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王宮魔道具と悪役令嬢の災難

芥子の指輪で時を戻す令嬢は、愛しのあなた様に選ばれたい

作者: ゆめかわ392
掲載日:2026/06/24

エリオット視点となります

今年の王立学院の創立祭に、魔道具の展示はなかった。


王宮宝物庫から外へ出た魔道具が、まだすべて戻っていない。理由はそれだけで十分だった。


代わりに催されたのは、前夜祭としての夜会。


表向きは、展示の代わりに学生同士の親睦を深めるため。華やかで、健全で、何の問題もない催し。


そのはずだった。


会場へ入ってすぐ、私はネレイスを見つけた。見つけた、というより、視線がそこへ吸い寄せられた。彼女はメティア嬢とともに、少し離れた場所に立っていた。


今夜のネレイスは、淡い青色のドレスをまとっていた。

袖口と裾に施された銀糸の刺繍が、夜会の灯りを受けるたび、静かに光を返している。

銀糸のような白い髪は、ゆるく結い上げられていた。光の加減で、ほんの少し青みを帯びて見える。

その色が、彼女の灰青色の瞳とよく似合っていた。


華やかに笑っているわけではない。誰かの視線を集めようとしているわけでもない。それでも、そこにいるだけで目を引いた。


冷たく見えるほど整った美貌。そこにあるのは作られた人形の美しさではない。


迷いも、警戒も、痛みも抱えたまま、それでも俯かずに立っている。その姿が、美しいと思った。


女神の鏡が彼女を映した理由を、私は初めて少しだけ理解した気がした。


いや、違う。


理解したというより、同意したのだ。


今夜、私は彼女にエスコートを断られている。それは、予想していたことだった。


大公妃の一件以降、ネレイスは王家を警戒している。


私を信じたいとは言ってくれた。だが、王家を同じようには信じられないとも言った。


私は、急いではならない。今すぐ彼女へ歩み寄り、王太子として手を差し出せば、それはまた王家の都合に見える。


王太子ではなく、エリオットとして彼女に届く言葉を探さなければならない。そう思っていた時だった。


「ご機嫌よう、エリオット殿下」


振り向くと、フェスティナ・サジタス公爵令嬢が立っていた。


サジタス公爵家の令嬢であり、学院でも指折りの才女。

礼法、歴史、魔法理論、古典語。どの分野でも優秀な成績を収めてきた人物だ。


一方で、彼女の姿を嘲る者がいることも知っている。


「よくあのお姿で、殿方の前に立てますこと」


「宝石を重ねても、目を引くところが変わるわけではありませんのに」


「知性で飾っても、醜いものに理由がつくだけですわ」


そうした言葉は、王太子の耳にも届く。届くべきではない言葉ほど、なぜかよく届くものだ。

貴族は、人を褒める言葉より、貶める言葉の方をよく覚えている。誰かを笑い、誰かを値踏みし、それを社交の機知と呼ぶ。


だから、気を抜いてはならない。


王太子の一言も、視線も、沈黙さえも、誰かを傷つける刃になりうる。


フェスティナ嬢は、貴族令嬢として申し分のない装いをしていたのだと思う。

礼を失するところはなく、声も所作も乱れてはいない。だが、正直なところ、それ以上の印象は残らなかった。


先ほど、ネレイスを見てしまったからだ。


淡い青のドレス。灯りを返す銀糸。青みを帯びる銀髪と、灰青色の瞳。


その後に見るものは、どうしても輪郭が薄くなる。フェスティナ嬢が美しいか、そうでないか。その判断にさえ、私は大した意味を見出せなかった。


彼女は、貴族令嬢らしくそこにいた。ただ、それだけだった。


「サジタス公爵令嬢。今夜もご機嫌麗しく」


「ありがとうございます。殿下も、ご健勝のご様子で何よりでございます」


礼儀正しい挨拶だった。だが、彼女の視線は一瞬、私ではない別の方向へ動いた。ネレイスの方へ。


「ローヴェル公爵令嬢は、今夜は殿下のエスコートをお受けにならなかったのですね」


「そのようだ」


「賢明なご判断かもしれませんわ」


私は彼女を見た。


「どういう意味だ」


「いえ。ただ、近頃の噂を思いますと、あの方も少しはご自分の立場を弁えられたのかと」


「サジタス公爵令嬢」


「失礼いたしました」


謝罪は早かった。だが、その目に反省はない。


「美しい方は得ですわね」


フェスティナ嬢は扇の陰で言った。


「少し俯けば儚げに見える。少し黙れば思慮深く見える。少し距離を取れば、傷ついているように見える」


「ネレイスをそのように言うな」


「まあ。お庇いになるのですね」


彼女は微笑んだ。


「殿下は昔からお優しい方ですもの。人の内側を見てくださる」


幼い頃のことを言っているのだと、すぐに分かった。


王宮で開かれた、子ども向けの講義。

古い詩について、フェスティナ嬢が誰より正確な答えを出した。さらに、別の解釈まで示した。

私は素直に驚き、言ったのだ。物事を見る目が優れている。あなたの知性は素晴らしい。

その言葉は嘘ではなかった。

今も、彼女の知性を否定するつもりはない。


優れた解釈を称えた。努力を認めた。それだけだ。


その言葉が、彼女の中で別の意味を持ってしまったことに、私は長く気づいていなかった。


「私は、あの日のお言葉を忘れたことがございません」


フェスティナ嬢は静かに言った。


「誰もが私を見ようとしなかった時、あなた様だけが、私の知性を認めてくださいました」


あなた様。その呼び方に、違和感があった。


「あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました」


彼女の手袋の上で、指輪が光った。芥子の花を模した、古い金の指輪。花弁の中心に沈む赤が、眠りから覚めるように強くなった。


音楽が遠くなる。


視界が淡く滲む。


「ありがとうございます。殿下も、ご健勝のご様子で何よりでございます」


時間が戻った。先ほどと同じ挨拶。同じ声。同じ角度で伏せられた扇。


だが、今度のフェスティナ嬢は、ネレイスを見なかった。


「ローヴェル公爵令嬢は、今夜は殿下のエスコートをお受けにならなかったのですね」


「そのようだ」


「……殿下も、お心を痛めていらっしゃるのでしょうね」


私は、彼女を見た。


「なぜそう思う」


「大切な方と距離ができるのは、おつらいことでしょうから」


フェスティナ嬢は静かに目を伏せた。


「私には、そのお気持ちが少しだけ分かる気がいたします」


「分かったように言われるのは好まない」


「失礼いたしました」


「だが、心を痛めていないと言えば嘘になる」


フェスティナ嬢の指先が、かすかに震えた。


私はネレイスの方へ視線を向けた。そこへ、ディアス・ウィーヴァーが近づいていくのが見えた。

美貌と恋の噂で知られた令息。彼がどのような言葉を使う男なのか、私も知っている。

そして、あの視線は良くない。私はネレイスの方へ向かおうとした。


「殿下」


フェスティナ嬢が呼び止める。


「もう少しだけ、お話を」


「後にしてくれ」


「後では、またあの方のもとへ行ってしまわれるでしょう?」


低い声だった。隠す気のない嫉妬。そして、責めるような響き。


「サジタス公爵令嬢」


「失礼いたしました」


また、早すぎる謝罪。やはり反省はない。私は彼女から視線を外し、ネレイスの方へ進もうとした。


その瞬間、音楽が遠くなった。視界が淡く滲む。


会場の隅で令息がグラスを傾ける。赤い酒がこぼれかける。近くの令嬢が小さく笑う。


見たことのある光景だった。


「殿下?」


フェスティナ嬢が私を見上げている。


「ご気分が優れませんか」


私は眉をひそめた。


「今、何をした」


「何のことでしょう」


「あなたは」


「私は、ただ殿下を気遣っただけですわ」


彼女は微笑んだ。だが、手袋の上の指輪が、赤く光っていた。


「その指輪を外せ」


フェスティナ嬢の笑みが消えた。


「嫌です」


「それは王宮宝物庫由来の魔道具かもしれない」


「まさか」


「あなた自身も、何か起きたことに気づいているはずだ」


「これは、私に機会をくださるものです」


「機会?」


「間違えないための機会です」


彼女の声が熱を帯びる。


「言葉を間違えたら、戻ればよい。振る舞いを誤ったら、戻ればよい。殿下にふさわしくない一言を口にしたら、その直前へ戻ればよい」


「それは、やり直しではない」


「では何ですの」


「逃げだ」


フェスティナ嬢の顔から血の気が引いた。だが、すぐに怒りが浮かぶ。


「逃げ?」


「ああ」


「殿下は簡単にそうおっしゃるのですね。初めから何もかも持っている方は」


「持っているから苦しまないわけではない」


「ですが、見下されることはないでしょう?」


彼女の声が鋭くなった。


「だからといって、ネレイスを傷つけてよい理由にはならない」


「また、あの方」


フェスティナ嬢は笑った。涙はない。あるのは怒りと、醜い喜びだった。


「あの方が少しでも苦しめば、殿下はすぐにそうしてお庇いになる。美しい方は得ですわ。傷ついて見せれば、皆が優しくしてくださる」


「彼女は見せているのではない」


「どうかしら」


フェスティナ嬢の声が甘くなった。


「殿下はご存じないだけではありませんの? ローヴェル公爵令嬢が、どれほど周囲の視線を操るのが上手いか」


「黙れ」


自分でも驚くほど低い声が出た。


フェスティナ嬢の肩が震える。けれど彼女は、すぐに微笑んだ。


「怒ってくださるのですね」


「何?」


「私の言葉に、ようやく感情を向けてくださいました」


その目に、ぞっとした。彼女は、怒りでさえ自分へ向けられたものなら欲しいのだ。認められたい。見られたい。選ばれたい。


その飢えは、いつの間にか、誰かを傷つけてもいいという欲に変わっていた。


「フェスティナ・サジタス。指輪を外せ」


「嫌です」


「それは、あなたを救わない」


「救ってくれます!」


彼女は叫んだ。


「何度でも戻れるのです。何度でも言葉を選び直せる。何度でも、殿下が私を選ぶ未来へ近づける!」


「その未来は存在しない」


フェスティナ嬢の表情が止まった。


「あなたの知性を認めたことは嘘ではない。努力を否定するつもりもない」


「では」


「だが、それは恋とは程遠い感情だった」


彼女の唇が震えた。


「私は、あなたを嫌っているわけではない」


その瞬間、彼女の目に期待が宿った。だから、私は逃げてはならなかった。


「だが、好きではない」


はっきりと言った。


だが、フェスティナ嬢は笑った。泣き出しそうな、けれど勝ち誇った笑みだった。


「……いいえ」


「何が、いいえなのか」


「今、聞こえました」


彼女は胸元に手を当てる。指輪が赤く光った。


「あなた様のお声で」


「私は、好きではないと言った」


「違います」


フェスティナ嬢は首を振った。


「あなた様は、ずっと探していたと。私の心を満たしてくれる、真実の愛を、と」


それは私の言葉ではない。


遠くで、ディアス・ウィーヴァーの声が聞こえた。


『私は、ずっと探していたのです。私の心を満たしてくれる、真実の愛を』


その声は、ネレイスへ向けられている。だがフェスティナ嬢は、それを私の言葉として受け取っている。


「違う。今の声は私ではない」


「いいえ。聞こえましたもの」


『真実の愛に、時間は関係ありません』


また、ディアスの声が響く。フェスティナ嬢は頬を染めた。


「そうですわ。幼い頃から、私はずっとお待ちしておりました」


「聞け」


「聞いております。あなた様の本当のお心を」


彼女は恍惚とした顔でそう言った。


私はその時、ようやく分かった。指輪は、彼女の願いを叶えるために時を戻しているのではない。彼女に、立ち止まらせようとしているのだ。だが、フェスティナ嬢は自分の誤りを見ようとしない。


どう言えば私に選ばれるのか。どう振る舞えば報われるのか。ただ、それだけを探している。


だから、指輪は何度でも彼女を戻す。けれど彼女は、戻るたびに同じ欲へ向かっていく。


いや、言葉そのものは、実際に発せられている。向けられた相手がずれているだけだ。


ディアスの言葉はネレイスへ。フェスティナ嬢の言葉は私へ。


どちらの言葉も、届くべき相手には届いていない。


おそらく、糸杉の針がそこに干渉している。私へ向けられたフェスティナ嬢の言葉。ネレイスへ向けられたディアスの言葉。魔道具だけが、欲しい部分だけを縫い合わせていく。


『どうか、私の言葉を受け取ってください』


ディアスの甘い声が届いた。

フェスティナ嬢は、私を見つめたまま震えた。


「はい」


「何に返事をした」


「受け取ります」


「私は何も差し出していない」


「あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました」


彼女はそう言った。その言葉は、私へ向けられていた。

だが彼女が受け取ったと思っている言葉は、私のものではない。ディアスの言葉だ。

そしてその言葉は、ネレイスへ向けられたものだった。


その時、遠くでネレイスの声が聞こえた。低く、はっきりした声だった。


「私は、あなたを好きではありません」


ネレイスは拒んでいる。ならば、彼女のもとへ行かなければならない。


私は一歩を踏み出そうとした。


だが、フェスティナ嬢の指輪が赤く強く光る。足元が重くなった。時間そのものに絡め取られたような感覚だった。


「何度でも」


フェスティナ嬢が呟いた。


「何度でも、正しい答えへ辿り着ける」


「それは正しい答えではない」


「違います。私は間違えていない」


「間違えている」


「いいえ。だって」


彼女は笑った。


「あなた様は、私を選んでくださる」


その瞬間、ディアスの声が会場を抜けた。


『私は、あなたを愛しています』


甘く、整った声。ネレイスへ向けられたはずの言葉。


フェスティナ嬢は息を止めた。


「……あなた様」


「違う」


「やっと」


彼女の表情がゆっくり変わった。張り詰めていた頬が緩み、目元に熱が宿る。それは喜びだった。


自分の努力が、自分の執着が、自分の傷が、ようやく正しいものとして認められたと信じた顔だった。


「やっと、私を選んでくださいましたのね」


「違う」


「いいえ」


彼女は微笑んだ。これまで見たどの表情よりも、満たされていた。


「私は、ずっとこの時を待っておりました」


彼女は言った。


「私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました」


その瞬間、芥子の指輪の光がふっと弱まった。


繰り返しが終わる。なぜ終わったのか、私はすぐに理解した。


芥子の指輪は、彼女に都合のよい時間を与える道具ではない。誤った選択の直前へ戻し、正しい道を選び直させるための魔道具なのだ。


フェスティナ嬢は、何度も戻されていた。ネレイスを傷つける言葉を選んだ時。私の反応を誤った時。欲に傾き、道を踏み外しかけた時。本来なら、そのたびに立ち止まり、自分の過ちを見るべきだった。


けれど彼女は見なかった。どうすれば私に選ばれるのか。どうすれば報われるのか。その答えだけを探し続けた。


そして今、彼女は見つけてしまったのだ。間違った答えを。


『私は、あなたを愛しています』


それは私の言葉ではない。


ディアス・ウィーヴァーが、ネレイスへ向けた言葉だった。

だがフェスティナ嬢は、それを私からの言葉だと信じた。


私に選ばれたのだと。自分はようやく報われたのだと。


その瞬間、彼女の中で選び直しは終わった。


芥子の指輪は、彼女が正しい答えに辿り着いたものとして、時を戻すことをやめた。


遠くで、ディアス・ウィーヴァーが恍惚と微笑んでいるのが見えた。

彼もまた、ネレイスが自分の言葉を受け取ったのだと信じている顔だった。


フェスティナ嬢は、私に選ばれたと信じた。

ディアスは、ネレイスに愛を受け取られたと信じた。


二人とも、誤った幸福を正しい答えだと思い込んでいる。


その誤認を、糸杉の針が拾った。私へ向けられたフェスティナ嬢の言葉。ネレイスへ向けられたディアスの言葉。


本来なら交わるはずのない二つの言葉が、記録布へ縫い合わされていく。


芥子の指輪は、もう戻らない。糸杉の針が、二人の誤認を記録として縫い留めてしまうからだ。


間違った答えが、答えとして固定される。誤った幸福のまま、時間は先へ進んだ。


会場奥の記録布が、大きく波打った。銀の糸が走る。そこに、言葉が交互に縫い留められていった。


『ディアス・ウィーヴァー:

 私は、ずっと探していたのです。私の心を満たしてくれる、真実の愛を』


『フェスティナ・サジタス:

 私も、ずっとお待ちしておりました。あの日、私を認めてくださった、あなた様を』


『ディアス・ウィーヴァー:

 真実の愛に、時間は関係ありません』


『フェスティナ・サジタス:

 時間を戻せるなら、いつか必ず正しい答えへ辿り着けるはずです』


『ディアス・ウィーヴァー:

 どうか、私の言葉を受け取ってください』


『フェスティナ・サジタス:

 あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました』


記録布は、まだ止まらなかった。最後に、ひときわ濃い銀の糸が走る。


『ディアス・ウィーヴァー:

 私は、あなたを愛しています』


それは、ディアスがネレイスへ向けて言った言葉だった。だが、記録布はネレイスの名を縫わない。

続いて、フェスティナ嬢の名が浮かび上がった。


『フェスティナ・サジタス:

 私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました』


その言葉は、私へ向けられていた。


どちらも、向けられた相手には拒まれていた。それなのに、記録布の上では、二人は互いに愛を告げ、互いに受け取ったことになっている。


これほど残酷で、これほど正確な記録はなかった。誰の思惑も、言い訳も、記録布には関係ない。残ったのは、発した言葉と、縫い留められた名だけだった。


ディアスは、記録布を見上げたまま固まっていた。

フェスティナ嬢も同じだった。


二人とも、自分が望んだ相手の名がそこにないことを理解したのだろう。


そして、これはただの噂ではない。記録だ。しかも、学院創立祭の記録布に縫い留められた。最悪の形だった。


その後の二人の言い争いは、聞くに堪えないものだった。互いを嫌悪し、互いを侮辱し、互いに選ばれたことを人生の汚点のように吐き捨てる。


先ほどまで、真実の愛と選ばれる日を信じていた二人とは思えなかった。だが、それもまた本音なのだろう。


彼らが愛していたのは、目の前の相手ではない。自分を満たしてくれるはずの誰か。自分を正しいものにしてくれるはずの誰か。その幻だった。


教師方が動き、学院付きの魔導士が呼ばれた。


糸杉の針と記録布が隔離される。芥子の指輪も、魔導士の手で同じく封じ箱へ収められた。私は、その箱が運び出されるのを見送った。


そして、冷静になってからぞっとした。もし、持ち主が逆だったなら。


芥子の指輪がディアス・ウィーヴァーの手に渡っていたなら、彼はネレイスに届く言葉を、何度でも選び直しただろう。彼は、女性の心の機微を読むことに長けている。拒絶の前に揺れた睫毛も、怒りの奥にある戸惑いも、沈黙が半拍遅れた瞬間も見逃さない。

しかも、ネレイスを何度でも見られるのだ。あの美しさを前にして、普通の男なら一度で心を奪われてもおかしくない。何度も繰り返し見られるなど、許されてよいはずがない。


糸杉の針がフェスティナ・サジタスの手に渡っていたなら、それもまた危うかった。あれは、言葉を残す魔道具だ。頭の回る者ほど、どの言葉を拾い、どの順に縫い留めれば意味が変わるかを理解してしまう。フェスティナ嬢なら、私が幼い日にかけた称賛を、長く待ち続けた愛の証として縫い留めただろう。


そうなっていたら、きっと私たちは引き裂かれていた。少なくとも、今夜よりずっと深く傷ついていた。


今回、二つの魔道具は互いに干渉し、互いの欲を、最も望まない相手へ縫い合わせた。だから助かった。助かったと言ってよいのかは、分からないが。


私はネレイスを探した。彼女は会場の外へ出ようとしていた。今度は、私を止めるものは誰もいなかった。


私はすぐに彼女のもとへ向かった。


「ネレイス」


彼女が振り向く。夜風が、彼女の髪をわずかに揺らした。


「送る」


「殿下」


「今夜くらいは、送らせてほしい」


彼女は少し迷っていた。当然だ。


それでも、ネレイスは私の手を取った。


馬車の中は、静かだった。向かい合うには近く、並ぶにはまだ遠い距離。


そんな距離で、私たちはしばらく何も言わなかった。


「ネレイス」


「はい」


「今夜、君のもとへ行くのが遅くなった」


「はい」


「だが、私は行きたかった」


彼女の睫毛が揺れた。その表情を見て、私は息を止めそうになった。

ディアスの美しい言葉には、彼女は少しも揺れなかった。

だが、私の不器用な一言には、こんな顔をする。それが嬉しくて、苦しかった。


「ネレイス」


私は、もう一度彼女の名を呼んだ。


彼女が顔を上げる。


夜会の灯りから離れた馬車の中で、彼女の瞳が静かにこちらを見ていた。


王太子として言うべき言葉は、いくらでもある。


君を守る。王家に都合よく扱わせない。婚約者として大切にする。どれも嘘ではない。


だが、今必要なのは、そういう言葉ではないのだと思った。もっと単純なことだった。


王太子としてではない。

婚約者としてでもない。

彼女を王家に留めるためでもない。

ただ、私自身の言葉として。


「私は、君が好きだ」


馬車の車輪の音が、やけに遠く聞こえた。


ネレイスは、何も言わなかった。


けれど、目をそらさなかった。


それだけで、今は十分だった。

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― 新着の感想 ―
なんか一周回って鏡がネレイスを万全な状態で王妃にするために他の魔道具を使って厄介になりそうな人達を排除してるように見えてきた。 でもネレイスに害があるせいで王家の守護というより厄介推し活に見える。
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