第35話:虚無の特異点と、伝説の「先代」
空中島がブラックホールのイベント・ホライゾン(事象の地平線)を越えた。
本来なら光すら逃げ出せない重力の檻だが、リアムが展開する『古代魔法:【絶対静止・重力相殺】』により、島の中は午後のティータイムのような平穏が保たれていた。
「……マスター、見て。あそこに、誰か浮いてる」
セレスの指差す先、ブラックホールの中心――時空が歪み、全ての法が崩壊した「特異点」に、一人の女性が漂っていた。
彼女はリアムと同じ、黄金の魔力を纏ったローブを羽織り、背中には一万年分の知恵を蓄えたかのような巨大な魔導書を浮かべていた。
「あら……。私の眠りを妨げるのは、どこの不届き者かしら?」
彼女がゆっくりと目を開けた瞬間、宇宙全体が震えるほどのプレッシャーが島を襲う。一万人の騎士団がその場に跪き、アイリスですら剣を抜くことすら叶わない。
「君、こんなところで寝てたら体に悪いよ。……あ、お茶飲む? 淹れたてなんだ」
リアムが障壁越しに、温かいアールグレイとスコーンを差し出した。
「……は?」
女性の威厳が霧散した。彼女こそ、数万年前に宇宙を救い、自らブラックホールの番人となった先代の聖王、アストライア。
彼女は差し出されたスコーンをまじまじと見つめ、一口齧った。
「…………っ!? な、なにこれ、美味しい……! 私の時代の古代魔法(調理用)より、ずっと洗練されているわ!」
「あはは、少し改良したんだ。ところで、どうしてこんなところにいるの?」
「……私は、宇宙を喰らい尽くす『虚無』をここで食い止めていたの。でも……貴方がさっきから無自覚に垂れ流している黄金の魔力が、ブラックホールの穴を『パテ』みたいに埋め尽くしているわよ。もう私の番人としての仕事、終わっちゃったみたい」
見れば、リアムの魔力がブラックホールの深淵を浄化し、ただの「キラキラ光る綺麗な穴」へと作り変えていた。
「それなら、アストライアさんも一緒に来ない? 宇宙の終わりを監視するより、みんなで美味しいものを食べる方が楽しいよ」
「……そうね。こんなに美味しいお菓子が食べられるなら、隠居生活も悪くないわ。よろしくね、『現役』の坊や」
こうして、リアムの知識を遥かに凌駕する「生きた古代魔法の辞書」ことアストライアが、12人目のヒロインとして加わった。




