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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第七話:毒杯の海戦


 その夜、第七房には不自然なほどの「報酬」が届けられた。

 「ガイウス様からの差し入れだ。明日の大興行、期待しているぞ」

 伝令の男が置いたのは、帝国の高官が好む最高級のぶどう酒と、よく焼かれた羊の肉だった。五日前のライオン戦、そしてマルクスの帰順。それらがもたらした興行収益は、ガイウスの懐を潤すに十分なものだったのだ。

 「……毒は入っていないわね」

 ライラが慎重に匂いを嗅ぎ、一口含んだ。芳醇な香りが房に広がる。

 「アルコール分が高い。……身体を温めるには最適だ」

 ハンも、差し出された杯を飲み干した。演算を続ける脳には糖分と水分が必要だった。マルクスも「騎士の礼儀だ」と笑い、吊った右腕を庇いながら喉を鳴らした。

 

 異変に気づいたのは、夜半を過ぎた頃だった。

 (――心拍数、通常より十五パーセントの低下。末端神経の麻痺。視界の端に生じる微かなノイズ)

 ハンは、自分の指先が思うように動かないことを確認した。

 遅効性の毒だ。即死させるためではなく、運動能力を組織的に削ぎ落とすための「調整」がなされている。

 「……はめられたわ」

 ライラが壁に寄りかかり、苦しげに吐き捨てた。彼女の強靭な筋肉が、鉛のように重く垂れ下がっている。セナは青ざめた顔で、激しい吐き気と戦っていた。

 「ガイウスの狙いは……俺たちが無様に負ける姿か」

 マルクスが、震える左手で床を叩いた。

 ハンは、朦朧とする意識の中で、今この瞬間の「毒の浸透速度」を計算し始めた。

 (死には至らない。だが、明朝の戦闘開始時、俺たちの運動出力は平時の六割まで低下する)


 翌朝、三人を待っていたのは、信じがたい光景だった。

 闘技場の砂は消えていた。代わりに、数メートルもの深さに水が張られ、巨大な人工の「海」が出現していたのだ。

 「本日の演目は、歴史に名高い『サラミスの海戦』である!」

 ガイウスの声が、熱狂する観客席に響き渡る。

 「ペルシアの巨大艦隊を、ギリシャの小舟が打ち破った奇跡の再現だ! 網使いシム・ハンとその一団には、ギリシャ側の『敗残兵』を演じてもらう!」

 ハンたちが押し込まれたのは、今にも沈みそうな小さな木造の端舟はしけだった。

 対するは、帝国の軍船を模した三段櫂船トリレーム。舳先には鋭い鉄製の衝角ラムが備え付けられ、甲板には完全武装の兵士が十人以上並んでいる。

 「ふざけるな……この身体で、どうやってあんな化け物と戦えって言うのよ」

 ライラが櫂を握るが、毒の影響で力が入らず、舟は水面を力なく回るだけだ。

 「……敵の移動速度、三ノット。衝突まで、百二十秒」

 ハンは、自らの震える手首に「鎖」を巻き付けた。

 視界が二重にぶれる。平衡感覚が狂い、吐き気が思考を遮断しようとする。

 「マルクス、盾を構えろ。……ライラ、セナ。俺たちは『沈む』」

 「沈む!? 何を言ってるの!」

 「正面から当たれば粉砕される。……俺たちの唯一の勝機は、この水面下デッドゾーンにある」


 「衝撃に備えろ!」

 マルクスの叫びと共に、巨大な三段櫂船がハンの舟に激突した。

 凄まじい衝撃。木材が悲鳴を上げて砕け散り、四人は容赦なく冷たい水の中へと投げ出された。

 観客席からは、絶望的な結末を予感した溜息と、残酷な歓声が上がる。

 

 水の中は、静寂だった。

 毒に侵された身体は、水の抵抗を倍加させて感じさせる。肺の中の空気が、銀色の泡となって消えていく。

 (――水深三メートル。光の屈折率、平常時より増加。身体の反応速度、〇・五秒の遅延)

 ハンは、沈みゆく端舟の破片を掴んだ。

 上空では、軍船の兵士たちが勝ち誇った顔で水面を見下ろしている。彼らにとって、水に落ちた敗残兵はもはや「獲物」ですらない。

 

 だが、ハンは鎖を解いた。

 彼は沈む木片を重石にし、水底を蹴った。狙うのは、敵の軍船の底――推進力を生み出す「かい」の隙間だ。

 「ライラ!」

 水中での合図は伝わらない。しかし、視線だけでライラは動いた。彼女は毒に痺れる脚を無理やり動かし、軍船の船尾に回り込む。

 マルクスが残った左腕でセナを支え、船底の影に身を潜めた。

 

 ハンは、櫂の根元に鎖を絡めた。

 一挺ではない。隣り合う三挺の櫂を、強固に、複雑に結びつける。

 「漕げ! 逃げ惑う奴らを突き殺せ!」

 船上の指揮官が叫ぶ。漕ぎ手たちが一斉に力を込めた瞬間、鎖が限界まで引き絞られた。

 バキ、という鈍い音が水中に響く。

 無理な力が加わった櫂が折れ、連鎖的に隣の櫂が噛み合った。推進システムに「異物」が混入した軍船は、急激に右へと回頭し、バランスを崩した。


 「何が起きた!?」

 混乱する甲板。船体が大きく傾いたその隙を、ハンは見逃さなかった。

 彼は折れた櫂を足がかりに、水面へと飛び出した。

 「……計算通りだ」

 毒によるめまいを、舌を噛む痛みで強引にねじ伏せる。

 ハンの鎖が船縁に引っかかり、彼は一気に甲板へと這い上がった。続いて、ライラが獣のような身軽さで飛び込み、セナを背負ったマルクスが、船体にしがみついた。

 「馬鹿な……水死したはずでは!」

 武装した兵士たちが、濡れ鼠の四人を取り囲む。

 毒の影響で、四人の呼吸は荒く、膝は笑っている。立っているのがやっとの状態だ。

 「マルクス、三枚の盾(壁)を作れ」

 ハンが命じる。

 マルクスは、甲板に転がっていた敵の盾を奪い取り、動かない右腕の代わりに肩でそれを支えた。ライラとセナがその影に隠れ、死角から刃を突き出す。

 

 「死に損ないめが!」

 兵士の一人が槍を突き出す。

 ハンは、毒による「遅延」をあえて利用した。

 ワンテンポ遅れて動く自分の体。それを逆手に取り、敵の突きが通り過ぎる「残像」に合わせるように、鎖を繰り出した。

 鎖の先端に結ばれた鉄の刃が、兵士の足首を絡め取る。

 

 「……崩落開始チェックメイト

 

 一人が倒れれば、狭い船上ではドミノ倒しが始まる。

 マルクスの盾が壁となり、ライラの剣が沈黙の内に喉を裂き、セナの短剣が鎧の隙間を縫う。

 毒で弱った四人の動きは、皮肉にも「最小限のエネルギーで最大効率の殺害」を行う、冷徹な機械のそれと化していた。

5. 黄金の吐瀉物としゃぶつ

 十分後。

 人工の海に浮かぶ軍船の上で、立っているのは四人だけだった。

 「……勝った、のか?」

 ライラが血に濡れた剣を落とし、その場に崩れ落ちた。

 「生きている。……心拍数、百四十。毒の影響は、アドレナリンによって一時的に中和されている」

 ハンの言葉は、もはや誰の耳にも届かなかった。

 

 観客席のガイウス・プリムスは、貴賓席で立ち尽くしていた。

 彼が期待していたのは、毒でふらつく奴隷たちが水に溺れ、大魚の餌食になる喜劇コメディだった。だが、目の前で繰り広げられたのは、死の淵から這い上がった亡霊たちによる、凄惨なまでの「実戦」だった。

 「……あいつらは、一体何なんだ」

 

 ハンは、甲板に溜まった水を掬い、口に含んだ。

 そして、先ほど飲んだ高価なぶどう酒を、すべて砂の混じった水の中へと吐き出した。

 「忠誠の値段が……安すぎる」

 ハンは、遠くで震えるガイウスの姿を、その濁った瞳で正確に射抜いた。

 

 (記録:ルドゥス第六夜。海戦演習、成功。毒による損傷、軽微。……ガイウス・プリムスの殺害コスト、大幅な下方修正を提案)

 

 ハンの手の中で、濡れた鎖が鈍く、しかし牙のように鋭く光っていた。

 もはや、この鎖が狙うのは獣でも、剣闘士でもなかった。

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