第一話「記録は灰になる」
煙の匂いを、今でも正確に思い出せる。
それは木が燃える健やかな匂いではない。紙が燃える匂いだ。
獣脂を薄く塗って保存した記録用紙が燃える時、ねっとりとした甘みのある煙が出る。それが喉の奥に張り付き、肺の壁にこびりついて、何日経っても消えない。
ハンはその匂いの中で七年間働いた。だから今でも、瞼を閉じれば鼻腔の奥にあの夕暮れが蘇る。すべてが灰に帰した、焦げた甘さの記憶として。
国境の門番所は、険しい峠の南側にひっそりと佇んでいた。
一日に通過する人間は、多い日で四十人。少ない日は三人。ハンはその一人ひとりを、逃さず台帳に記録した。名前、出身地、荷の種類と重量。通過した刻限は、日の傾きから推算する。
仕事の大半は「待つこと」だった。
だが、ハンにとって待機は空白ではなかった。彼は観察していた。
牛車が来れば、車輪が立てる軋みの高さで積載量を推定した。高い音は軽い荷、低い音は重い荷。雨上がりの轍の深さを測れば、その精度はさらに上がった。
役人が来れば、その靴底の減り方を見た。右足の外側が極端に減っている者は、巡回ルートに東向きの急な坂がある。左の踵が減っている者は、執務室での座り仕事が長い証拠だ。
それらの観察結果を、公的な記録に書くことはなかった。ただ、自らの頭の中に積み上げていった。使い道のわからない知識であっても、世界を定義する断片を捨てるのは、彼にとって耐え難い損失だったからだ。
帝国の軍靴の音を初めて聞いたのは、そういう、あまりにも平穏な午後だった。
地響きのようなその音を、ハンは即座に分析した。
――十二。いや、十四。
前列と後列で歩調がわずかにずれている。先頭の一人だけ、歩幅が異常に広い。指揮官か、あるいは先を急ぐ極めて練度の高い斥候か。鎧が擦れる金属音は重い。軽装の偵察部隊ではない。本国から派遣された正規の重装歩兵だ。
彼らが門に手をかけた時には、ハンの中で既に答えは出ていた。
「逃げても、五分以内に追いつかれる」
ハンの机の上には、三本の筆があった。
一番細い筆は、人名を書くための専用品。毛先が傷まないよう、使うたびに冷水で洗い、整えた。硯は亡き父から譲り受けたもので、表面には無数の細かい傷が入っていた。墨を擦る力が強すぎても弱すぎても、均一な濃さにはならない。ハンは理想の黒を得るために七年を費やした。
水滴――硯に水を垂らす小さな器は、母の形見だった。青磁でできた、小さな鶴の形をしていた。
帝国兵が窓から松明を投げ込んだのは、挨拶代わりだった。彼らは扉を開ける手間さえ惜しんだのだ。
炎がハンの指先まで届く間際まで、彼は動かなかった。
足が竦んだのではない。逃げ場がないことを計算し尽くしていたからだ。
「パチン」と、乾いた、小さな音がした。
母の形見である鶴の水滴が、熱に耐えかねて弾けた音だった。
その瞬間、ハンの世界から色が消えた。
彼は燃え盛る炎の中に手を突っ込み、既に半分が灰になっている台帳を拾い上げようとした。兵士に引き摺り出されるその瞬間まで、彼は自分の「仕事」の残骸を求めていた。
捕縛の縄は、ハンの右手首と左の首筋を繋ぐ特殊な結び方で固定された。
「合理的だ」
ハンは首筋に食い込む縄の感触を噛み締めながら思った。
抵抗すれば、己の腕の力がそのまま頸動脈を締めることになる。帝国の捕縛術には感情がない。怒りも軽蔑もなく、ただ「逃がさない」という目的のための最小限の構造がある。
ハンは移動の最中、指先だけで縄の結び目をなぞった。
素材は麻の三つ編み。引けば締まり、緩めようとすれば逆方向に締まる。解くには両手が必要だが、両手を使えば確実に窒息する。実に見事な設計だった。
行軍は苛烈を極めた。隊列は東から西へ、休むことなく歩き続けた。
三日目。ハンの体から水分が失われ、舌の裏側が上顎に張り付いた。唾液は粘土のような粘り気を帯び、肺の奥が乾いた紙を揉むような音を立てる。水は朝夕に一度ずつ。量は、渇きを殺すには足りず、死なせるには多すぎる絶妙な分量だった。
五日目。サンダルの底が剥がれ、右足の土踏まずが鋭い石で裂けた。
激痛が走る。だが、ハンはその痛みを「現象」として処理した。
彼は道端の石を拾い、サンダルと足裏の間に挟んで止血の代わりにした。傷口から流れる血が砂を汚す。その赤が、乾いて茶褐色に変色するまでの時間を、太陽の角度で測定した。
――およそ四半刻(約三十分)。湿度が極めて低い。
彼はその数値を、脳内の新しい台帳に刻み込んだ。
九日目、前を歩いていた初老の男が、糸が切れたように倒れた。
帝国兵は表情一つ変えず、男を繋いでいた縄をナイフで断ち切った。男を道脇の泥の中へ蹴り飛ばし、隊列を停滞させることなく進ませる。
数時間後、風に乗って男の死臭が届いた。肉が熱に焼かれるような、甘くて重い匂い。
ハンは肺に入る空気を最小限にした。
(名前を聞かなくてよかった)
記録すべき項目を一つ減らせたことに、彼は奇妙な安堵を覚えた。
辿り着いた剣闘士養成所の門は、想像よりも低く、飾り気がなかった。
権威を示す必要がないのだ。ここに入る者は、二度と外へは出られないのだから。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
古い汗の臭い。錆びた鉄の匂い。そして、傷口に塗る安物の油の臭い。石畳の隙間には、黒ずんだ「何か」が詰まっている。それが泥なのか、何層にも塗り重ねられた返り血なのか、今のハンの視力では判別できなかった。
受付には、肥え太った事務方が座り、巨大な台帳を広げていた。
ペンが紙を走るカリカリという音。ハンが七年間、人生を捧げてきたその音。
だが今、自分は「記録する側」ではなく「記録される側」として、その前に立たされている。
男がハンの体を値踏みするように眺めた。指の長さ、筋肉の付き方、歯の欠け。
「……網使い(レティアリィ)」
男が吐き捨てるように言い、ペンを走らせた。インクが紙に染み込んでいく。
ハンはその滲みを、食い入るように見つめた。逆さまの状態でも、文字の形は読める。長年の習性だった。
男が重々しく台帳を閉じた。
「消耗品だ。せいぜい長くて半年。せいぜい楽しませろ」
支給されたのは三つ。
粗末な麻の上着。湿った藁の寝具。そして、一張りの「網」。
独房に戻ったハンは、すぐさま網を広げた。
両手を伸ばすと大人二人分の幅。結び目は全部で三百七十二か所。素材は麻の縒り糸だが、明らかに手入れが不足している。
ハンの指先が、二か所の致命的な欠陥を見つけ出した。
南東の端から三十センチ、糸の縒りが甘い箇所がある。もう一か所は中央付近。結び目が浅く、強い負荷がかかればそこから崩壊するだろう。
「……修繕が必要だ」
ハンは、自分の上着の裾を躊躇なく裂いた。細く解いた糸を縒り合わせ、独自の結び方で網の欠陥を補強していく。
ふと、ハンの手が止まった。
(自分は今、何を求めている?)
記録帳も失った。家族も、地位も、筆も、すべては灰になった。
だというのに、自分はまだ「明日」のために道具を整えている。
ハンは冷たい石畳の天井を見上げた。そこには三つの大きな染みがあった。一番大きな染みは、苦悶に歪む人の横顔に見えた。
「記録:ルドゥス第七房。天井の染み、三点。最大径、掌二枚分」
声に出さず、彼は脳内の台帳を更新した。
書く紙も道具もない。だが、観察する目は健在だ。計算する頭脳も動いている。
網の欠陥箇所の修繕状況、それだけが今、この絶望の中で唯一確かな「事実」だった。
翌朝、ルドゥスの朝は光ではなく、鼓膜を抉るような鐘の音で始まった。
「起きろ、屑ども! 飯だ!」
支給されたのは、水に溶いた泥のような麦粥。ハンはそれを「食事」とは思わなかった。
「記録:エネルギー摂取。明日の筋力を維持する最低限の熱量を確認」
彼は味覚を遮断し、ただの燃料としてそれを胃に流し込んだ。
食後、すぐに声がかかった。
「網使い、出るぞ。お前の番だ」
ハンは立ち上がった。補強した網を肩にかける。
廊下を歩き、突き当たりの重い鉄扉の前に立つ。
扉が開いた瞬間、暴力的なまでの陽光がハンの視界を真っ白に染め上げた。
「ウォォォォォォ!」
「殺せ! 殺せ!」
何万という観客の怒号が、物理的な圧力となってハンの全身を叩く。
ハンは目を細めた。網膜が光に順応するまでの時間を、自分の心拍数でカウントする。
――五、六、七……。
視界がクリアになった瞬間、対面のゲートが開いた。
そこから現れたのは、飢えと狂気に支配された、巨大な人食いライオンだった。
ライオンの唸り声が、アリーナの砂を微かに震わせる。
ハンは重心を低くし、網の端を強く握りしめた。
「記録:対象、食肉目ネコ科。推定体重、二百十キロ。空腹度、極大。右前脚の踏み込みがわずかに浅い。古傷があるか」
周囲のノイズが消えていく。
観客の叫びも、帝国の支配も、今はどうでもいい。
目の前の「現象」をいかに解体し、生き残るという結果を導き出すか。
「消耗品、か」
ハンは薄く笑った。その瞳には、恐怖ではなく、狂気じみた観察者の光が宿っていた。
「初陣。対象、飢えた獣。補強した網、一枚。生存確率……自力で奪取する」
ライオンが砂を蹴り、黄金の閃光となって跳んだ。
記録係シム・ハンの、血塗られた第二の人生が、今、幕を開けた。




