第5話:「忠誠の値段」
その男、マルクス・ガレノスが第七房の前に姿を現したのは、凄惨を極めたライオン戦から五日後のことだった。
男は鉄格子の扉を叩くことも、声をかけることもなかった。
ただ、深い夜の底に沈む通路の片隅で、微動だにせず立っていた。
ハンがその存在に気づいたのは、負傷した身体を癒やすための最低限の運動を終え、房に戻った時だった。揺れる松明の光が、石壁に巨大な人の輪郭を投影している。大柄な体躯、厚い胸板、そして右腕を吊る白い布。そこには、数日前にライラの放った湾曲剣が刻んだ深い裂傷が、今なお癒えぬ痛みと共に残っているはずだった。
ハンは四メートルの距離を保って足を止めた。
(――距離、四メートル。相手は負傷により右腕が使えない。武器の携行はなし。戦闘能力は通常時の四割以下。脅威度は極めて低い)
だが、ハンにとっての脅威とは物理的な力だけではない。
「わからないもの」こそが、最も計算を狂わせる。なぜ敗者が、自分を敗北へ追いやった者の元へ、護衛もつけずに現れたのか。その理由が導き出せない限り、ハンにとってマルクスは不確定な爆弾と同じだった。
「何の用だ」
ハンの乾いた声に、マルクスはゆっくりと顔を上げた。
「……話がある」
「俺に話しかける理由を、俺の台帳から見つけることはできない。お前は敗者であり、俺たちは勝者だ。それ以上の関係性はない」
マルクスはハンの冷淡な視線を真っ向から受け止めた。
「負けたからだ、シム・ハン。その『理由』を説明しに来た。……中に入れてくれ」
第七房の中に、かつての敵を招き入れる。
横たわっていたライラが弾かれたように起き上がり、反射的に枕元の湾曲剣へ手を伸ばした。
「待て、ライラ」
ハンの制止に、彼女は鋭い牙を剥く。
「正気か、ハン! こいつは数日前まであたしたちの首を狙っていた男だぞ!」
「わかっている。だが今の彼に俺たちを殺す力はない。座れ。……不測の事態が起きれば、俺が先に動く」
ライラは不承不承ながらも腰を下ろしたが、その指先は剣の柄から離れることはなかった。一方、セナは最初から壁に背を預け、冷めた目で男の挙動を観察していた。
マルクスは石畳の床に膝を突き、中央の石灯りを囲むように座った。
「俺はガレノス家の三男だ」
男の声は、深い井戸の底から響くように重かった。
「帝国北部に名を馳せた騎士家系だ。百年以上続いた誇り高き血筋だが、祖父の代の失政で没落した。土地を失い、爵位を奪われ、最後に残ったのは重すぎる『家名』だけだ」
ハンは相槌を打たず、ただ記録するように聞いた。
「剣闘士に志願したのは、金のためか」
「最初はそうだった。没落した家を再興する軍資金を得るための、最短にして最悪の道だとな」
「今は、違うのか」
マルクスはわずかに視線を落とし、火を囲む三人の顔を順番に見た。
「お前たちと砂の上で戦ってから、俺の中の何かが死んだ。あるいは、生まれたのかもしれない」
「負けて惚れた、なんて言わないわよね?」
ライラの嘲笑に、マルクスは真顔で首を振った。
「違う。俺は二十五年の人生を、帝国式の厳格な教練に捧げてきた。剣の振り方、盾の角度、歩幅の一致、陣形による防御。それが戦いにおける唯一絶対の『正解』だと信じて疑わなかった」
「それが、間違いだったと言うのか」
セナの問いに、マルクスは苦渋を滲ませた。
「間違いではなかった。……だが、お前たちには通用しなかった。それが事実だ。俺は、その理由を知りたくてここに来た」
ハンは揺れる炎を見つめながら、男の問いを解体した。
「お前が負けたのは、お前に『型』があるからだ」
「型が弱点だと言うのか」
「弱点ではない。それは完成されたシステムだ。だが、完成されているということは『限界』が設定されていることと同じだ。帝国式は、帝国式の敵を殺すために最適化されている。だが、俺は帝国式ではない。俺は型の外側から、お前の計算式にはない数値を叩き込んだ。だからお前の盾は、俺の動きを処理しきれなかった」
マルクスはハンの言葉を一つずつ反芻するように頷いた。この男は、感情よりも先に「理屈」を優先できるタイプの戦士だ。
「それだけではないだろう、シム・ハン。お前は俺の何を『演算』した」
「お前は、盾を信じすぎた。強みに依存することは、同時にその強みが崩れた瞬間に思考が停止することを意味する。盾を軸に戦う習慣が、俺が足首を引いた際の一拍の遅れを生んだ。その一拍の空白を、ライラの剣は逃さなかった」
沈黙が房を支配した。石壁に映る四人の影が、炎の揺らめきに合わせて不気味に伸び縮みする。
「……完全に、正しい」
マルクスは低い声で、自分自身の敗北を肯定した。そして、意を決したようにハンの目を真っ直ぐに見据えた。
「お前の下で、戦わせろ」
「ふざけるな!」
ライラが再び立ち上がり、剥き出しの敵意をぶつけた。
「昨日まで殺し合っていた男を、今日から仲間にしろだと? どこのお伽話よ! 寝首をかかれたらどうするつもり!」
「なれるかどうかを決めるのは、俺ではない」
マルクスはライラを見据えたまま、一歩も引かなかった。
「シム・ハンが決めることだ。俺は自分の命という『資産』を、彼の演算に投資したいと言っているんだ」
ライラとセナの視線が、ハンに集まる。
ハンは、マルクスの吊られた右腕と、そこにある不屈の意志を検分した。
「お前には仲間がいたはずだ。重装歩兵の二人。彼らを捨てるのか」
「一人は死んだ。もう一人は別の房に移され、再起不能だ」
「その男を捨てて、俺たちの元に来ると」
マルクスは不敵な笑みを浮かべた。
「お前は第二回の演習で、仲間を切り捨てたそうだな。……それを聞いた上で、俺はここに来た」
ライラの表情が強張る。だが、ハンは眉一つ動かさなかった。
「聞いた上で、なぜ俺を選ぶ」
「お前は仲間を『見捨てた』のではないからだ。助けに行けば二人とも死ぬ。ならば一人を残して次へ繋ぐ。帝国式の教義にある『死守』という名の無意味な全滅より、お前の冷徹な判断の方が、結果として多くの生存を確保した。俺はその合理性に賭けたい」
房の中が静まり返る。ライラは毒気を抜かれたように、ゆっくりと腰を下ろした。
「条件がある」
ハンが切り出す。
「聞こう」
「一つ、俺の指示には絶対に従え。異論は戦いの前か、あるいは生き残った後にだけ許す。戦いの最中に言葉を発することは許さない。二つ、お前の右腕が完治するまで、決して前には出るな。……盾として、後ろの二人を守る位置に留まれ」
マルクスが、初めて表情を崩した。
それは喜びではなく、重い鎖を解かれた者が漏らすような、微かな安堵だった。
「了解した」
「ハン、本当にいいの?」
ライラの問いに、ハンは事務的な口調で答える。
「この男の重盾の技術は本物だ。本物の盾が一枚増えれば、お前とセナの死亡確率は二十パーセント以上減少する。感情でその数値を捨てるのは、俺の流儀ではない」
「……あなたが死ぬ確率も、下がるわね」
セナが静かに付け加える。ライラはため息をつき、壁の方を向いて横になった。
「好きにしなさい。あたしの剣が入った傷、後で膿まないように手当くらいはしてあげるわよ」
それが、彼女なりの承認の言葉だった。
マルクスが去り際、鉄扉の前で立ち止まった。
「一つだけ聞いていいか。……シム・ハン。お前は最終的に、どこへ向かっている。この地獄の先にある何を求めているんだ」
ハンは即答しなかった。天井の染みを数えるような沈黙の後、言葉を絞り出す。
「……まだ、決めていない」
「自由を、求めているのではないのか」
「自由が何を指すのか、その定義を俺はまだ知らない。知らないものを求めることはできない」
マルクスはハンの顔をじっと見つめ、小さく頷いた。
「俺もだ。帝国を失った俺にも、自由の使い道はわからん。……だが、お前とならその定義を見つけられる気がする」
重い足音が遠ざかり、再び静寂が第七房を包み込んだ。
「ハン」
不意に、セナが声をかけた。
「何だ」
「さっきの答え、嘘でしょ」
ハンはセナを見た。彼女の瞳は、ハンの内奥にある「隠された記録」を覗き込んでいるようだった。
「……どれのことだ」
「『まだ決めていない』という部分。あなたはもう、自分が何を成すべきか、そのための数式を組み始めている。違う?」
ハンは答えなかった。ただ、腰に巻いたあの血塗られた鎖に手をやった。
金属の環を一つずつ指先で辿る。
いつもは氷のように冷たい鎖が、今夜は不思議と、微かな熱を帯びているように感じられた。
(記録:ルドゥス第五夜。生存者十四名。協力者一名追加。敵対生存コストの減少を確認)
脳内の台帳にその一行を書き加えながら、ハンは目を閉じた。
暗闇の中で、鎖の熱だけが、ハンの演算に新しい変数を付け加え続けていた。




