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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第八話:様式と泥

 その男、朴斗山パク・ドゥサンは、すでに砂の上で「完成」していた。

 ハンの入場よりも早く、彼は闘技場の中心に立っていた。それは偶然ではない。先に場に立ち、その土地の空気と重力を支配する。東の国の古き兵法に則った、確かな示威行動だった。

 ハンは通路の濃い影の中から、砂上のドゥサンを演算した。

 長身。百八十センチを超える痩身だが、肩の厚みが異様だ。特筆すべきはその立ち方だった。両足を肩幅に開き、重心を寸分違わず中央に置いている。どの方向へも、瞬時に同じ初速で動ける理想的な構え。

 その腰に差した「蕨手刀わらびてとう」は、まだ鞘の内にあった。

 (――抜かない。俺が間合いに入るまで、その爪を隠し続ける気か)

 それはドゥサンがハンへ送った、最初の痛烈なメッセージだった。

 観客席は今日も熱狂の渦にあるはずだったが、奇妙な静寂が場を支配していた。見物人たちは、砂の上に立つドゥサンの姿に、娯楽としての興奮ではなく、根源的な「畏怖」を感じ取っていたのだ。

 ハンが砂を踏んだ。

 照りつける陽光が目に痛い。十メートルの距離で、二人の視線がぶつかった。

 東の顔だ、とハンは直感した。自分と同じ系統の骨格、切れ上がった目尻。七年間、国境の記録係として綴り続けてきた台帳の中に、この系統の顔は確かに存在した。

 ドゥサンがゆっくりと、古風な東の言葉で語りかけてきた。

 「久しぶりに……同郷のかおを見た」

 ハンは答えず、ただ手の中の鎖を締め直した。

 「名前を聞こう。貴公は何を記録してきた男だ」

 「シム・ハン。……北の国境だ」

 「俺は中央の出だ。朴斗山という。……遠いな、故郷は」

 「遠い。もはや道も残っていないほどに」

 短い沈黙。風が砂を巻き上げる。ドゥサンが蕨手刀の柄に手をかけた。

 「始めようか。様式かたと泥、どちらが生き残るべきか」


 刀が鞘を離れた。

 それは金属音ですらなかった。乾いた木材が摩擦し、大気が裂ける微かな震え。それだけで、観客の喧騒が完全に消失した。

 朝の光を吸い込んだ刀身は、透き通るように白かった。

 (――美しい)

 ハンは反射的にそう記録した。それは感情ではなく、機能美に対する正当な評価だった。美しさは人の目を引き、一瞬の思考停止を招く。それ自体が、この男の武器の付加価値なのだ。

 対するハンの鎖斧は、見るも無残に醜悪だった。

 鉄板を砕いた刃、拾い集めたチェーンメイルの継ぎ接ぎ、血と砂に汚れ、錆びた「生存の道具」。

 美しい様式と、醜い泥。二つの生が、砂の上で衝突した。

 ドゥサンが動いた。

 予測より、半歩速い。

 踏み込みと斬撃が、一つの流麗な円運動の中に溶け込んでいる。足が動いた瞬間には、刃がすでに最短距離の軌道に乗っていた。

 ハンは後退した。頬の横を、冷ややかな刃の風が通り抜ける。

 (当たらない――いや、当てなかったのか)

 最初の一撃は、射程と反応速度の確認だ。ドゥサンは、ハンがどこまで「型の外」に動けるかを測っている。ハンもまた、同じ演算を返した。この男は強い。それも、頭脳が冷徹に機能している強さだ。

 ハンが鎖を振った。

 ドゥサンは半歩だけ身を引いた。鎖の射程を、初見で完璧に計算したのだ。鎖の先端が届かない、まさにミリ単位の安全圏。誤差がない。

 二合目。

 ドゥサンの踏み込みは、今度は殺意を伴っていた。速度が一段跳ね上がる。刃がハンの左肩を斜めに狙った。

 ハンは咄嗟に鎖を手首に巻き、盾として機能させた。

 火花が散る。金属同士が削り合う不快な音が響く。

 鎖の環が一つ歪み、同時にドゥサンの白い刃にも、微かな欠けが生じた。

 互いに距離を取り、損耗を瞬時に計算する。対等。まだ、演算の均衡は崩れていない。


 三合目。ドゥサンの動きが「かた」へと移行した。

 それは東の国が数百年かけて磨き上げた、様式美の極致。踏み込み、断ち、引き、次の動作へ繋げる。呼吸の合間にさえ隙がない。

 ハンは後退し続けた。攻勢に出る隙がない。踏み込みに合わせて鎖を投げれば、流れるような「引き」の動作でいなされる。

 (完成されている。……正面からの突破は、生存確率を著しく低下させる)

 ハンは、あえて砂に足を取られた。

 意図的な失策。右膝を砂につき、視界を低く保つ。

 ドゥサンがその隙を逃さず踏み込んだ。砂煙の中に刃が閃く。

 だが、その刃が捉えたのは、ハンの実体ではなく、彼が脱ぎ捨てた上着だった。

 ハンは左に二メートル転がり、顔中に砂を浴びながら鎖を振った。狙うのはドゥサンの右足首だ。

 ドゥサンが跳んだ。鎖をかわし、軽やかに着地する。

 だが、その着地の瞬間。ハンの目が冷たく光った。

 (そこだ)

 ドゥサンの「型」は、地面を踏みしめる力から生まれる。跳躍した瞬間、彼は型の基盤を失う。空中では、様式は機能しない。

 ハンは立ち上がらず、低く屈んだ姿勢から突進した。

 ドゥサンの予測の外――型の外からの、獣のような突撃。

 五メートルの距離で、ハンは鎖を力任せに地面へ叩きつけた。爆ぜる砂。

 目潰しの砂煙の中、ドゥサンが再び跳躍を余儀なくされる。

 その真下。ハンは屈んだまま、鎖斧の「柄」をドゥサンの無防備な腹部へ突き立てた。

 重い打撃。空中では踏ん張りが利かない。

 ドゥサンが着地した際、初めてその美しい姿勢が大きく乱れた。


 二人は再び距離を取った。

 ドゥサンが腹を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。一方、ハンの鎖はすでに二箇所が歪み、次の衝撃で破断する恐れがあった。

 「面白い戦い方だ……」

 ドゥサンが東の言葉で漏らした。

 「どこで学んだ。その、泥にまみれた兵法を」

 「学んでいない。……ただ、砂の上で、死ぬたびに書き換えてきただけだ」

 「記録係が、なぜそれほどまで足掻く」

 「故郷が燃えたからだ。記録すべき『帰る場所』がなくなったからだ」

 沈黙。風が砂を舐める音だけが響く。

 「……そうか。ならば、続けよう」

 四合目。ドゥサンは自ら「型」を捨てた。

 正確には、型の中に型ではない不規則な動きを混ぜ始めた。流れるような踏み込みの途中で急停止し、逆方向に踏み込む。

 ハンの予測が、二度外れた。

 一度目、ドゥサンの刃がハンの左腕を裂いた。

 二度目、体勢を崩したハンの背中に、ドゥサンの肘打ちがめり込む。

 砂の上に転がり、それでもハンは立った。左腕から滴る血が砂を黒く染める。

 ハンは、手にした鎖斧の連結を解いた。

 斧の柄から鎖を外し、それぞれを別々の武器として両手に持つ。

 「鎖を捨てるのか」

 「捨てない。……ただ、間合いの計算式を変えるだけだ」

 ハンの突進。今度は鎖の射程を無視し、ドゥサンの「懐」へと飛び込んだ。

 ドゥサンが柄で応戦し、ハンの顎を打ち抜く。視界が揺れ、火花が散る。

 構わず、ハンは斧の刃をドゥサンの右肩に叩きつけた。

 肉を断つ感触。二人が離れた時、ドゥサンの右肩からは鮮血が噴き出していた。


 最後の一合は、もはや武芸ですらなかった。

 血を流し、息を切らし、互いの命を削り合う泥仕合。

 ドゥサンの右肩はすでに上がらなくなり、ハンの鎖はついに千切れた。

 ハンは千切れた鎖を拳に巻き、肉薄する。ドゥサンの刃がハンの脇腹をかすめ、同時にハンの斧がドゥサンの喉元で止まった。

 勝負は、決した。

 ドゥサンは刀を手放さなかった。砂についた右手で、折れんばかりに刀を握りしめている。

 「……殺さないのか」

 「必要がない。……お前は、また来るか」

 ドゥサンは少し考え、ゆっくりと首を横に振った。

 「……来ない。負けたからだ。様式は、敗北を受け入れる潔さを持たねばならない」

 ドゥサンが立ち上がろうとするが、右半身が動かない。

 ハンは黙って手を差し出した。

 泥と血と錆に汚れ、記録係の筆ではなく人を殺める武器を握り続けて硬くなった、ハンの手。

 ドゥサンはその手を掴み、立ち上がった。

 

 「シム・ハン。一つだけ、記憶に留めておけ」

 ドゥサンが、鞘に収めた蕨手刀を肩に担ぎ直した。

 「お前はもう、東の人間ではない。……東の国は、もうどこにも存在しない。俺は死んだ国の型を守ることでしか生きられなかったが、お前は型を持たないことで、今を生きようとしている」

 「それは……侮辱か」

 「違う。……お前の方が、俺よりずっと『重い』と言っているんだ」

 ドゥサンは振り返らずに去っていった。その背中には、美しき様式の残照があった。

 ハンは手の中の、ボロボロになった鎖斧を見た。

 捨てなかった。

 これが、今の自分の体の一部だからだ。

 房に戻ると、ライラ、セナ、そしてマルクスが待っていた。

 誰も何も言わなかった。ハンが生き残ったという事実だけで、それ以上の言葉は不要だった。

 左腕の傷に布を巻きながら、ハンは天井の染みを見上げた。

 いつも動いて見えた横顔の染みが、今夜は静止していた。

 「どうだった」

 セナの問いに、ハンは少しの間を置いて答えた。

 「強かった。……だが、俺たちの方が『重かった』。それだけだ」

 

 ハンは傍らに置いた鎖に触れた。

 冷たく、重い。

 だがその冷たさは、今夜のハンの演算を、どこか温かく支えているような気がした。

 記録すべき新しい一行を脳内の台帳に書き加え、ハンは深い眠りへと落ちていった。

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