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『鉄鎖の解体者(レティアリウス)』  作者: 水前寺鯉太郎


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第二話「石と髪紐」

演習場の砂は、白くなかった。

 それは不浄な褐色で、粒が粗く、一歩踏み出すたびに足首まで無遠慮に沈み込んだ。表面は陽光に焼かれて乾燥しているように見えるが、底の方は嫌に湿っている。数日前の雨水が表層の熱に蓋をされ、内部に溜まっているのだ。

 (走れば足を取られる。跳べば着地が三センチ狂う)

 ハンは開始の合図が鳴る前に、その物理的特性を身体に叩き込んだ。

 右足の裏で砂を押し、沈み込む深さをミリ単位で測る。体重を完全にかけた時と、三割だけ残した時の差。右足と左足、どちらが深く沈むか。結果、自分の重心が疲労によってわずかに右へ偏っていることを再確認した。

 頭脳では理解していた既知の事実だが、実地での再計測は欠かせない。

 死線の上では、曖昧な知識はノイズに過ぎない。必要なのは、今この瞬間の「数値」だけだ。

 対戦相手は、一頭の獣だった。

 正確には、ヒョウに似た中型の猛獣――帝国が東方の遠征先から連れ帰ったという、名もなき異形の種。全長はハンの身長よりわずかに短いが、四肢のバネの構造が根本から異なる。後脚の筋肉が収縮する予備動作を見る限り、ハンの倍の高さまで垂直跳躍が可能だと推測された。

 支給された武器は、古びた網と、柄の短い三叉戟トリアイナ

 ハンは三叉戟を左手に、網を右手に構えた。

 演習の規則は、この上なく単純だ。――「生き残れ」。それ以外のすべては瑣末な装飾に過ぎない。

 石造りの観客席に、華やかな貴族の姿はない。ただ、粗末な木柵の外に、採点者と思われる二人の男が事務的な顔で立っているだけだ。

 ハンの傍らには、同じ演習に放り込まれた男が二人いた。ここ数日の行軍で顔だけは覚えたが、名前は知らない。知る必要もなかった。

 「カン!」

 鉄の棒で柵を叩く、乾いた音が合図だった。

 獣が動いた。

 (速い)

 脳が認識するより先に、ハンの体は右へ二歩、正確に横移動を開始していた。

 獣の跳躍軌道を目で追い、砂の抵抗を計算に入れて着地点を予測する。着地の一瞬、四肢が湿った砂に深く沈み込む。それが、この獣にとって唯一発生する「物理的な硬直」だ。

 その隙に、網を投じる。

 ハンの計算は、寸分違わず正確だった。

 だが、道具が彼の演算に追いつかなかった。

 投擲の瞬間、網の中央付近の結び目が、悲鳴を上げるように裂けた。

 昨夜、房の中で指先が感知したあの欠陥箇所だ。上着の裾で補強はしたが、支給された時点での麻の劣化がハンの想定を超えていた。網は歪な形に広がり、半分が力なく地面に落ちた。残りの半分だけが獣の前肢に絡みつく。

 中途半端な拘束。それは自由を奪うには至らず、ただ獣の怒りを煽るだけの結果を招いた。

 獣はわずか三秒でその呪縛を脱した。

 逃げ遅れた男の一人が、最初に死んだ。

 獣が狙いを変えた瞬間、その男は恐怖に駆られて後退した。それが致命的だった。

 足裏が砂の底に溜まった湿気に滑り、体勢を崩したのだ。男が転倒し、砂が舞い上がった瞬間に勝負は決した。獣の牙が男の喉笛を正確に捉え、鮮血が褐色の砂を黒く塗りつぶした。

 「あ、あぁ……!」

 もう一人の男が絶叫しながら、闇雲に三叉戟を突き出した。

 刃先が獣の脇腹を浅く裂く。だが、それは致命傷には程遠い。

 獲物を横取りされたと判断したのか、獣は死体から顔を上げ、猛然と生存者へ躍りかかった。牙が男の右腕を深く貫く。男の絶叫が演習場に響き渡った。

 ハンは、走らなかった。

 男を助けに行くことで得られる利益と、そのために自分が死ぬリスク。そのコストを瞬時に天秤にかけた。

 (――〇・三秒)

 答えは明快だった。

 今の破損した網と、リーチの短い三叉戟では、二人まとめて食い殺される確率が八十二パーセントを超える。

 「助けてくれ、シム……!」

 男の目が、助けを求めてハンを射抜いた。

 ハンはその視線を、冷徹なナイフで断ち切るように外した。

 彼が見たのは、男の死ではなく、砂の上に転がっていた一個の「石」だった。

 それは拳より一回り小さく、角が鋭く立っていた。密度が高そうな黒みがかった玄武岩。

 ハンは左手の三叉戟を捨てた。

 「何をしてる! 戦え!」

 柵の外で採点者が叫ぶが、ハンには聞こえない。

 彼は上着の裾を掴むと、犬歯で噛みちぎり、一気に引き裂いた。次に自らの髪を一束、根元から迷いなく引き千切った。

 激痛が走るが、脳はその信号を無視する。長さ、およそ三十センチ。

 彼は髪と布の繊維を合わせ、指先で超高速に縒り合わせた。石の端にある窪みにその紐を押し当て、独自の「門番結び」で固定していく。

 時間にして、二十秒。

 獣が男の腕を食いちぎらんばかりに振り回し、ようやく次の標的へと首を巡らせた。

 ハンは、ゆっくりと立ち上がった。

 右手に握られているのは、一振りの「石斧」だった。

 武器と呼ぶにはあまりに不格好だ。

 重心の均衡バランスも取れていない。鋭い刃があるわけでもない。ただの石が、剥ぎ取られた髪と布で縛り付けられているだけの代物。

 だが、そこには確かな「質量」があった。

 一点に集中した「硬度」があった。

 ハンの計算において、それだけで十分だった。

 獣が、最後の一撃を食らわすべく跳躍した。

 ハンは、その跳躍が頂点に達する瞬間を見極めた。

 (最大速度。方向転換不能)

 物理法則が支配する、獣にとっての不可避の硬直時間。

 ハンは半歩だけ右に踏み込んだ。

 空中で剥き出しになった獣の死角へ、全身のバネを乗せた右腕を振り上げる。

 石斧が、獣の左こめかみを一点で捉えた。

 ――「ゴッ」

 湿った音が響いた。

 生命の象徴である骨が、無機質な石の質量に敗北した音だ。

 獣は空中で力なく折れ、砂の上に無造作に墜落した。

 前肢が二度、三度と虚空を掻くように痙攣し、やがて噴き出した脳漿と共に動きを止めた。

 ハンは無表情に獣を見下ろした。

 頭蓋骨は内側に陥没している。眼球は破裂し、即死であることを示している。

 砂の上では、右腕を噛まれた男が「ヒッ、ヒッ」と短い悲鳴のような呼吸を繰り返していた。出血量は多いが、幸いにして動脈は外れている。手当てをすれば、まだ死なないだろう。

 採点者の一人が、呆然とした様子で柵に近づいてきた。

 「……網使い。名前を言え」

 「シム・ハン」

 男は震える手で、手元の台帳にその名を記した。

 ハンは手元の石斧に目を落とした。自らの髪で編んだ紐が一本、激突の衝撃でほつれかけていた。

 一度は砂に捨てようとしたが、彼は思い直し、その不格好な武器を腰の帯に差し込んだ。

 その夜。

 第七房に戻ったハンを待っていたのは、沈黙だけではなかった。

 房の奥、湿った藁の上に二人の先客がいた。

 褐色の肌を持つ姉妹。姉の方が、暗闇の中でハンを射抜くような視線で見ていた。

 「あんたが、石ころ一つで『影豹エイヒョウ』を仕留めた奴か」

 ハンは答えず、自分の寝床に横たわった。天井の染みを見つめ、今日の演算結果を頭の中で整理する。

 「仲間を見捨てたな」

 姉の声に、非難の色はなかった。それは単なる事実の確認だった。

 「……救出に要するコストが、生存確率を大幅に下回っていた」

 ハンの乾いた声が、石壁に反響した。

 「コスト、か」

 妹の方が、その言葉を噛みしめるように繰り返した。

 それきり、房の中に会話は途絶えた。

 ハンは胸の上に置いた石斧の感触を、指先で確かめた。

 ほつれかけた髪紐は、まだ繋がっている。

 記録:ルドゥス第二夜。生存者十四名。消耗率、一名。

 

 ハンは目を閉じ、暗闇という名の台帳に、今日流れた血の量を書き加えた。

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