エピローグ〜夜に、名前を呼ばれたら〜
通夜と告別式を終えたあとの夜は、昼よりも現実味が薄い。
喪服のまま外套を羽織り、雨宮ユウは小倉駅前を歩いていた。ネクタイは緩めているのに、首元が詰まった感じが抜けない。葬儀場で焚かれていた線香の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
祖母が亡くなった。
九十二歳。大往生だと誰もが言った。医師も、親戚も、近所の人も、口を揃えて「立派だった」と言った。ユウ自身も、頭ではそう理解している。
それでも胸の奥には、説明のつかない空洞があった。
——もう、いない。
その事実だけが、やけに重い。
小倉の夜は明るい。ネオンがあり、人がいて、音がある。現実は何事もなかったように続いている。祖母の死も、街にとっては数ある出来事のひとつに過ぎない。
ユウは喪服の袖口を見下ろした。黒い布は、街の光を吸い込んでいるように見えた。
モノレールの高架下。アスファルトは昼間の雨をまだ残していて、街灯の光が水面のように揺れている。
——葬式帰りに、夜の街を歩くのは、あまり良くない。
そう思ったのは、自分でも意外だった。
理由は、祖母だ。
祖母は、生前よく妙なことを言う人だった。迷信めいた話を、冗談とも本気ともつかない口調で語る。
「夜に名前を呼ばれても、返事をしたらいかんよ」
幼い頃、何度も聞かされた言葉だ。
返事をすると、連れていかれる。何に、とは言わなかった。ただ、返事をするな、振り返るな、それだけを繰り返した。
当時は怖かった。けれど大人になってからは、田舎の年寄りが子どもを夜遊びさせないための方便だと思っていた。
——でも。
葬式を終えた今、なぜかその言葉が胸に引っかかる。
人は死ぬと、どこへ行くのだろう。
そう考えた瞬間、ユウは自分の思考を強引に止めた。答えの出ないことを考える癖はない。死後の世界も、魂も、信じるほど純粋じゃない。
それでも。
“いなくなった”という事実だけは、否定できない。
交差点を渡り、駅前の喧騒から少し離れた路地へ入る。人通りは減り、音も薄くなる。自販機の白い光が、妙に平坦だった。
世界が、紙一枚分だけ軽くなる。
そんな錯覚を覚えた瞬間、ユウは足を止めた。
——あれ?
胸の奥が、静かにざわつく。寒気ではない。もっと、はっきりした違和感。
誰もいないはずの路地で、空気だけがこちらを向いている気がした。
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
そのときだった。
「……雨宮ユウ」
女の声。
背後から、唐突に。
低くも高くもない、感情の抜け落ちた声だった。距離がわからない。近いのに、触れられない。
ユウの全身が、一瞬で硬直した。
——フルネーム。
その事実だけで、理解してしまう。
これは、街の誰かじゃない。
返事をするな。
祖母の声が、頭の奥で重なる。
ユウは唇を噛み、必死に前を見つめた。振り返らない。返事をしない。喉が震え、声にならない息だけが漏れる。
足が、動かない。
地面が重い。空気が粘つく。まるで、この場所そのものに縫い止められているようだった。
「……雨宮ユウ」
もう一度、同じ声。
今度は、ほんのわずかに——迷いが混じっていた。
ユウは、答えなかった。
答えられなかった、と言った方が正しい。返事をした瞬間、何かが確定してしまう。そんな確信が、理屈より先に体を縛っていた。
沈黙が、数秒続く。
やがて女の声は、ほんの小さく、別の言葉を落とした。
「……それで、いい」
その声は、なぜか——安堵しているように聞こえた。
次の瞬間、空気が戻る。
車の音。遠くの笑い声。風の感触。現実が、重さを取り戻す。
ユウは膝が崩れそうになるのを堪え、ゆっくりと歩き出した。路地を抜ける頃には、背後の気配は消えていた。
振り返らなかった。
返事もしなかった。
それが、正しかったのかどうかは、わからない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
あの声は、自分を呼んだ。
それなのに、連れてはいかなかった。
——まるで、選択を委ねるみたいに。
ユウは夜空を見上げた。雲の切れ間に、街灯の光が滲んでいる。
「……ばあちゃん」
小さく呟く。
返事はない。
けれど、不思議と孤独ではなかった。
ユウは帰路についた。
その日の夜、夢を見た。
見知らぬ少女の後ろ姿があった。振り返らないまま、こう言う。
「あなたが返事をしなかったから、私はまだ——」
言葉の続きを聞く前に、ユウは目を覚ました。
午前三時。部屋は静かで、カーテンの隙間から街灯の光が差し込んでいる。




