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善であること、その不完全さ

作者: 白凪しおり
掲載日:2026/03/29


みんな同じように通勤するために、雑踏の中を歩いている。

私はこの時間がたまらなく落ち着く。


誰とも目を合わせる必要がなくて、

誰とも言葉を交わさなくていい。


ただ流れに乗っていれば、

それで一日が始まる。


周りから見れば、私も彼らの中の一員なのだ。


---


昼過ぎのオフィスは、いつもより騒がしかった。


コピー機の音が途切れない。

紙を引き抜く音、ホチキスの音。

電話の呼び出しが、重なるように鳴る。


誰かが小走りで通り過ぎる。


「すみません、それ至急でお願いします!」


「今確認してます、少し待ってください!」


声が、いつもより少しだけ高い。


(……)


原因は、すぐにわかった。


一件の入力ミス。


小さなズレが、連鎖していた。


その中心で——


「ごめんなさい……」


同僚が、俯いていた。


肩が小さく震えている。


涙が、ぽたりとデスクに落ちる。


「大丈夫だよ、今直せば間に合うから」


「誰にでもあるし、気にしないで」


周りが口々に声をかける。


手は動かしたまま、でも言葉だけは優しい。


(……)


なごみは、その様子を少し離れたところから見ていた。


(ミスの原因は明確)


(確認工程の省略)


(再発防止には——)


思考が、自然と整理されていく。


足が、一歩だけ前に出る。


「……今回のミスって」


声に、何人かが振り向く。


「確認を飛ばしたことが原因ですよね」


一瞬、音が遠のいた気がした。


「今泣いても、状況は変わらないと思います」


淡々と、言葉を続ける。


「まずは原因を整理して、同じことを繰り返さない方が——」


その時、


ぱちん、と小さな音がした。


誰かのデスクの奥。

電球がひとつ、静かに消えた。


わずかに、影が落ちる。


「……」


誰も何も言わない。


さっきまでの慌ただしさだけが、戻ってくる。


コピー機の音。

電話の音。

キーボードを叩く音。


けれど、


空気だけが、少し変わっていた。


視線が、わずかに逸れる。


泣いていた同僚は、何も言わない。


ただ、涙を拭く手が止まっていた。


(……?)


和は、少しだけ考える。


(間違ったことは言っていない)


(改善には必要な指摘だ)


それでも——


さっきまでと、何かが違う。


その理由は、わからなかった。


---


午後には、修正は一通り終わっていた。


さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、オフィスは静かになっている。


キーボードの音も、まばらだ。


(……)


和は席を立って、トイレに向かった。


用を済ませて、手を洗う。


水の音だけが、規則的に響く。


その時、ドアの向こうで声がした。


「いやー、さっきのやつさ」


誰かが笑う気配。


「ほんっと合理的だよねー」


「わかる。マジかと思ったわ」


「それ今言う?って感じ」


小さく、くすくすと笑う音。


「和むどころか、空気凍ったわ」


「なんつってー」


軽い笑い声が重なる。


(……)


手を拭く動作が、止まる。


言葉の意味は、わかる。


自分のことだということも、理解できる。


(……合理的)


(空気が凍った)


事実として、整理されていく。


(間違ったことは言っていない)


(改善のためには必要な——)


そこまで考えて、


ふと、止まる。


さっきの光景が、頭に浮かぶ。


泣いていた同僚。


逸らされた視線。


言葉のあとに落ちた、あの沈黙。


(……)


胸の奥に、うまく言葉にできない何かが残る。


痛みではない。


違和感。


それが、うまく処理できない。


ドアの向こうで、足音が遠ざかる。


静かになる。


それでも、しばらく——


和は、その場から動けなかった。


---


夜、家。


少し日常に戻った空気。


テレビの音とか、生活音がある中で。



「で?なんかあった?」


唐突に、まことが言う。


「別に」


和はいつも通り返す。


「いや絶対あっただろ」


軽く笑いながら、ソファに寝転がる。


「顔に出てる」


(……)


少しだけ、間が空く。


「……職場で」


ぽつりと、言葉が落ちる。


「ミスした人がいて」


そこから、断片的に説明する。


事実だけを。


自分が言ったことも。


「ふーん」


真は、特に驚いた様子もなく聞く。


「で、なんか言われた?」


「……別に」


一拍置いてから、


「合理的だって」


その言葉に、真が小さく笑う。


「あー……」


納得したような声。


「ねぇちゃん、それさ」


少しだけ体を起こして、


「正しいけど、順番ミスってるやつだわ」


(……順番)


「俺さ、この前バイトでさ」


自分の話をし始める。


「新人の子がミスって、めっちゃ焦ってたんだよ」


「で、俺も最初言ったの。『そこミスるか普通』って」


軽く肩をすくめる。


「でもさ、その時言われたんだよな、先輩に」


少し間を置く。


「“今それ言っても、何も助からないよ”って」


(……)


和は、黙って聞いている。


「その子、別に分かってないわけじゃなかったんだよ」


「ただ、怖くて、いっぱいいっぱいで」


「だから先に言うのは、“大丈夫”とか“手伝うよ”で」


「落ち着いてから、やっと話聞けるっていうか」


言葉を選びながら続ける。


「順番なんだよな、たぶん」


(……順番)


その言葉が、頭の中に残る。


「ねぇちゃんの言ってること、間違ってないと思うよ」


軽く付け足すように言う。


「たださ」


少しだけ笑って、


「人間って、めんどくさいから」


「正しいだけじゃ、受け取れない時あるんだよ」


和は沈黙して考え込んでいる。


「ま、いっか」


真がパンッと手を叩く。


「そんなことより」


テーブルの上で、小さな音が弾けた。


じゅわ、と。


たこ焼きプレートの穴の中で、生地がふくらんでいく。


くるり、と竹串でひっくり返す。


表面がこんがりと色づいて、丸く形を整えていく。


「いい感じじゃね?」


油の弾ける音と、香ばしい匂いが広がる。


ソースの甘い香りと混ざって、部屋の空気がやわらかくなる。


換気扇の音の下で、じゅうじゅうと小さく鳴り続ける音。


オレンジ色の照明が、その湯気をぼんやりと照らしていた。


(……)


さっきまで頭の中にあったものが、少し遠くなる。


「ほら、できたぞ」


真が皿にたこ焼きを乗せていく。


まだ少し不揃いな形。


ところどころ焦げ目がついている。


「さぁ!」


勢いよく皿を差し出す。


「俺特製たこ焼き、たらふく食うといいー!」


「……」


半ば押し付けるように渡される。


受け取る。


指先に、じんわりと熱が伝わる。


「熱いから気をつけろよ」


そう言いながら、自分はもうひとつ口に放り込んでいる。


「っ、あつ……!」


「……」


思わず、少しだけ口元が緩む。


湯気が立ち上る。


その向こうで、真がはふはふと息を吐いている。


(……)


ひとつ、箸で持ち上げる。


まだ熱い。


少しだけ息を吹きかけてから、口に入れる。


外は少しだけ固くて、中はやわらかい。


熱が、じんわりと広がる。


味の感想は、うまく言葉にならない。


けれど——


さっきまでとは違う感覚が、確かにあった。


---


翌日。

午後のオフィスは、少しだけ静かだった。


昼の慌ただしさが落ち着いて、

キーボードの音も、電話の着信も、どこか間延びしている。


それでも——


「……すみません」


小さな声が、空気に落ちた。


和は、反射的に顔を上げる。


隣のデスクの後輩が、資料を握ったまま立ち尽くしていた。


その手は、わずかに震えている。


「データ……消えちゃって……バックアップも、取れてなくて……」


言葉が途切れる。


今にも、崩れそうな声だった。


(……)


和は、立ち上がりかける。


言うべきことは、すぐに浮かぶ。


原因の確認。

復旧の手順。

次に同じことを起こさないための対策。


全部、分かっている。


(まずは状況を整理して——)


口を開こうとした、その時。


——ほんっと合理的だよねー

——マジかと思ったわ

——それ今言うー?

——和むどころか空気凍ったわ


頭の奥で、声が蘇る。


廊下から聞こえた、あの笑い声。


(……)


喉の奥で、言葉が止まる。


正しいことを言えばいい。


それが、この場の最善だ。


そう、分かっているのに。


(……でも)


目の前の後輩は、もう限界に近い。


今、必要なのは——


(……)


わからない。


何を言えばいいのか。


いや、分かっているはずなのに。


“どれを選べばいいのか”が、分からない。


胸の奥が、わずかにざわつく。


手を、少しだけ伸ばす。


触れられる距離。


それでも——


その手は、途中で止まった。


「……」


何も言えないまま、身体はその場で固まった。


ほんの数秒。


けれど、その沈黙はやけに長く感じた。


その時だった。


「大丈夫、大丈夫」


柔らかい声が、横から差し込む。


別の先輩が、後輩の隣に立っていた。


「一回深呼吸しよ?ね」


ゆっくりとした調子で言う。


後輩は、小さく頷いた。


「データね、完全に消えてるか一緒に確認しよっか。意外と残ってることもあるから」


「……はい」


「大丈夫。なんとかなるよ」


その声は、根拠があるのかないのか分からない。


でも——


確かに、後輩の震えは少しだけ収まっていた。


(……)


和は、その様子を見ていた。


何もできなかった自分と、

自然に手を差し伸べた人。


その違いを、はっきりと見せつけられる。


(……今の)


どっちが、正しかったんだろう。


答えは、出ない。


ただ——


胸の内側に、消えないざらつきが残った。


---


それでも、日常は何事もなかったように続いていた。


誰かが小さく顔をしかめた。


「ちょっと、頭痛くて」


その言葉に、和は一瞬だけ考える。


(薬は飲んだのか)

(原因は何か)

(業務への影響は——)


そこまで思考が進んで、


ふと、止まる。


ほんのわずかな間。


そして、


「……大丈夫?」


口に出したあとで、自分で少しだけ違和感を覚える。


それでも。


その言葉に、相手はわずかに笑った。


「うん、ありがとう」


(……)


その返答の意味を、完全には理解できなかった。


けれど——


少しだけ、何かが違っていた。


そのやり取りのあと、


和はいつものように外へ出る。


特別なことは、何もない。


いつも通りの帰り道。


ふと、風が吹く。


どこからか、甘い香りがした。


見上げると、街路樹の隙間に小さな橙色が混ざっている。


(……)


立ち止まるほどでもない。


けれど、少しだけ意識に残る。


それだけだった。



最後までお読みくださり、ありがとうございました。


正しさーー

それは誰が決めることなのでしょうか?

大多数が賛同すればそれは本当に正しいことなのだろうか……

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