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第百八話 豹変

「ええ。そうとって頂いて構いません。ですが解っておいて欲しいのは、このまま他者の記憶を脳内に混同させたままでいるのは非常に危険だと言うことです。御二人の持つ特別な力は謎に包まれた部分が多いのです。その状態を放っておけば、今後どのような反応が肉体に起こるのかは予想がつきません」


 エルドワールがそう言うと、リューネが口を開いた。


「解りました。私はエルドワールさんを信用します。ですが一つだけ教えて下さい」


 リューネはエルドワールの持つ本へと手を乗せた。


「何でしょう?」


 厚みのある丸ガラスの眼鏡。その奥にある瞳が、少女の黄色イエローの瞳を見ていた。


「人の記憶を保管する目的です。何のためにそんな事をしているのですか?」


 相手の質問に対して、エルドワールは一呼吸置いた。そして静かに口を開いた。


「二度と同じ過ちを...繰り返さないため...でしょうか。今の私が言えるのはそれだけです」


 エルドワールはどこか悲しげな顔つきであった。リューネはそれに何かを察したようであったが、シュバイクにはそれが何を指し示しているのかは解らなかった。


「過ち?それは何の事ですか?」


 シュバイクがエルドワールへと問いかけた。


「何の事なのでしょうね...私にも解らないのです」


 エルドワールは真剣な顔で答えた。


「解らないんですか?エルドワール様がそう言ったことなのに?」


 シュバイクが困惑した顔つきで言った。相手を見るその目には、不信さが感じられた。


「私はハル・エルドワールであって、ハル・エルドワールではないからです。彼女の記憶の一部がこの空間へと残され、それが自分の形を創っているだけなのですよ。だから今の私には、人としての完全な記憶はないのです。この中に残っているのは、強い後悔の念から生まれた僅かな感情だけを覚えている...記憶の断片となった私だけです」


 深い悲しみを表現するのに、十分な顔つきである。その言葉を聞いたシュバイクは、それ以上の問いを口にはしなかった。


「リューネさん、では始めます。いいのですね?」


 エルドワールはリューネへと問いかけた。すると少女は、静かに頷いた。

 それを確認したエルドワールは、呪文を唱え始めた。すると開かれた空白のページが光を放ち、次々と文字が浮かび上がってきたのである。


「くぅぅぅぅっ!」


 少女は声を漏らした。苦しそうな顔つきである。


「記憶を吸い出しています。肌で感じている本の質感と、私の魔力に集中してくださいっ!」


 エルドワールが声を張り上げた。白紙であった筈の本のページは、ぎっしりと文字で埋め尽くされた。そしてまるで風でも吹いているかのように、自然と次のページへとめくられていく。少女の白い肌の手には、そんなページが何枚も重なり合っていった。

 そして最後のページへと到達した時である。体から生気が失われ、リューネは抜け殻のようになってしまった。


書き込まれたウィーザ・イトル・新たなる物語アスボ・ヴァルザ・コルツ紡ぎ手が示すガルドゥ・フェル・ゼェ・指針への先と誘えゼクナ・ナマキナ・グルド・ルヴァォツザ


 エルドワールは呪文を唱え終えると、本をゆっくりと閉じた。そして少女の手をそこに挟み込んだのである。すると本から光に包まれた古代文字が姿を現し、空へと舞い上がった。その文字の数々は空間を埋め尽くすほどの凄まじい量である。それがリューネの頭へと吸い込まれていった。


「す、すごいっ......」


 シュバイクは目の前の光景に、呆気に取られていた。空中に漂う文字は美しいほどに輝き、それが少女の中へと入り込んでいく。そしてその全ての文字がリューネの中へと吸収された時、生気を失っていたかのような顔に命のきらめきが戻った。


「んっ!くっ!はぁっ...はぁっ...はぁっ...」


 吐息を漏らす。そしてリューネは目を見開いた。


「終わりましたよ。気分はどうですか?」


 エルドワールは本のページに挟んでいたリューネの手を、優しく引き抜いた。


「な、何が起こったの...はぁっ...はぁっ...」


 呼吸は乱れていた。息も荒い。しかし意識ははっきりしているようだ。


「シュバイク王子の記憶を切り離し、再び貴方の中へと正しい記憶を植えつけました。これでもう何も心配はいりませんよ」


 エルドワールはにっくりと笑った。相手の不安を取り除くのに、十分なほどの笑顔だった。だがそれを見ていたシュバイクは、何か違和感を感じ取っていたのである。


「シュバイク王子様。次は貴方様の番でございます。決心はつきましたか?」


 エルドワールは手に持つ本を棚へと収めた。そしてそこから新たな本を取り出したのである。それを開くと、先ほどの本と同様にやはり、空白のページが続いていた。


「一つだけ、気になっている事があります。それに答えて下さい。エルドワール様」


 シュバイクは差し出された本へと手を乗せるようとしたが、それを寸前で止めた。


「はい、何でしょう?」


 エルドワールは、笑みを浮かべたままシュバイクへと問いかけた。 


「僕は自分の出生の秘密を、守護騎士であるウィリシス・ウェイカーによって聞かされました。その時に彼が言ったんです。ある魔道書を読んで、真実を知ったと。それってもしかして、ウィリシスがこの場所へとやって来たのでは?」


 シュバイクは本の上で手を浮かせたまま、エルドワールの返答を待った。


「ウィリシス・ウェイカー...ああ、彼ですね。確かに来ました。現実の空間から断絶されたこの書庫には、確かに彼が来た記憶が私の中に残っていますよ。それは事実です」


 エルドワールがそう言った時、僅かにシュバイクの表情が変わった。


「エルドワール様。貴方は確かにこう僕達に言いました。ここは、記憶を《保管》する場所なのだと。それなのに記憶を《与えた》のですか?」


 シュバイクがその言葉を口にした時、エルドワールの顔が微かに歪んだ。そして次の瞬間である。僅かに浮いていたシュバイクの手を捕まえるようにして、本を一気にエルドワールは閉じたのだ。

 だが素早い反応を見せたシュバイクは、紙一重で手を引くと、それを回避した。


「何故なの...何故、いつもラミナントの男達は私の気持ちを理解してはくれないのっ!ねぇ、何でなのよっ!呪縛の鎖ドラクマッ!」


 エルドワールの顔つきは、狂気に満ちたものへと豹変した。そして本を左手で抱え込むと、空いた右手を前へと突き出して呪文を唱えた。


「ぐぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 シュバイクは痛みのあまりに声を上げた。襲いかかったのは、エルドワールの手から放たれた黒きの鎖数々である。それは蛇のようにうなりながら、身体に巻きついたのである。締め上げながら、空へとシュバイクを浮かせた。


「何をするのですかっ!?エルドワールさんっ!やめて下さいっ!」


 リューネはエルドワールを止めようとした。しかし、そんな言葉に聞く耳を持たなかった。


五月蝿うるさいっ!黙ってて!閉じられた口アン・ブロウカス!」


「うぅっ!?ううっ!」


 エルドワールが呪文を唱えると、リューネの口が閉じ、唇同士が張り付いた。そしてそれは皮膚と一体化すると、完全に塞いだのである。鼻で息を吸って吐くことは辛うじて出来るが、それでも苦しいのには変わりがなかったのだ。

 何とかシュバイクを助けようとしたが、口を塞がれては呪文も唱える事が出来なかったのである。


「ぐあぁぁぁっ!や、やめるろぉっ!な、何故、大魔道師と言われた貴方が、こんな事をするんだっ!」


 シュバイクは次第に閉めつめられる鎖に絶えながら、何とか相手へと言葉を放った。


「このままではクレムナント王国所か、世界が終りかねないの!だから、私の言うことを聞きなさい!同じ過ちを繰り返さないためにっ!」


 エルドワールはシュバイクの身体に巻きつけた鎖を、さらに締めた。まるで拷問でもするかのような勢いで、相手を圧倒したのである。


「ふ...ざ...ける...なぁ...!何がクレムナント王国だっ。何が世界が終りかねないだっ。何が同じ過ちを繰り返さないためにだっ。そんなこと...ぐぐぐっ!そんなこと分かってるんだよぉぉぉぉぉぉぉっ!蒼空の翼シュバイク・ミィ・ウィグノスッ!空のよ!僕に力をっ!」


 シュバイクが呪文を唱えると、鎖を突き破る二本の美しい翼が背中へと生えた。そして翼をはためかせると、空へを目にも留まらぬ速さで動いたのである。


「くっ!貴方は何も解っていないのよ!クレムナント王国が奴等の手に落ちてしまえば...!」


 エルドワールは空間内に巻き起こった風の渦によって、身動きが出来なくなった。本棚から無数の本が飛び散り、風によって舞い上がっている。


「そんなこと知るかっ!僕は誰にも操られたりはしないっ!ハァァァァァァッ!」


 シュバイクはつむじ風を巻き起こした。そしてそのまま風の流れに乗って、リューネへと向かって飛んだのである。そしてその身体を両腕で掴むと、一気に上昇した。


「待って!シュバイク・ハイデン・ラミナントッ!」


 エルドワールは闇の中へと消えていくシュバイクへと向かって、叫んだ。しかしその声が彼を止める事はなかったのである。みるみると小さくなっていくシュバイクを、唯黙って見ている訳がなかったのだ。

 物理的な空間ではない。それは闇を切り裂くように飛ぶ、シュバイクが一番分かっていた。どこまで上昇しても壁も空もないのだ。あるのはただ延々と広がる闇である。下へと視線を下げれば、小さな灯りがともる床が見えた。


「何だっ!?」


 シュバイクは何かに気がついた。それは自分達へと目掛けて放たれた先ほどの鎖が、鋭い刃を先端に光らせて追いかけてきたからである。


「くっ!」


 槍のように鋭い尖った刃だった。それが鎖によって操られ、次々と飛んできたのだ。それを何とか紙一重で回避しながら、翼をはためかせて上昇していく。

 右へ左へと身体を動かし、エルドワールの放った鎖を避け続ける。リューネを抱えているために、あまりにも不利な状況だった。しかしそれでも諦めずに、翼をはためかせた。


『シュ...バイッ...ク...聞こえ...る...!?』


 地上から数百メートルは上がったであろう。尚も鎖が襲い掛かってくる中で、シュバイクの頭に声が響いてきた。


「だ、誰だっ!?」


 激しい動きで空中を飛び回るシュバイクは、闇に向かって叫んだ。


『わたし...よっ...!セリッタ...よ!大丈夫!?』


 途切れ途切れ聞こえてくるその声の主は、魔道議会から派遣された導師のセリッタだった。


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