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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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3/5

第三話「鹵獲の作法」

試合の前夜、ハンは鉄格子越しに対戦相手のチームを観察した。

 時間は三十分。彼にとっては、敵の弱点を洗い出すのに十分すぎるほどの「演算時間」だった。

 リーダーは大柄な男だ。年齢は二十代半ば。骨格は典型的な帝国人のそれで、肩幅が広く、顎が四角い。その挙動には、訓練だけでは身につかない特有の「よどみのなさ」があった。

 (鍛えられた体ではない。戦い慣れた体だ)

 その違いは、突発的な危機への反応速度に顕著に現れる。遠くで食器が落ちる音がした際、その男は首ではなく腰から動いた。常に重心を先読みして動かす習慣――数多の実戦を潜り抜けてきた熟練兵の癖だ。

 得物は重盾スカトゥム大剣グラディウス。帝国の軍隊格闘術における正統派の構えである。

 「残り二人は補佐か」

 リーダーの死角を埋めるためだけに配置された駒。個別の脅威度は極めて低いが、連携を乱さない限り、リーダーの防御壁として機能するだろう。

 ハンは三十分間の観察データを脳内の台帳に深く刻み込んだ。

 翌朝、隣の房のライラが声を潜めて尋ねてきた。

 「昨夜、何を見ていた」

 「敵を」

 「何がわかった。勝てるのか」

 ハンは表情を変えずに答える。

 「リーダーは強い。だが残り二人は、リーダーという軸を失えば、ただの肉塊に変わる」

 ライラは少しの間、沈黙した。

 「……殺すのか、あの男を」

 「必要なら」

 その時、寝床の端で膝を抱えていた妹のセナが、静かに口を開いた。

 「その『必要』かどうかは、誰が決めるの?」

 「俺が決める」

 ハンの返答は短く、断定的だった。それ以上、誰も喋る者はいなかった。


 試合当日、空はどんよりとした鉛色に曇っていた。

 意外なことに、石造りの観客席には五十人ほどの観衆が入っていた。身なりからして帝国の中流階級――商人や下級官僚の類だろう。彼らは小銭を握りしめ、誰が死ぬかに熱狂的な賭けを興じている。

 (賭けが成立しているということは、どちらかが確実に死ぬと見積もられているわけだ)

 ハンはその「期待」を無機質なデータとして受け流し、砂の上に立った。

 反対側から入場してきた相手チームのリーダーが、ハンを値踏みするように見た。ハンの細い体躯と、腰に差した石斧を一瞥し、鼻で笑うような気配を見せる。おそらく、脅威度の低い順にターゲットを設定したのだろう。典型的な強者の油断だ。

 ハンはライラの方を向かずに、低い声で命じた。

 「最初の三十秒、俺から目を離すな」

 「何をする気?」

 「見ていればわかる」

 開始の合図が響いた。

 相手チームは教科書通りの陣形を組んで前進してくる。リーダーが中央で盾を構え、補佐二人が斜め後方。盾の角度は、正面からの投擲物を弾きつつ、側面からの奇襲に即座に応じるための「黄金比」を保っている。

 ハンは、ピクリとも動かなかった。

 右手に網、左手に石斧。ただ砂の上に立ち尽くすその姿を、補佐の一人が「恐怖による硬直」と誤認した。

 敵の顔に嘲笑が浮かぶ。その足取りが、獲物を仕留めようとわずかに速まった。

 距離、十メートル。その瞬間、ハンが爆発的に動いた。

 走るのではない。右へ二歩、正確なサイドステップを踏んだだけだ。

 補佐の男は慌てて進路を修正しようとしたが、その拍子に重心が外側に流れた。

 ハンは網を放った。

 前回の演習とは強度が違う。昨夜、自らの上着の布と、ライラから譲り受けた革紐の端切れを使い、全ての結び目を三重に補強し直してある。

 網は美しい円を描いて補佐の男を包み込んだ。

 「なっ……!?」

 男の自由が奪われる。ハンは三歩で距離を詰め、石斧の「背」の部分で、男の後頭部を正確に強打した。

 鈍い音がして、男が砂に沈む。死んではいない。脳震盪による一時的な機能停止だ。

 経過時間、十八秒。


 「この……ガキが!」

 補佐が一人無力化された瞬間、リーダーの男の目が変わった。侮りから、冷徹な殺意を孕んだ警戒へ。

 男は大剣を正眼に構え、盾を前に突き出した。

 そこへライラが側面から仕掛ける。湾曲剣が盾の縁を叩き、激しい金属音が周囲を震わせる。だがリーダーは揺るがない。重心を極限まで低くし、盾を軸にしてライラの次の一撃を完璧に読んでいる。

 反対側からセナが二本の短剣を走らせたが、男は盾の角度をわずかに変えるだけでそれを弾いた。一本は虚空を舞い、もう一本は鎧の表面を空しく滑った。

 (重装鎧――ロリカ・セグメンタタ。鉄板を革紐で繋いだ堅牢な構造だ)

 ハンは走りながら、その鎧の幾何学的な構造を透視するように観察した。

 総重量は十五キロを超えるだろう。それを着こなして平然と動ける圧倒的な筋力。正面からの打撃はすべて無効化される。

 だが、どんなに優れた設計にも「隙」は存在する。

 

 ハンは突如、手にした石斧を砂の上に放り捨てた。

 「えっ!?」

 ライラが驚愕に目を見開くが、ハンは構わず地面を滑った。リーダーの死角である盾の逆側、その足元へと滑り込む。

 砂が口に入り、視界を塞ぐが構わない。リーダーの左足首を両手で掴み、全体重を乗せて後方へと引き倒した。

 どれほど強靭な戦士でも、予測しない方向への物理的な牽引には抗えない。

 重心が崩れた。わずか、一秒にも満たない空白。

 それで、ハンの演算結果を完遂するには十分だった。

 「今だ!」

 ライラの湾曲剣が、リーダーの脇の下――鉄板が重なり合わない唯一の隙間を深く貫いた。

 致命傷ではない。だが、剣を握る右腕の神経を麻痺させるには十分な深さだった。

 大剣が砂に落ち、黄金色の鎧を纏ったリーダーが膝をついた。

 観客席が、水を打ったように静まり返った。

 自分たちが賭けた「強者」が無様に敗北した事実を、彼らの脳が処理しきれていないのだ。

 ハンは立ち上がり、膝をつくリーダーの前に立った。

 男が顔を上げる。その瞳には、敗北への屈辱よりも、自分をハメた「計算」への困惑が色濃く浮かんでいた。

 「……殺せ」

 リーダーが短く吐き捨てた。

 ハンは答えず、男の前にしゃがみ込んだ。そして、鎧の留め具、革紐の編み方、首元を守るチェーンメイルの密度を、食い入るように観察し始めた。

 「何をしている。……嘲笑うつもりか」

 「記録しているだけだ。今後のために」

 リーダーは絶句し、口を閉ざした。

 ハンは立ち上がり、外で見守っていた採点者に視線を送った。

 「この男を殺す必要があるか」

 採点者は手元の帳簿を確認し、少し考えてから首を横に振った。

 「今日は不要だ。生きたままの重装歩兵は、また別の興行で使い道がある」

 「ならば殺さない。演算終了だ」

 リーダーがハンの背中を、まるで化け物を見るような目で見つめていた。


 試合後、ハンは一人、夕闇に包まれ始めた砂の上に残った。

 そこには、運ばれていった補佐の男が落としていった肩鎧が転がっていた。

 ハンはそれを拾い上げ、爪で鉄板を軽く叩いた。

 (鋳造ではなく、鍛造だ。叩いて伸ばされた鉄は、砕けば鋭利な『刃』になる)

 「それをどうするつもり?」

 いつの間にか、ライラが隣に立っていた。

 「斧の刃にする。石では、次に今回のような鎧の騎士が出てきた時に貫けない」

 「鉄を砕けるの?」

 「砥石と、時間があれば」

 ライラはハンの手元の鉄板と、腰の石斧を見比べ、ふっと不敵な笑みを浮かべた。

 「砥石なら、あたしたちの房に一つあるわよ。前の住人が隠し持っていたやつ。……貸してあげてもいいわ」

 ハンは初めて、ライラの顔を正面から見据えた。

 「貸してくれ。助かる」

 「ただじゃないわよ」とライラは付け加えた。「あたしたちの武器も、後で研ぎなさい。あんたのその精密な指先でね」

 それは、この地獄における初めての「契約」だった。

 後ろで見ていたセナが、砂の上に落ちていたチェーンメイルの切れ端を拾い、ハンに差し出した。

 「これ……鎖として繋げば、その斧を投げられるようになるんじゃない?」

 ハンはそれを受け取り、重さと密度を確認した。頭の中で、新しい武器の設計図が鮮やかに組み上がる。

 「名前を……聞いていなかったな」

 ハンが呟くと、ライラは可笑しそうに肩を揺らした。

 「今さらね。私はライラ。こっちはセナよ」

 

 ハンは二人の名前を脳内の台帳に書き加えた。

 ライラ。セナ。

 彼の「生存コスト」の中に、初めて冷たい数値以外の「固有名詞」が混じり合った瞬間だった。

 

 その夜、第七房には火花が散った。

 ハンは無言で鉄板を削り、ライラは隣で自分の剣を研ぎ、セナは天井の染みを数えながら静かに横たわっていた。

 「今日、あなたは男を二人、生かした」

 セナが呟く。

 「殺す必要がなかったからだ。……今は、まだ」

 ハンは手を止めなかった。

 鉄を削る規則正しい音が、深い夜の底へ響いていく。

 夜が明ける頃、ハンの石斧の先には、月光を反射する鉄の鋭い輝きが宿っていた。

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