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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第四話「殺し合いの夜」

その非情な命令が下されたのは、粗末な夕食を終え、第七房に湿った夜気が立ち込め始めた頃だった。

 興行主の使いが鉄扉を乱暴に開けた。三十代半ばの男。帝国語と三つの属州語を自在に操る、通訳兼伝令だ。ハンはこの男を以前から静かに観察していた。男の左手薬指には、最近までそこにあったはずの指輪の跡が白く残っている。

 (――指輪を失った。借金か、あるいは博打のカタか。いずれにせよ、この男は今、金に酷く飢えている。金に困窮した人間は、主人の不条理な命令を遂行する速度が異常に速い)

 男は冷淡な声で、羊皮紙を広げた。

 「興行主ガイウス・プリムスの命である。明朝の演目を変更する。網使いシム・ハン、トラキア人ライラ、同セナ。貴公ら三名は、明朝の砂の上で互いに殺し合え。最後の一人が生き残った場合、その者にのみ『自由』を与える」

 「……ふざけるな」

 ライラが跳ねるように立ち上がった。その双眸には、燃えるような怒りが宿っている。

 「興行主の決定だ。逆らえば三名とも、明朝、飢えた猛獣檻に直接放り込む。死ぬか、一人が生き残るか。選べ」

 男は返事も待たずに扉を閉めた。遠ざかる足音が、死のカウントダウンのように響く。

 第七房に、重苦しい沈黙が降りた。

 ライラが吠えるような声を上げ、石壁を殴りつけた。硬い石がライラの拳の皮を削り、赤い血が滲み出す。だが、彼女はその痛みさえ感じていないようだった。一方、セナは寝床に座り込んだまま、膝の上で固く両手を組み、床の一点を見つめていた。

 ハンは、静かに鉄の刃を付けた斧を手に取った。

 三日かけて削り出した鉄の重みを掌で確かめる。石灯りの微かな光を反射し、その刃が鈍く、しかし確実に獲物の命を断つ輝きを放っている。

 「ハン……」

 ライラが低く、震える声で言った。

 「あんたは今、何を考えている。……あたしたちをどう殺せば、一番『コスト』が低いか計算しているのか」

 その声には怒りではなく、深い恐怖と、わずかな諦念が混じっていた。

 ハンは斧を置き、ライラの剥けた拳と、セナの震える指先を交互に見つめた。

 「計算は、既に終わった」

 「……結果は」

 「お前たちを殺して一人で生き残る道は、長期的には『割に合わない』」

 ライラが短く息を吐いた。安堵ではない。あまりにも合理的なその言葉に、力が抜けたのだ。

 「それだけか。……それだけの理由で、あたしたちを殺さないのか」

 セナが顔を上げた。ハンは、二人を真っ直ぐに見据えた。

 「それだけだ。だが、それ以上に強固な理由はこの世に存在しない」


 三人は夜通し、対話を続けた。

 正確には、残された絶望的な選択肢を一つずつ潰していく「消去法」の作業だった。

 選択肢は三つ。

 一、命令に従い、友となった者を殺し合う。

 二、拒否して、無力な状態で猛獣檻に放り込まれる。

 三、不確定要素を抱えたまま、第三の道を切り拓く。

 

 「一はない」とハンが断じた。理由は語らなかったが、ライラとセナはそれを受け入れた。

 問題は二と三の境界線だ。

 「猛獣相手なら、勝機はあるの?」とセナが問う。

 「相手の種類による」とハンは即答した。

 「前回と同じ中型獣なら、三人で連携すれば対処できる。だが興行主が本気で俺たちを処刑するつもりなら、もっと巨大な『何か』を出してくるはずだ」

 「……ライオンか」

 ライラの声が強張る。

 「あるいは複数の獣を同時に。加えて、武器は没収されるだろう。素手で戦うことを前提にしなければならない」

 沈黙が再び房を支配する。素手で大型獣に立ち向かう。それは自殺行為と同義だった。

 「三人で、生き残れる確率は?」

 「計算不能だ。変数が多すぎる。……俺一人なら確実に死ぬ。だが三人なら、一人か二人は生き残れる隙間が生まれるかもしれない」

 「『かもしれない』、か」

 ライラが息だけで笑った。

 「あんたが『わからない』なんて言葉を吐くのを、初めて聞いた気がするわ」

 夜半を過ぎ、月が西へ傾いた頃。ライラが顔を上げ、決然と言った。

 「あたしが囮になる」

 ハンとセナが彼女を見た。

 「獣の注意をあたしが全力で引く。その間に、あんたたちが側面と後方を取れ。あたしが一番頑丈だ。それは『事実』だろう?」

 「セナも動ける」と妹が続いた。

 「あたしはライラほど打たれ強くないけど、砂の上では一番速い。獣の視線を二方向に分散させれば、ハン、あなたが仕留めるチャンスが増える」

 二人の瞳が、ハンを射抜いていた。

 指示を待っているのではない。自分たちの命という最大級の「資産」を、ハンの判断という秤に預ける。その決意の眼差しだった。

 ハンは、胃の奥が熱くなるような奇妙な圧迫感を感じた。

 それは彼がこれまで扱ってきたどんな鉄板や石斧よりも、重く、手に負えない代物だった。


 明け方、あの伝令の男が戻ってきた。

 「決断はしたか。一人が『自由』を手に入れるか、三人が『餌』になるか」

 「猛獣檻を選ぶ」

 ハンの言葉に、男は微かに眉を上げた。

 「……賢明な判断とは言えんな。理由を聞かせてもらえるか」

 「理由はない」

 男は冷淡に肩をすくめ、三人の武器を回収し始めた。ハンの鉄斧、ライラの湾曲剣、セナの短剣二本。

 そして男の手が、ハンの腰に巻かれたチェーンメイルの残骸に伸びた。

 ハンは呼吸を整え、筋肉を弛緩させた。

 男は鎖を乱暴に引き剥がし、それを床に投げ捨てた。

 「金属片は没収だ」

 そう言って、男は鉄扉を閉めて立ち去った。

 ハンは床に落ちた鎖を見つめた。

 男は、チェーンメイルから解き、腕二本分の長さに繋ぎ直していた「鎖」の端っこを見落としたか、あるいは単なるゴミと判断したようだった。

 ハンは静かにしゃがみ込み、その黒ずんだ金属の連なりを拾い上げた。

 (これがあるだけで、生存の演算結果が三パーセント向上する)

 彼はその鎖を目立たないよう、手首に幾重にも巻き付けた。

 闘技場へと続く地下回廊。冷たい石壁に松明の火が揺れる。

 「……怖いか、ハン」

 隣を歩くライラが、不意に尋ねた。

 「『怖い』という概念が指す定義が曖昧だ。ただ、心拍数が通常より十二パーセント上昇している事実は認める」

 「お前は本当に、最後まで数字ばかりだな」

 ライラが鼻で笑う。その後ろで、セナが静かに言った。

 「感情はあるよ。ただ、この人はそれに名前をつけていないだけ」


 檻の扉が開いた瞬間、暴力的なまでの歓声と熱気が三人を迎えた。

 満員の観客席。その最上段、貴賓席には興行主ガイウス・プリムスが鎮座していた。白のトガに紫の縁取りを施した成金趣味の男は、三人が無様に食い殺される瞬間を待ち望んでいる。

 反対側の檻が、三つ、同時に跳ね上がった。

 一つ目、二つ目の檻からは、前回と同じ中型の「影豹」が飛び出してきた。

 そして三つ目の檻から現れたのは、黄金のたてがみを砂埃で汚した、巨大な雄ライオンだった。

 「……話が違うわね」

 ライラが呻くように言った。

 「計算を、直ちに再構築する」

 「間に合うの?」

 「わからない」

 中型獣の一頭が、真っ先にライラに躍りかかった。

 ライラは宣言通り、素手で獣の正面に立った。腰を落とし、両手を広げて咆哮する。獣の牙がライラの肩を掠め、皮膚が裂け、鮮血が舞った。

 「ライラ!」

 セナがもう一頭を誘い出すべく砂の上を駆ける。円を描くような高速移動で獣の視線を翻弄するが、砂の湿気に体力が奪われ、次第にその足取りに乱れが生じ始めた。

 ハンは動いた。

 隠し持っていた鎖を手首から解き、中型獣の後脚へ向けて投じる。金属の環が獲物の関節に絡みつき、全体重をかけて引き寄せた。

 「今だ、ライラ!」

 体勢を崩した獣の側頭部へ、ライラの鋼のような肘打ちが炸裂した。

 一頭、沈む。

 ハンはすぐさま反転し、セナを追い詰めていたもう一頭の首筋に鎖を巻き付けた。

 「シム……!」

 セナの瞳と一瞬だけ交差する。ハンは膝で獣を抑え込み、鎖を限界まで絞り上げた。三十秒。長い、あまりにも長い三十秒の後、獣の鼓動が止まった。

 だが、本番はここからだった。

 二頭の同胞が倒れるのを静観していたライオンが、ついに重い腰を上げた。

 「十メートル。……下がるな」

 ハンの口から、無意識に言葉が漏れた。それは命令でも計算でもなく、ただの「意志」だった。


 その後の数分間の記憶は、ハンの精密な脳を持ってしても断片的だった。

 覚えているのは、焼けるような砂の感触と、獣の荒い呼気。

 ライラの肋骨が剥き出しの爪に削られる音。

 セナが前脚の一撃で三メートル弾き飛ばされ、それでも死に物狂いで立ち上がる姿。

 ハンは鎖でライオンの前脚を縛り、解かれ、また縛り直す作業を四回繰り返した。

 五回目。ライオンの動きが明らかに鈍った。

 (――疲弊だ。物理的限界に達した)

 ハンはライオンの背後に飛び乗り、その太い首に鎖を回し、全体重を乗せて後方へ仰け反らせた。

 「押さえろ!」

 ライラが正面から獣の頭部を抑え込み、セナが自由な方の脚を固定する。

 時間が、永遠のように引き伸ばされた。

 やがて、砂上の王は、肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息をつき、動かなくなった。

 闘技場が、静まり返った。

 誰一人として、素手の三人組が王者の首を獲るなどとは予想していなかったのだ。

 貴賓席のガイウス・プリムスが、ゆっくりと立ち上がった。その目は怒りに燃えているのではなく、冷酷な商人のそれだった。

 (――死ぬはずの消耗品が、これほどまでの価値を証明した。ならば、次の使い道がある)

 砂の上で、三人は肩で息をしながら、ようやく自分たちの生存を認識した。

 「生きているな……」

 ライラが血に汚れた手で、隣に立つハンの肩を叩いた。

 「ああ。生きている」

 セナも、震える足で二人の間に並んだ。

 ハンは、手の中に残った鎖を見つめた。

 ライオンの血と、砂埃と、三人の汗が混じり合い、黒ずんだ不思議な光沢を放っている。

 「ハン。……あんたの名前、ちゃんと刻んでおいたわよ。脳内の台帳にね」

 ライラの冗談めかした言葉に、ハンはわずかな間を置いて答えた。

 「……計算外だ」

 

 ハンはその鎖を、捨てなかった。

 彼が今夜記録したのは、死の数ではなく、三人の鼓動の共鳴だった。

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