第九十四話 一縷の希望
ロッソ・零・リューは、島国アンリカリウスと言う所で生まれ育った。
アンリカリウスは魔の海域と呼ばれる海に囲まれているため、船舶の往来が非常に難しい場所である。海域内は特殊な海流により、潮の満ち引きが激しい。そのうねりはまさに激流の如くと言ってもいいほどで、あらゆる帆船を飲み干して押し潰す。
その事から、荒れ狂う激流と呼ばれている。長い間アンリカリウスは、外界と遮断された孤独な島であり続けた。しかしその荒々しい姿も、満月が空に浮かぶ一夜のみは静けさを取り戻すのだ。
元々、資源と土地に限りがある島国である。人々が生きていくには一定の食料を得なければならないのだが、人口の増加により食料自給率の均衡が崩れ始めてしまったのだ。
そしてそれが発端となり、些細な諍いが起こって人々は衝突した。小さな島国は血に濡れた墓場と化してしまったのだ。その事に心を痛めた零は、荒れ狂う激流を乗りこなす事の出来る帆船を開発し、外界との交易により問題を解決しようとしたのである。
しかしどんなに強固な船を建造しようとも、縦横無尽に動く予測不能な荒波の前では無力であった。頑丈な材木を使おうとも、激しくぶつかり合う特殊な海流の前では成すすべなく船が沈没してしまうのだ。
だがある日、零はアンリカリウスに流れ着いた帆船の残骸の中で、とある人物の日記を見つけた。それは絶望に打ちひしがれ、罪悪感に苛まれていた自分を奮い立たせるのに十分な物だった。現在二十二歳の零が、まだ十五歳の時である。
《天世二百九十一年。火の月、二十三日......旅先で買った美しい鉱石。覇空石と言うらしい。これをペンダントに加工し、国で待つ妻に贈り物としよう》
《天世二百九十三年。雷の月、十五日......長かった。どれだけの国を周り、どれだけの季節を他国で過ごしただろう。ああ、愛しき君よ。早く会いたい》
《天世二百九十五年。水の月、三十日......何故だ。そんなはずはない。どうしてだ。私の愛する妻は、不治の病に侵され......》
《天世二百九十六年。土の月、八日......あれから長い月日がたった...。この手記も暫くは書いていなかった。今更何を書けばいいのだ。私にはわからない......》
《天世二百九十六年。土の月、二十九日......昔よく妻と来た岬に来ている。あれから毎日の様に訪れるが、その景色はあの頃と何ら変る事はない...。ただあの時と違うのは、私の隣に愛すべき人がいないと言う事だ》
《天世二百九十七年。火の月、三日......今日も来ている...妻を埋葬した、美しい海...今はこの海そのものが妻となり、私を見守ってくれているのであろうか...。そうだ、旅先で買った鉱石。渡すはずだったペンダント...今更ながらこれを贈る。愛する君へ》
《天世二百九十七年。水の月、七日......不思議な光景だった。白い砂浜の海岸から、君へと贈ったペンダント...決して海に沈むこと無く、波に揺られて沖へとむかって流れていった...。君は喜んで受け取ってくれたのだろうか?あのペンダントをする美しい君の姿を浮かべながら...地平線の彼方へと消えるこの夕日を、瞳に焼き付けよう...愛しい人よ。愛する妻よ...私ももうすぐ逝く...君のもとへ......》
交易商 ヘンリー・ワイス・アーガルトン
零はこの個人手記を読んだ時、一縷の希望を見出したのだ。もしこの世界の何処かに、海面へと浮かぶ特殊な鉱石があるのだとすれば......島を牢獄へと変えている荒波をも乗り越える、未だかつて無い帆船が製造できるかも知れない。そう考えたのである。
アンリカリウスの民は、この個人手記の存在に希望を抱き、実現不可能な夢をみる零をあざ笑った。それは時に残酷で悲惨な結果をもたらした事もある。しかし、少年は諦める事をせず、つねに将来を見据えて生きてきたのだ。零と言う男は、そういう人間であった。
彼に付き従う者の一人、ベグート・ロンダイム。かつては零の父であるアンリカリウスの皇帝ドゥラガン・豪・リューを守る、近衛兵隊の隊長であった。
ベグートは精練な顔つきに、筋肉の鎧を纏ったような身体をしている。慎重は百九十センチもある。槍を使った白兵戦に置いて、ベグートの右に出る者はいない。そう言わしめる程に優れた腕を持つ、武人である。
零が唯一の希望を胸に抱き、アンリカリウスを出ると決心した日。父である豪は息子を案じ、もっとも自分が信頼し頼りにする男にこう言った。
「馬鹿息子を頼む。必ず生きて連れて帰ってきてくれ」と。
豪には二十人近い子供がいたため、零とは面と向かって話した事が数える程しかない。
そのため零本人が一番驚いたのは、自分の事を気にも留めていないと思っていた父からベグートをお供に付けられた事であった。ベクート本人も驚きはしたものの、彼はアンリカリウスの皇族に対し、高い忠誠心を持っていた。
そのため、現実を直に受け入れたのだ。与えられた任務を全うしようと、切り替えたのである。頭は固いが、強い意志と武人として生きてきた誇りを持つ一流の戦士である。
そして唯一女性であるユーファ・リネルは、零と同年齢の二十ニ歳である。零が幼い頃からの唯一の知り合いで、共に育ったと言っても過言ではない。そして彼に一途な想いを寄せていた。
初めて零とユーファが出会ったのは、まだ七歳の時であった。島の北端にある小さな浜。そこはゴミの浜と言われる場所で、魔の海域に飲み込まれた帆船等が、残骸となって流れ着く場所だった。
そこで熱心にゴミ漁りをしていた零は、同年代の女の子に声をかけられた。誰も目を向け様としない場所で、ゴミ漁りに励んでいた零は人と交流を持とうとせず、黙々と何かを必死に探していたのだ。そんな少年へ、声をかけたのがユーファだった。
「ねぇねぇ。何をそんなにひっしになって、さがしているの?」
率直で素直な言葉である。当時七歳になったばかりの子供のまともな質問であった。零は声のする方へと顔を向けようともせずに、ただ一心不乱に何かを探しながら答えた。
「船体軸となる竜骨。それを留める金具」
零の髪は黒々としており、手入れのされていないぼさぼさ頭だった。しかし、着ている服はきちんとした魚革製のチェニックで、ゴミ漁りをするには似つかわしくない服装だったのである。
当時のユーファには、零が何を言っているのかまったく分からなかっただろう。しかし、子供同士が仲良くなるのには、難しい理由など必要なかったのだ。
「ふぅん。そうなんだぁ。わたしも手伝ってあげようか?」
先ほどまで必死になって探していた少年の手は止まり、ゆっくりとその顔を少女に向けた。その時の記憶は、今でもユーファの心の奥に鮮明に残っている。
目鼻立ちはすっきりとしており、子供ながらに気品さが見て取れる顔つき。日に焼けた肌の所々では、汚れた手で汗を拭き取った後が目立った。しかし何よりも驚いたのは、その瞳である。
空というよりは、大海原のような深い蒼。見る者を吸い込むかのような色味は、美しく、力強さも秘めていた。まるで地平線の彼方まで続く大海。その瞳が、ユーファを暫くじっと見つめていた。そして、汚い手をポケットに入れると、ごそごそと何かを取り出したのだ。
「これと同じ形のやつ」
それだけだった。その後のことは、ユーファはあまり覚えていない。しかしそれは二人揃って必死になってゴミ漁りをしていたからであろう。
その少年が族長の息子で、“変り者の零”と言われていたのを知ったのは、ユーファが八歳になった頃である。それと同時に、この変人扱いされていた少年が、紛れもない天才である事を知ったのだ。
大人が十二人程乗り込む事の出来る漁猟船を、一人で造り上げていたのだ。零が持つ類稀なる才能は、海の民と言われるアンリカリウスの者にとって素晴らしいもののはずだった。
当初、周囲の大人達が零の持つ才能に気づき始めた時である。今まで関心も寄せなかった者が“変り者の零”に近づいてきたのだ。高い知能を持つ零であっても、当時はまだ八歳の子供であった。
最高の環境下で帆船を造る事を許された零は、甘い蜜に寄せられてきた大人達に利用された挙句、子供として持ちうる感情の全て失ってしまった。
帆船の製造とは、零にとって何よりも得がたい最高の遊びであった。それは責任や義務と言った、大抵の大人が持ちうる上での仕事などではなく、ただ純粋な感情の上に成り立つ行為である。
数人の帆船職人が子供である零の下に付き、製造したとある漁船。それがアンリカリウスの安全海域内で、謎の沈没事故を起こした。その事故で、数人の船員の命が失われてしまったのである。
皇帝である零の父は、沈没事故の原因究明をすぐに探らせた。すると、帆船の設計段階で重大な失敗があった事が判明したのだ。それはあきらかな零の設計ミスであった。
この当時零は子供でありながら、アンリカリウスに住む大人達から批判の的となったのだ。それは大人の汚さを見るのに、十分であった。自分の周りにいた大人達全てもが、掌を返した様に零を非難し、追い詰めていったのだ。そして、実の父である豪でさえも......。
零には家族と呼べる人間がまったく居なかった。母親は零を生み落とした後に息を引き取り、その後は皇帝の息子であると言うだけで、最低限の生活をなんとか送ってきたのである。
家に居たのは叔母とは名ばかりの、零の父から生活費を貰った金で呑んだくれる寄生虫だった。自分の家を嫌い、膨大な時間をゴミの浜で過ごしてきた零にとっては、そこが唯一の家なのである。
傷つきぼろぼろとなった零は、一人また孤独にゴミ漁りに耽っていた。帆船の造船所を追い出された零にとって、他に帰るべき場所はもう何処にもなかったのだ。零は十歳になっていた。
ある日、いつものようにゴミの浜で船舶の製造に必要な部品を集めていた時である。何処かで聞き覚えのある耳障りの言い声が、聞こえてきたのだ。その時、零は本当に大切なものの存在を初めて理解した。
「何を探しているの?手伝おうか?」
そこには小柄でありながらも、大きな瞳を輝かせる少女が立っていた。周囲を照らすような美しさと、優しさに包まれた満面の笑み。そんな顔を向けられた零にとって、少女の存在は眩しすぎた。
「君は......ユーファ......」
「零、おかえり!」
「ただいま......」
こうして二人はまた一緒にゴミの浜で、部品漁りを始めた。最高の遊び場と、最高の友を再び手に入れたのだ。さらにこの五年後、零とユーファにベグートを加え、三人は満月の夜にアンリカリウスから発った。
それは長い長い旅の始まりでもあった。交易商として全世界を旅して来たヘンリー・ワイス・アーガルトンと言う男。その男の生前の足取りを追う、途方もない旅だった。そしてついに辿り着いた場所。それが、クレムナント王国であったのである。




