芥子の指輪で時を戻す令嬢は、愛しのあなた様に選ばれたい
エリオット視点となります
今年の王立学院の創立祭に、魔道具の展示はなかった。
王宮宝物庫から外へ出た魔道具が、まだすべて戻っていない。理由はそれだけで十分だった。
代わりに催されたのは、前夜祭としての夜会。
表向きは、展示の代わりに学生同士の親睦を深めるため。華やかで、健全で、何の問題もない催し。
そのはずだった。
会場へ入ってすぐ、私はネレイスを見つけた。見つけた、というより、視線がそこへ吸い寄せられた。彼女はメティア嬢とともに、少し離れた場所に立っていた。
今夜のネレイスは、淡い青色のドレスをまとっていた。
袖口と裾に施された銀糸の刺繍が、夜会の灯りを受けるたび、静かに光を返している。
銀糸のような白い髪は、ゆるく結い上げられていた。光の加減で、ほんの少し青みを帯びて見える。
その色が、彼女の灰青色の瞳とよく似合っていた。
華やかに笑っているわけではない。誰かの視線を集めようとしているわけでもない。それでも、そこにいるだけで目を引いた。
冷たく見えるほど整った美貌。そこにあるのは作られた人形の美しさではない。
迷いも、警戒も、痛みも抱えたまま、それでも俯かずに立っている。その姿が、美しいと思った。
女神の鏡が彼女を映した理由を、私は初めて少しだけ理解した気がした。
いや、違う。
理解したというより、同意したのだ。
今夜、私は彼女にエスコートを断られている。それは、予想していたことだった。
大公妃の一件以降、ネレイスは王家を警戒している。
私を信じたいとは言ってくれた。だが、王家を同じようには信じられないとも言った。
私は、急いではならない。今すぐ彼女へ歩み寄り、王太子として手を差し出せば、それはまた王家の都合に見える。
王太子ではなく、エリオットとして彼女に届く言葉を探さなければならない。そう思っていた時だった。
「ご機嫌よう、エリオット殿下」
振り向くと、フェスティナ・サジタス公爵令嬢が立っていた。
サジタス公爵家の令嬢であり、学院でも指折りの才女。
礼法、歴史、魔法理論、古典語。どの分野でも優秀な成績を収めてきた人物だ。
一方で、彼女の姿を嘲る者がいることも知っている。
「よくあのお姿で、殿方の前に立てますこと」
「宝石を重ねても、目を引くところが変わるわけではありませんのに」
「知性で飾っても、醜いものに理由がつくだけですわ」
そうした言葉は、王太子の耳にも届く。届くべきではない言葉ほど、なぜかよく届くものだ。
貴族は、人を褒める言葉より、貶める言葉の方をよく覚えている。誰かを笑い、誰かを値踏みし、それを社交の機知と呼ぶ。
だから、気を抜いてはならない。
王太子の一言も、視線も、沈黙さえも、誰かを傷つける刃になりうる。
フェスティナ嬢は、貴族令嬢として申し分のない装いをしていたのだと思う。
礼を失するところはなく、声も所作も乱れてはいない。だが、正直なところ、それ以上の印象は残らなかった。
先ほど、ネレイスを見てしまったからだ。
淡い青のドレス。灯りを返す銀糸。青みを帯びる銀髪と、灰青色の瞳。
その後に見るものは、どうしても輪郭が薄くなる。フェスティナ嬢が美しいか、そうでないか。その判断にさえ、私は大した意味を見出せなかった。
彼女は、貴族令嬢らしくそこにいた。ただ、それだけだった。
「サジタス公爵令嬢。今夜もご機嫌麗しく」
「ありがとうございます。殿下も、ご健勝のご様子で何よりでございます」
礼儀正しい挨拶だった。だが、彼女の視線は一瞬、私ではない別の方向へ動いた。ネレイスの方へ。
「ローヴェル公爵令嬢は、今夜は殿下のエスコートをお受けにならなかったのですね」
「そのようだ」
「賢明なご判断かもしれませんわ」
私は彼女を見た。
「どういう意味だ」
「いえ。ただ、近頃の噂を思いますと、あの方も少しはご自分の立場を弁えられたのかと」
「サジタス公爵令嬢」
「失礼いたしました」
謝罪は早かった。だが、その目に反省はない。
「美しい方は得ですわね」
フェスティナ嬢は扇の陰で言った。
「少し俯けば儚げに見える。少し黙れば思慮深く見える。少し距離を取れば、傷ついているように見える」
「ネレイスをそのように言うな」
「まあ。お庇いになるのですね」
彼女は微笑んだ。
「殿下は昔からお優しい方ですもの。人の内側を見てくださる」
幼い頃のことを言っているのだと、すぐに分かった。
王宮で開かれた、子ども向けの講義。
古い詩について、フェスティナ嬢が誰より正確な答えを出した。さらに、別の解釈まで示した。
私は素直に驚き、言ったのだ。物事を見る目が優れている。あなたの知性は素晴らしい。
その言葉は嘘ではなかった。
今も、彼女の知性を否定するつもりはない。
優れた解釈を称えた。努力を認めた。それだけだ。
その言葉が、彼女の中で別の意味を持ってしまったことに、私は長く気づいていなかった。
「私は、あの日のお言葉を忘れたことがございません」
フェスティナ嬢は静かに言った。
「誰もが私を見ようとしなかった時、あなた様だけが、私の知性を認めてくださいました」
あなた様。その呼び方に、違和感があった。
「あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました」
彼女の手袋の上で、指輪が光った。芥子の花を模した、古い金の指輪。花弁の中心に沈む赤が、眠りから覚めるように強くなった。
音楽が遠くなる。
視界が淡く滲む。
「ありがとうございます。殿下も、ご健勝のご様子で何よりでございます」
時間が戻った。先ほどと同じ挨拶。同じ声。同じ角度で伏せられた扇。
だが、今度のフェスティナ嬢は、ネレイスを見なかった。
「ローヴェル公爵令嬢は、今夜は殿下のエスコートをお受けにならなかったのですね」
「そのようだ」
「……殿下も、お心を痛めていらっしゃるのでしょうね」
私は、彼女を見た。
「なぜそう思う」
「大切な方と距離ができるのは、おつらいことでしょうから」
フェスティナ嬢は静かに目を伏せた。
「私には、そのお気持ちが少しだけ分かる気がいたします」
「分かったように言われるのは好まない」
「失礼いたしました」
「だが、心を痛めていないと言えば嘘になる」
フェスティナ嬢の指先が、かすかに震えた。
私はネレイスの方へ視線を向けた。そこへ、ディアス・ウィーヴァーが近づいていくのが見えた。
美貌と恋の噂で知られた令息。彼がどのような言葉を使う男なのか、私も知っている。
そして、あの視線は良くない。私はネレイスの方へ向かおうとした。
「殿下」
フェスティナ嬢が呼び止める。
「もう少しだけ、お話を」
「後にしてくれ」
「後では、またあの方のもとへ行ってしまわれるでしょう?」
低い声だった。隠す気のない嫉妬。そして、責めるような響き。
「サジタス公爵令嬢」
「失礼いたしました」
また、早すぎる謝罪。やはり反省はない。私は彼女から視線を外し、ネレイスの方へ進もうとした。
その瞬間、音楽が遠くなった。視界が淡く滲む。
会場の隅で令息がグラスを傾ける。赤い酒がこぼれかける。近くの令嬢が小さく笑う。
見たことのある光景だった。
「殿下?」
フェスティナ嬢が私を見上げている。
「ご気分が優れませんか」
私は眉をひそめた。
「今、何をした」
「何のことでしょう」
「あなたは」
「私は、ただ殿下を気遣っただけですわ」
彼女は微笑んだ。だが、手袋の上の指輪が、赤く光っていた。
「その指輪を外せ」
フェスティナ嬢の笑みが消えた。
「嫌です」
「それは王宮宝物庫由来の魔道具かもしれない」
「まさか」
「あなた自身も、何か起きたことに気づいているはずだ」
「これは、私に機会をくださるものです」
「機会?」
「間違えないための機会です」
彼女の声が熱を帯びる。
「言葉を間違えたら、戻ればよい。振る舞いを誤ったら、戻ればよい。殿下にふさわしくない一言を口にしたら、その直前へ戻ればよい」
「それは、やり直しではない」
「では何ですの」
「逃げだ」
フェスティナ嬢の顔から血の気が引いた。だが、すぐに怒りが浮かぶ。
「逃げ?」
「ああ」
「殿下は簡単にそうおっしゃるのですね。初めから何もかも持っている方は」
「持っているから苦しまないわけではない」
「ですが、見下されることはないでしょう?」
彼女の声が鋭くなった。
「だからといって、ネレイスを傷つけてよい理由にはならない」
「また、あの方」
フェスティナ嬢は笑った。涙はない。あるのは怒りと、醜い喜びだった。
「あの方が少しでも苦しめば、殿下はすぐにそうしてお庇いになる。美しい方は得ですわ。傷ついて見せれば、皆が優しくしてくださる」
「彼女は見せているのではない」
「どうかしら」
フェスティナ嬢の声が甘くなった。
「殿下はご存じないだけではありませんの? ローヴェル公爵令嬢が、どれほど周囲の視線を操るのが上手いか」
「黙れ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
フェスティナ嬢の肩が震える。けれど彼女は、すぐに微笑んだ。
「怒ってくださるのですね」
「何?」
「私の言葉に、ようやく感情を向けてくださいました」
その目に、ぞっとした。彼女は、怒りでさえ自分へ向けられたものなら欲しいのだ。認められたい。見られたい。選ばれたい。
その飢えは、いつの間にか、誰かを傷つけてもいいという欲に変わっていた。
「フェスティナ・サジタス。指輪を外せ」
「嫌です」
「それは、あなたを救わない」
「救ってくれます!」
彼女は叫んだ。
「何度でも戻れるのです。何度でも言葉を選び直せる。何度でも、殿下が私を選ぶ未来へ近づける!」
「その未来は存在しない」
フェスティナ嬢の表情が止まった。
「あなたの知性を認めたことは嘘ではない。努力を否定するつもりもない」
「では」
「だが、それは恋とは程遠い感情だった」
彼女の唇が震えた。
「私は、あなたを嫌っているわけではない」
その瞬間、彼女の目に期待が宿った。だから、私は逃げてはならなかった。
「だが、好きではない」
はっきりと言った。
だが、フェスティナ嬢は笑った。泣き出しそうな、けれど勝ち誇った笑みだった。
「……いいえ」
「何が、いいえなのか」
「今、聞こえました」
彼女は胸元に手を当てる。指輪が赤く光った。
「あなた様のお声で」
「私は、好きではないと言った」
「違います」
フェスティナ嬢は首を振った。
「あなた様は、ずっと探していたと。私の心を満たしてくれる、真実の愛を、と」
それは私の言葉ではない。
遠くで、ディアス・ウィーヴァーの声が聞こえた。
『私は、ずっと探していたのです。私の心を満たしてくれる、真実の愛を』
その声は、ネレイスへ向けられている。だがフェスティナ嬢は、それを私の言葉として受け取っている。
「違う。今の声は私ではない」
「いいえ。聞こえましたもの」
『真実の愛に、時間は関係ありません』
また、ディアスの声が響く。フェスティナ嬢は頬を染めた。
「そうですわ。幼い頃から、私はずっとお待ちしておりました」
「聞け」
「聞いております。あなた様の本当のお心を」
彼女は恍惚とした顔でそう言った。
私はその時、ようやく分かった。指輪は、彼女の願いを叶えるために時を戻しているのではない。彼女に、立ち止まらせようとしているのだ。だが、フェスティナ嬢は自分の誤りを見ようとしない。
どう言えば私に選ばれるのか。どう振る舞えば報われるのか。ただ、それだけを探している。
だから、指輪は何度でも彼女を戻す。けれど彼女は、戻るたびに同じ欲へ向かっていく。
いや、言葉そのものは、実際に発せられている。向けられた相手がずれているだけだ。
ディアスの言葉はネレイスへ。フェスティナ嬢の言葉は私へ。
どちらの言葉も、届くべき相手には届いていない。
おそらく、糸杉の針がそこに干渉している。私へ向けられたフェスティナ嬢の言葉。ネレイスへ向けられたディアスの言葉。魔道具だけが、欲しい部分だけを縫い合わせていく。
『どうか、私の言葉を受け取ってください』
ディアスの甘い声が届いた。
フェスティナ嬢は、私を見つめたまま震えた。
「はい」
「何に返事をした」
「受け取ります」
「私は何も差し出していない」
「あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました」
彼女はそう言った。その言葉は、私へ向けられていた。
だが彼女が受け取ったと思っている言葉は、私のものではない。ディアスの言葉だ。
そしてその言葉は、ネレイスへ向けられたものだった。
その時、遠くでネレイスの声が聞こえた。低く、はっきりした声だった。
「私は、あなたを好きではありません」
ネレイスは拒んでいる。ならば、彼女のもとへ行かなければならない。
私は一歩を踏み出そうとした。
だが、フェスティナ嬢の指輪が赤く強く光る。足元が重くなった。時間そのものに絡め取られたような感覚だった。
「何度でも」
フェスティナ嬢が呟いた。
「何度でも、正しい答えへ辿り着ける」
「それは正しい答えではない」
「違います。私は間違えていない」
「間違えている」
「いいえ。だって」
彼女は笑った。
「あなた様は、私を選んでくださる」
その瞬間、ディアスの声が会場を抜けた。
『私は、あなたを愛しています』
甘く、整った声。ネレイスへ向けられたはずの言葉。
フェスティナ嬢は息を止めた。
「……あなた様」
「違う」
「やっと」
彼女の表情がゆっくり変わった。張り詰めていた頬が緩み、目元に熱が宿る。それは喜びだった。
自分の努力が、自分の執着が、自分の傷が、ようやく正しいものとして認められたと信じた顔だった。
「やっと、私を選んでくださいましたのね」
「違う」
「いいえ」
彼女は微笑んだ。これまで見たどの表情よりも、満たされていた。
「私は、ずっとこの時を待っておりました」
彼女は言った。
「私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました」
その瞬間、芥子の指輪の光がふっと弱まった。
繰り返しが終わる。なぜ終わったのか、私はすぐに理解した。
芥子の指輪は、彼女に都合のよい時間を与える道具ではない。誤った選択の直前へ戻し、正しい道を選び直させるための魔道具なのだ。
フェスティナ嬢は、何度も戻されていた。ネレイスを傷つける言葉を選んだ時。私の反応を誤った時。欲に傾き、道を踏み外しかけた時。本来なら、そのたびに立ち止まり、自分の過ちを見るべきだった。
けれど彼女は見なかった。どうすれば私に選ばれるのか。どうすれば報われるのか。その答えだけを探し続けた。
そして今、彼女は見つけてしまったのだ。間違った答えを。
『私は、あなたを愛しています』
それは私の言葉ではない。
ディアス・ウィーヴァーが、ネレイスへ向けた言葉だった。
だがフェスティナ嬢は、それを私からの言葉だと信じた。
私に選ばれたのだと。自分はようやく報われたのだと。
その瞬間、彼女の中で選び直しは終わった。
芥子の指輪は、彼女が正しい答えに辿り着いたものとして、時を戻すことをやめた。
遠くで、ディアス・ウィーヴァーが恍惚と微笑んでいるのが見えた。
彼もまた、ネレイスが自分の言葉を受け取ったのだと信じている顔だった。
フェスティナ嬢は、私に選ばれたと信じた。
ディアスは、ネレイスに愛を受け取られたと信じた。
二人とも、誤った幸福を正しい答えだと思い込んでいる。
その誤認を、糸杉の針が拾った。私へ向けられたフェスティナ嬢の言葉。ネレイスへ向けられたディアスの言葉。
本来なら交わるはずのない二つの言葉が、記録布へ縫い合わされていく。
芥子の指輪は、もう戻らない。糸杉の針が、二人の誤認を記録として縫い留めてしまうからだ。
間違った答えが、答えとして固定される。誤った幸福のまま、時間は先へ進んだ。
会場奥の記録布が、大きく波打った。銀の糸が走る。そこに、言葉が交互に縫い留められていった。
『ディアス・ウィーヴァー:
私は、ずっと探していたのです。私の心を満たしてくれる、真実の愛を』
『フェスティナ・サジタス:
私も、ずっとお待ちしておりました。あの日、私を認めてくださった、あなた様を』
『ディアス・ウィーヴァー:
真実の愛に、時間は関係ありません』
『フェスティナ・サジタス:
時間を戻せるなら、いつか必ず正しい答えへ辿り着けるはずです』
『ディアス・ウィーヴァー:
どうか、私の言葉を受け取ってください』
『フェスティナ・サジタス:
あなた様のお言葉を、私はずっと大切にしてまいりました』
記録布は、まだ止まらなかった。最後に、ひときわ濃い銀の糸が走る。
『ディアス・ウィーヴァー:
私は、あなたを愛しています』
それは、ディアスがネレイスへ向けて言った言葉だった。だが、記録布はネレイスの名を縫わない。
続いて、フェスティナ嬢の名が浮かび上がった。
『フェスティナ・サジタス:
私も、あなた様に選ばれる日を、ずっと待っておりました』
その言葉は、私へ向けられていた。
どちらも、向けられた相手には拒まれていた。それなのに、記録布の上では、二人は互いに愛を告げ、互いに受け取ったことになっている。
これほど残酷で、これほど正確な記録はなかった。誰の思惑も、言い訳も、記録布には関係ない。残ったのは、発した言葉と、縫い留められた名だけだった。
ディアスは、記録布を見上げたまま固まっていた。
フェスティナ嬢も同じだった。
二人とも、自分が望んだ相手の名がそこにないことを理解したのだろう。
そして、これはただの噂ではない。記録だ。しかも、学院創立祭の記録布に縫い留められた。最悪の形だった。
その後の二人の言い争いは、聞くに堪えないものだった。互いを嫌悪し、互いを侮辱し、互いに選ばれたことを人生の汚点のように吐き捨てる。
先ほどまで、真実の愛と選ばれる日を信じていた二人とは思えなかった。だが、それもまた本音なのだろう。
彼らが愛していたのは、目の前の相手ではない。自分を満たしてくれるはずの誰か。自分を正しいものにしてくれるはずの誰か。その幻だった。
教師方が動き、学院付きの魔導士が呼ばれた。
糸杉の針と記録布が隔離される。芥子の指輪も、魔導士の手で同じく封じ箱へ収められた。私は、その箱が運び出されるのを見送った。
そして、冷静になってからぞっとした。もし、持ち主が逆だったなら。
芥子の指輪がディアス・ウィーヴァーの手に渡っていたなら、彼はネレイスに届く言葉を、何度でも選び直しただろう。彼は、女性の心の機微を読むことに長けている。拒絶の前に揺れた睫毛も、怒りの奥にある戸惑いも、沈黙が半拍遅れた瞬間も見逃さない。
しかも、ネレイスを何度でも見られるのだ。あの美しさを前にして、普通の男なら一度で心を奪われてもおかしくない。何度も繰り返し見られるなど、許されてよいはずがない。
糸杉の針がフェスティナ・サジタスの手に渡っていたなら、それもまた危うかった。あれは、言葉を残す魔道具だ。頭の回る者ほど、どの言葉を拾い、どの順に縫い留めれば意味が変わるかを理解してしまう。フェスティナ嬢なら、私が幼い日にかけた称賛を、長く待ち続けた愛の証として縫い留めただろう。
そうなっていたら、きっと私たちは引き裂かれていた。少なくとも、今夜よりずっと深く傷ついていた。
今回、二つの魔道具は互いに干渉し、互いの欲を、最も望まない相手へ縫い合わせた。だから助かった。助かったと言ってよいのかは、分からないが。
私はネレイスを探した。彼女は会場の外へ出ようとしていた。今度は、私を止めるものは誰もいなかった。
私はすぐに彼女のもとへ向かった。
「ネレイス」
彼女が振り向く。夜風が、彼女の髪をわずかに揺らした。
「送る」
「殿下」
「今夜くらいは、送らせてほしい」
彼女は少し迷っていた。当然だ。
それでも、ネレイスは私の手を取った。
馬車の中は、静かだった。向かい合うには近く、並ぶにはまだ遠い距離。
そんな距離で、私たちはしばらく何も言わなかった。
「ネレイス」
「はい」
「今夜、君のもとへ行くのが遅くなった」
「はい」
「だが、私は行きたかった」
彼女の睫毛が揺れた。その表情を見て、私は息を止めそうになった。
ディアスの美しい言葉には、彼女は少しも揺れなかった。
だが、私の不器用な一言には、こんな顔をする。それが嬉しくて、苦しかった。
「ネレイス」
私は、もう一度彼女の名を呼んだ。
彼女が顔を上げる。
夜会の灯りから離れた馬車の中で、彼女の瞳が静かにこちらを見ていた。
王太子として言うべき言葉は、いくらでもある。
君を守る。王家に都合よく扱わせない。婚約者として大切にする。どれも嘘ではない。
だが、今必要なのは、そういう言葉ではないのだと思った。もっと単純なことだった。
王太子としてではない。
婚約者としてでもない。
彼女を王家に留めるためでもない。
ただ、私自身の言葉として。
「私は、君が好きだ」
馬車の車輪の音が、やけに遠く聞こえた。
ネレイスは、何も言わなかった。
けれど、目をそらさなかった。
それだけで、今は十分だった。




