざる負えなかった。それを聞いたウィリシスは、背後から声をかけた。


「シュバイク、記憶が戻ったら何があったのか必ず教えてくれ。君が心配なんだ」


 それはどこか念を押すかのようであった。「嘘偽りなく真実を述べてくれ」そう言っているようでさえあったのだ。だがそんな言葉の真の意味を理解していたのは、シュバイクだけだった。


「もちろんです」


 シュバイクは短い言葉の一つで答えると、それ以上は何も口にしなかった。自分が明らかにウィリシスの信頼を失い始めているのだと、感じずにはいられなかったからだ。それが何よりも辛かったのである。


 いっその事、真実の全てをぶちまけてしまえば楽になれる。そう想わずにはいられなかったのだ。だがそれは結局の所、秘密を抱えている自分が楽になりたいだけなのかも知れない。ウィリシスのためを想うなら、父が水中都市国家の騎士団長であり、母がレリアン・ハイデンだと言うのは隠さなければいけなかった。


 それは大切な者を自分の手で守ると、心に誓ったからである。今さらそれを曲げる事など出来はしなかった。ウィリシスを守るためなら、自分がどう思われようが構わない。そしてどんな犠牲も払う。それだけの強い覚悟だったのである。


 それからシュバイク達は、数日ほどハドゥン族の集落で過ごした。すぐに出発し、ラミナント城へと戻らなければいけなかったのである。だが初日から降り注いだ雨によって川が増水し、あろう事か帰り道をふさいでしまったのだ。


 そのため、平原を目指すには山を大回りして川を越えなければならず、川の流れを落ち着きを取り戻すまで待ったほうが良いという結論に至ったのだ。


 最初に目を覚ましたはずのセリッタの体調が思わしくなく、深い森を抜けるには万全ではなかったのも関係していた。だからこそ安全を期して、数日の間はハドゥン族の集落で過ごしたのだった。


 よそ者であるシュバイク達を、ハドゥン族が快く受け入れていた訳ではなかった。彼らを裏で説得し、何とか抑え込んでいたのは新たな族長になったモルナの力が大きい。彼女は民の理解を求めるために、日々奔走していた。目を覚ましたリューネが通訳となってシュバイクが想いを伝えると、次第に心を打ち解け始めていった。


 それでもやはり多くの者はまだ懐疑的かいぎてきで、両者の間には深い溝があったのは事実である。それでもめげることなくシュバイクは、彼らとの接触を続けた。


 農作業を手伝い、家畜の世話をした。困っている事があれば、出来る限りの事をし、コミュニケーションをとる為にハドゥン族の言語を学び始めたのである。一国の王子として育ったシュバイクにとっては、その殆どが未知の体験である。


 ウィリシスは初め、そんなシュバイクを止めた。だが、必死に彼らと向き合う少

年の姿に、考えを改めたのである。相手に自分を受け入れてもらうには、まず、自分たちが相手を受け入れなければならない。それが出来なくては、信頼関係などはそもそも生まれないのだ。それに改めて気づかされたのだった。


 シュバイクにとって、ハドゥン族の集落で過ごす毎日は、驚きと新たな発見の連続であった。王宮内で人の顔色ばかり伺いながら、王位継承者として生きてきた日々は苦痛以外の何物でもなかった。そう感じずにはいられないほどに、生き生きと過ごしたのである。そこは今まで数百年と戦ってきた敵の領地の真っ只中と変わりないのに、である。


 そんなシュバイクの姿を側で見ていたウィリシスは、複雑な気持ちであっただろう。少年らしさを取り戻し、日々生き生きとした表情でハドゥン族と接している。


 これまでの数日間の内に起きたクレムナント王国を揺るがす出来事が、まるで嘘のようにさえ感じたのだ。


 王国内で巻き起こっている出来事の全ては、この一人の王子を中心にしていると言ってもあながち間違いではない。これから兄弟間の王位を巡る戦いが始まれば、多くの命が失われていくだろう。


 それを思うと、このままこの地で只の一人の人間として生きていくほうが幸せなのではないか。そう感じずにはいられないほど、穏やかで静かな毎日だった。

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