第九十二話 壊滅
「ひぎやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
暗き森の中から響く声。血なまぐさい臭い。野獣と化した男は、馬を爪で押し倒す。そして胴体を切り裂く。大地へと倒れこんだ兵士の首を狙って、鋭い牙を突き立てる。流れ出る血。乱される隊列。あわただしく武器を構える者達。
「右だぁっ!」
騎士の男が叫ぶ。闇夜から襲い掛かる獣。一瞬の隙をついて、馬へと飛びかかる。
ウグォォォォォォッ!
巨大な獣は、恐ろしく獰猛であった。馬の三倍はあろうかという躯体にも関わらず、その素早さは騎士でも追いきれない。襲い掛かってきたかと思うと、兵士達が跨る馬を四頭も同時に大地へと倒す。そしてあっという間に命を奪い取ると、すぐに木々の陰へと姿をくらますのである。
「左!いや、右かっ!?」
縦横無尽に森の中を駆け回り、敵を翻弄していく。まるで遊ばれているかのようである。闇の中から聞こえてくるのは、木々の隙間を這い回る獰猛な獣が、枝や葉に掠れた時にでるわずかな音のみだ。
ウォォッグアァァァッ!
森の中に作られた道は、大して舗装もされていない。馬車や旅人が通り抜けれるだけの道幅である。土の地面で、森の中を切り分けるように作られたものだ。そこに馬へと跨る騎士や兵士が、二列に並んでいた。
「うぐあぁぁぁぁぁっ」
次々と獰猛な獣の牙にかかっていく男達。闇夜から飛び掛ってきたかと思うと、次の瞬間には消えている。動きが素早く捉えきれない。
「光だっ!光の鎧で辺り一体を照らしだせっ!」
騎士が叫んだ。すると光の鎧の魔法を唱えると、周囲をまばゆい明りが包んだ。
「な、何だあの化け物はっ!?」
兵士の一人が声を上げた。闇の中に姿を隠していた獣が、くっきりと映し出されたのである。それは全長八メートル程はあろうかと言う、巨大な獅子であった。
巨大な口には、クレムナント王国の兵士であろう男の肉体が咥えられていた。それを噛み砕くと、地面へと捨て去った。
グアアアァアァァァァァァァァッ!
咆哮を上げると、一気に駆け出した。そして騎士へと目掛けて、突進してきたのである。
「構えろ!迎え撃つぞっ!」
騎士の男が声を張り上げる。味方の兵士達は武器を構えて、獣を迎え撃つ。幾本ものつきだされた剣と槍。その隙間もない隊列へと、野獣は一直線に駆けていく。そして太い腕から繰り出された鋭く尖った爪をたてながら、襲いかかった。
六頭の馬を大地へと同時に倒す。その勢いで落馬した人間を狙って、牙を突き立てる。
「うぉらぁっ!」
騎士の一人が馬上から剣を振り下ろした。獣のダークイエローの体毛がとび散り、皮膚が切り裂かれた。次々と兵士達が野獣を取り囲んで、刃を振りかざしていく。
グオォォォォォォォォッ...!
痛みに耐えかねたのは、悲痛な声をあげる。しかし、すぐに反撃に転じた。躯体を飛び上がらせ、包囲を軽々と超える。そして敵の背後から襲いかかったのだ。噴出す血と、悲鳴の数々。野獣は敵の攻撃によって血だらけになりながらも、それでも牙と爪を突き立てていく。
身体の至る所から血が流れ出ており、数本の剣は背中へと刺さったままである。それでも尚、攻撃を止めることなく、人間を噛み殺し、切り裂き、叩き潰していくのだ。
一時間以上もの激闘の末に、生き残ったのは数人の兵士とたった一人の騎士だけである。大地へと倒れこんだ野獣の身体には、数十本もの剣と槍が突き刺さっていた。だが驚く事に、まだ息があるのだ。
グルルルルゥゥゥゥゥ......
横たわる野獣は、近づいてくる人間へと威嚇しているつもりなのだろう。しかし牙を見せて相手をにらみつけようとも、身体はすでにぴくりとも動かす事ができない様であった。
「はぁっ...はぁっ...よくも我等の仲間を......死ねぇぇぇっ!」
血にまみれた甲冑。泥と草がこびり付き、薄汚れてしまっている。元は美しい銀の板を打ち付けて作られたものであるのだ。しかし、それは言われなければ分からない。最後の力を振り絞って剣を振り上げると、野獣の顔目掛けて突き刺そうとしたのである。しかし、最後の力を振り絞ったのは、騎士の男だけではなかった。
横たわる野獣もまた、全身に力を込めるたのである。そしてその刃を牙で受け止めたのだ。鋭い牙と牙の間に挟まれた剣は、左右に動かそうとも引き抜けはしなかった。首を揺らして、相手から剣を奪い取る。そして後方へと投げ捨てたのである。
「なにっ!?」
武器を失った男は、後ずさりした。周りには血を流して倒れる兵士達が転がっている。後二歩ほど下がりきれば、死んだ者が落とした剣を拾えるのだ。その位置まで何とかゆっくりと後ろへ下がる。しかし、野獣は牙をむき出しにして、その歩幅以上の一歩で距離を詰めてくる。
グルルルルルルルルゥゥゥゥゥゥ......
互いの瞳が重なりあう。血なまぐさい吐息が、野獣の大きな口から漂った。目と鼻の先まで迫った獣は、残った左の眼で騎士を睨み付けた。
「うああああああああっっ!」
グアアアアアアアアアッッ!
騎士は透かさず腰を落として、剣を手にとる。野獣は口を大きく広げて、牙を突き立てる。噴出す血。倒れる身体。騎士の右半身は、野獣の牙にかかっていた。右半分が丸かじりされたのである。振りぬかれた剣は、野獣の鼻を裂いただけに留まった。
「ぐふっ......」
最後の最後で野獣の牙が、騎士を捉えたのである。身体を噛み砕くと、胴体を分断した。残りの兵士達は悲惨な光景を前に、ついに逃げ出していった。
野獣は血だらけの身体をふらつかせながら、森の中へと消え去っていったのである。空は白みがかり、木々の隙間から朝日が差し込み始めていた。この日、多くの命が失われた。
一つはアンタルトンの町である。一夜明けた町は、悲惨な状態だった。木造の家々は焼け焦げ、跡形もなくなっていたからである。石造りの家は倒壊し、元の形を保っているものは殆どなきに等しかった。町の至る所に人間の死体が転がっており、黒焦げになった焼死体も数多くあった。黒煙が立ち込めており、まだ火種が燻っているようである。
野獣と百名の追撃部隊が戦闘を行った森には、馬や人間の死体が至る所に転がっていた。その殆どの死因は失血死かショック死である。噛み砕かれたさいの痛みによる激痛で命を失ったり、流れ出る血が生命の維持を不可能な状態にしたのだ。馬も人間も、巨大な獣に襲われたかのような大きな傷口ばかりであった。
そして、この日の朝。旧精霊国付近の山から、クレムナント王国へと入ってきた者達がいた。彼らは十人程が乗れる馬車の荷台に腰掛けており、最終拠点となる町で旅の疲れを癒し、食料を確保しようとしていたのだ。しかし、たどり着いてみればそこに町はなく、あるのは焼け焦げた残骸だけであった。
彼らは独特な民族衣装に身を包んでおり、首からは何かの鉱石と骨を組み合わせた飾り物をかけていたのである。
「ぐほっ...うぅっ......」
無残な状態となった町の中から、数人の男達が出てきた。今にも倒れそうなほどに、ふらふらと歩いている。鎧を纏っているがそれには灰がかぶっており、皮膚は焼け炭がついているのか黒くなっていた。
「大丈夫かっ!?」
馬車の荷台から降りた男は、町の中から歩きでてきた男達に駆け寄った。瞳は大海原を思わせるかのような深い蒼をしていた。肌は褐色であり、髪は黒いぼさぼさ頭である。しかしそれを白いのターバンがうまく隠している。
「あ、ああ......すまぬが、水を分けてくれないか......」
男は弱々しい言葉で言った。ブラウンの髪とブラウンの髭。精悍な顔つきである。
「零様、どうされましたか?」
馬車の荷台から女が降りてきた。彼女もまた、独特の民族衣装に身を包み、肌は褐色であった。しかし、瞳は黒くまんまるとしていた。
「ユーファ!生存者がいるぞ!水を持ってきてくれ!ベグートも呼ぶんだっ!」
零といわれた男は、女へと指示を出した。すると荷台へと駆け足で戻ると、大柄な男を引き連れてきた。手には水が入っているであろう木でできた筒を持っていた。
それを受け取ると、零は男達へと手渡していった。
「零様、何事ですか?」
ベグートは困惑した顔つきであった。筋肉質の身体は、民族衣装を着込んでいても十人分に伝わってくる。肌は褐色であり、慎重は百九十センチ以上ある。瞳は黒く、顔つきは引き締まった武人のようであった。骨格ががっちりとしており、鼻が高く大きい。
「分からない。何があったんだ?アンタ達は一体何者なんだ?」
零は男達へと問いかけた。すると、その中で痩せ型のすらっとした者が、口を開いたのである。
「我等はクレムナント王国の騎士だ。この町で戦闘があったのだが、まだ生きている者達がいるはずだ。救出をしたいのだが、人手がたりない。すまないが、力を貸してくれないか?」
男の言葉に、零はすぐに答えた
「分かった。できる限りの事はしよう。ユーファ、ベグート!まだ町の中に生存者がいるかも知れない。俺達で探し出して、助けるぞっ!」
零は二人を引き連れて、煙がまだ立ち昇る町の中へと入っていった。




