第六話「蕨手刀の朝」
興行主ガイウス・プリムスの使いが来たのは、朝食の前だった。
いつもの通訳の男ではなかった。
今回は、プリムス直属の書記官だ。羊皮紙を持ち、羽根ペンを耳に差している。格が違う。格が違う使いが来る時は、普通ではない用件だ。
ハンはそれを、男が扉を開ける前に判断した。
足音が違った。通訳の男は引きずるように歩く。この男は踵から着地する。自信があるか、急いでいるか。羊皮紙を持っているなら、急ぎではない。つまり自信だ。自信のある使いが持ってくる用件は、断れない内容だ。
書記官が羊皮紙を広げた。
「興行主ガイウス・プリムスより、網使いシム・ハンへ。特別演目への出場を命ずる。対戦相手——」
男が読み上げた名前を、ハンは聞いた。
鎖を手に取っていた。
手が、止まった。
一瞬だけ。
「朴斗山」
東の名前だった。
朴は、東の国で三番目に多い姓だ。斗山は、斗と山を組み合わせた名前——北斗七星と、動かぬ山。重厚な意味を持つ命名だ。親が武人であるか、あるいは武人になることを望まれた子に、こういう名前をつける。
ハンは七年間、記録帳に東の名前を書き続けた。
だから読める。意味もわかる。
書記官が続けた。
「対戦相手は、東の国出身の剣士。興行主が特別に招いた、この闘技場最高値の剣闘士だ。試合は七日後。準備するように」
書記官が出ていった。
房の中に、四人が残った。
ライラが言った。
「東の国、というのはお前の故郷か」
「そうだ」
「知り合いか」
「名前に聞き覚えはない」
「だが、手が止まった」
ハンはライラを見た。
「見ていたのか」
「いつも見ている」
ハンは鎖を置いた。
「東の国の近衛軍に、朴家の人間がいた。俺は会ったことがない。だが名前は聞いていた」
「強いのか」とマルクスが言った。
「わからない」
「わからない、か」
「俺が記録係だった頃の話だ。七年前の情報に、今の価値はない」
マルクスが腕を組んだ。
「だが、気になっている」
「気になっているとは、どういう意味だ」
「お前の手が止まった。それがすべてだ」
ハンは答えなかった。
セナが静かに言った。
「会ってみればわかる」
七日間、ハンは準備した。
まず、情報を集めた。
ルドゥスの中で、ドゥサンを見た者を探した。調理場の老人が、三日前に演習場で見たと言った。老人の話を聞いた。
長身。無駄のない動き。演習では相手を三人、型通りに制した。怪我人は出なかった——制し方が精密だったからだ。殺せる場面で、殺さなかった。
「なぜ殺さなかったと思う」とハンは聞いた。
「さあ」と老人は言った。「だが、殺す気がないのではなかった。殺す必要がないと判断した目だった」
ハンは老人の話を頭に記録した。
次に、蕨手刀という武器を考えた。
記録帳で読んだことがある。東の国の刀鍛冶が作る、反りの強い片刃の刀。刃渡りは大剣より短く、湾曲剣より長い。間合いが独特だ。踏み込みと引きを組み合わせた、流れるような斬撃が基本となる。
美しい武器だ、とハンは思った。
そして、自分の手にある鎖斧を見た。
鉄板を削り出した刃。チェーンメイルを解いた鎖。髪紐と布で縛り上げた柄。
醜い武器だ。
それは知っていた。
五日目の夜、セナがハンの隣に座った。
珍しいことだった。セナから距離を詰めてくることは、ほとんどない。
「何か聞きたいことがあるか」とハンが先に言った。
「ある」
「聞け」
「ドゥサンと戦うのが、怖いか」
ハンは少し考えた。
「怖いという感覚が、自分にあるかどうかわからない」
「第四話でライオンと向き合った時、あったと思う」
「あれは——」ハンは言葉を探した。「コストの計算が、追いつかない状態だった」
「それを怖いと言うんじゃないのか」
「そうかもしれない」
セナが膝を抱えた。
「ドゥサンと戦う時、同じ状態になると思う」
「理由は」
「同郷だから、ではないと思う」
「では何だ」
セナがハンを見た。
「あなたが捨てたものを、その人は持っている。それが怖いんだと思う」
ハンは答えなかった。
セナは続けた。
「捨てたつもりで、まだ持っていたとしたら——そう気づかせる人間と戦うのは、武器より怖い」
ハンは鎖を見た。
「お前は、俺が何を捨てたと思っている」
「故郷の作法」とセナは言った。「戦い方だけじゃない。物の見方。礼の取り方。名前の呼び方。そういうものを、全部、生きるために削ぎ落とした。でも」
「でも、何だ」
「削ぎ落としたものは、消えていない。どこかに積み上がっている」
六日目、マルクスが演習場でハンと打ち合った。
マルクスの右腕は、まだ完治していなかった。それでも盾は持てた。
ハンは鎖斧を振った。マルクスが盾で受けた。
五合打ち合って、ハンは止まった。
「何だ」とマルクスが言った。
「お前の盾の持ち方が変わった」
「変えた。お前の動きに合わせて」
「いつ変えた」
「三日前から」
ハンはマルクスを見た。
「自分で考えたのか」
「お前の動きを観察した。内側から来る攻撃に対して、従来の持ち方では角度が足りない。だから変えた」
「型を崩したのか」
「必要だったから」
ハンは少し考えた。
「それでいい」
「そうか」
「型を崩せる人間と、崩せない人間の違いは、そこだ」
マルクスが盾を下ろした。
「ドゥサンは、型を崩せる人間か」
「わからない」
「崩せない人間だったら、お前が勝つ」
「崩せる人間だったら」
「それでもお前が勝つと思う」とマルクスは言った。
「根拠は」
「お前の武器は、最初から型がない。型のない戦いに対応するには、型を持つ人間より、型のない人間の方が速い」
ハンは答えなかった。
マルクスの言葉を、頭の中で検分した。
論理は正しい。
だが、正しい論理が正しい結果を生まない場合がある。
それを、ハンは知っていた。
試合前夜。
ハンは眠れなかった。
眠れない、という状態を自覚したのは、初めてだった。
天井の染みを見た。三つの染み。一番大きいのは人の横顔に見えなくもない。何度も見た染みだ。
今夜、染みが動いて見えた。
気のせいだ、とハンは判断した。
目を閉じた。
瞼の裏に、燃える記録帳が浮かんだ。甘い煙の匂い。青磁の鶴が弾ける音。七年分の文字が、灰になっていく。
次に、石斧が浮かんだ。砂の上に落ちていた石。髪紐で縛った、最初の武器。
次に、ライラの名前が浮かんだ。セナの名前が浮かんだ。マルクスの名前が浮かんだ。
ハンは頭の中で、それを並べた。
記録帳に書くように。
一つ一つ、丁寧に。
そうしていると、やがて目が重くなった。
夜明け前、ライラが起きていた。
ハンが目を開けると、ライラが壁に背を預けて座っていた。湾曲剣を膝に置いていた。
「眠れなかったのか」とハンが言った。
「お前が眠れていなかったから」
「俺のために起きていたのか」
「違う」とライラは言った。「眠れなかっただけだ」
間があった。
「ライラ」
ライラが顔を向けた。
ハンがライラの名前を呼ぶのは、まだ数えるほどしかなかった。
「明日の試合、お前たちは出なくていい」
「なぜ」
「俺一人の問題だ」
ライラが鼻で笑った。
「それを言うために、名前を呼んだのか」
「そうだ」
「馬鹿だな」とライラは言った。「名前を呼ばれたら、行くに決まっている」
ハンは天井を見た。
染みは、もう動いていなかった。
「そうか」
「そうだ」
夜明けの光が、扉の隙間から差し込んできた。
細い光だった。
砂埃の中で、鎖が鈍く光った。
【第六話・了】




