揺れる声Ⅲ
空色の瞳が私の手元から僅かに移動する。
「エレナ、手に怪我を?」
「えっ?」
私も視線を落としてみると、ピンクのドレスには小さな赤が滲んでいた。
そういえば、先ほど怪我をしてしまっている。思い出すと、脈打つような鋭い痛みが伴う。
「薔薇の棘を刺してしまったようです」
「いけない。すぐに手当てをしましょう」
リュシアンは僅かに表情を強張らせ、私の手を引き始めた。薔薇庭園を抜け、廊下へと出る。一瞬で凛とした空気に変わった。
「どこへ行くのです?」
「私の部屋です。そこでしたら、ゆっくりお話も出来ますし」
微笑むと、リュシアンは私の知らない道を進む。初めてのリュシアンの私室だ。どんな部屋なのだろうと期待を膨らませる一方で、緊張もしてしまう。家族以外の男性の部屋に入ったことがないのだ。無理もないだろう。
二階への階段を上り、何度も十字の廊下を曲がる。この入り組みようでは、すぐに迷子になってしまうだろう。
ようやく突き当りに到達し、リュシアンが足を止めた。
「ここです。開けますよ」
優しい囁き声に、小さく頷く。
リュシアンの手で開けられた扉の奥に広がるのは、空色の調度品とカーペットの置かれた白い部屋だった。私が滞在している居室の三倍はあろうかというほどの広さだ。天井のシャンデリアも豪華絢爛で、流石は王太子の私室といったところだろう。
リュシアンに続いて、部屋に見惚れながら中へと入る。
「どうぞ、ここに座ってください」
リュシアンがソファーを指し示すので、おとなしく従った。それを見届けると、リュシアンはクローゼットへと向かう。何かを取り出すとこちらにやって来て、対角のソファーに腰を下ろす。隣に座れなくて気落ちしたのは秘密だ。
「怪我したところを見せてください」
痛むのは右手の人差し指だ。恐る恐る手を差し出すと、リュシアンの微笑みが揺らいだ。
「思ったよりも深そうだ。痛かったら言ってくださいね」
リュシアンは持ってきた木箱からガーゼと包帯を取り出すと、器用に指に巻いていく。まるで、いつもそうしているかのように。
「侍女には頼まないのですか?」
「ええ。一番信用出来るのは自分自身ですから」
その返答に、胸に鈍痛が残る。この人の心の傷はどこまで深いのだろう。私が軽々しく語るのもおこがましい。
「エレナ、そんな顔をしないでください。可愛らしい顔が台無しですよ」
「ですが……」
「これは私だけが背負うべき問題ですから」
重みのある言葉とは裏腹に、リュシアンはにこっと目を細める。しかし、その表情はいつもよりも固いように思われた。
どうやら気のせいではなかったらしい。
「でも、エレナにこれだけは伝えておきたくて。怪我の手当ては口実だと思ってください」
手当てを終えた私の片手をぎゅっと握り、僅かに視線を落とす。
「父上は近々行動を起こします」
「どんな?」
「母上の奪還です」
思いもよらない言葉に、強い衝撃を受ける。王妃の奪還がリュシアンにとってどれほど大事で、どれほど危険かは理解出来るつもりだ。奪還が失敗でもすれば、リュシアンは精神的に立ち直れないかもしれない。それ以上に、王太子としての立場も危うくなるだろう。
「私としては、今のままでいる方が不安なのです。家族の命が赤の他人に握られている訳ですから」
「それでも、私はリュシアン殿下が心配です」
「ありがとうございます。やはり、エレナは優しいですね」
自分の優しさを棚に上げて、私を褒めるなんて。リュシアンはずるいと思う。
「私に話して良かったのですか? 私は身の上も明かしていませんのに」
「大体見当はついていますよ。それに、エレナは私の敵になるような人ではないと、私の心が言っています」
本当に見当がついているのだろうか。もしそうならば、私を王太子妃選考会から追い出していそうなものだけれど――。
もしや、祖父が冤罪だということに気付いているのだろうか。ううん、それは私の考え過ぎだろう。
「信用しすぎも良くないですよ?」
「心得ておきます」
リュシアンは星の光のように、明るくささやかな笑顔を私に向けてくれた。
「敵対貴族なら、今のエレナのように心穏やかではいられません。エレナが情報を外部に漏らすことはないでしょう」
逆に言ってしまえば、情報が洩れれば、発信源は私ということになる。私は勿論、漏らすつもりは毛頭ない。リュシアンの言葉には信頼と警戒の両方の意味があったのだろうか。
私は試されているかもしれない。僅かに緊張感を持ち始める。
「リュシアン殿下も大湖の島へ行かれるのですか?」
「ええ。行く予定です」
「どうか、お気をつけて」
絶対に無事に帰ってきて欲しい。空色の瞳をじっと見つめると、リュシアンは大きく頷いてくれた。
今は作戦が無事に成功することを祈るのみだ。
「ここで怪しまれる訳にはいきません。一度、解散しましょう。エレナはこれからはどこに?」
「薔薇庭園で気分転換が出来たので、次は図書室に行こうかと」
「私が思っている以上に、本が大好きなのですね」
リュシアンは「ふふっ」と笑い、私の手を取ったまま立ち上がる。
「また、図書室へ会いに行っても良いですか?」
「お待ちしております」
リュシアンに会えるなら、読書を中断されても構わない。大きく頷くと、二人で小さく笑い合う。これからも、こんな風に幸せな時間が続くように願わずにはいられなかった。




