揺れる声Ⅱ
リュシアンとは会えない日々が続く。私からセリスにリュシアンの私室を訪ねても良かったのだけれど、それは違う気がしたのだ。心を開きかけたあの笑顔を見られたからこそ、離れがたい。また眩しい笑顔を私に向けてくれないかと、窓から見える澄んだ青空に想う。
更に三日が過ぎていった。今日は趣向を変えてコーヒーを入れてもらった。頭をすっきりさせて、小説を読み漁りたかったのだ。砂糖とミルクを入れて、マドラーでかき混ぜる。白が渦巻くコーヒーは、まるで私の頭の中のようだ。
先日読破した『悪魔の囁き』は、私が思い描いた大団円で幕を閉じた。神を信じていなかった女性が、最後は自分を救ってくれた男性に心を開き、悪魔の誘惑を絶つ。色とりどりの野花の中で迎えた彼女の結婚式は、それは見事なものだった。世界中から祝福され、永遠の愛を誓う――私の恋は純粋な始まりではなかったけれど、やはり憧れてしまう。
ふと顔を上げてみると、窓の外を青い小さな何かが過った気がする。そんなことがない。今の私は繁栄をもたらすどころか、次期国王の心を沈ませてしまっているのだから。
頭を軽く横に振り、窓の外を眺めてみる。ほら、青い鳥なんてどこにもいない。
「エレナ嬢、久しぶりに外の空気を吸ってみてはどうです?」
傍に控えていたセリスが遠慮がちに口を開く。
「外ね……」
完全に読書の気分だったのだ。あまり気乗りせず、「うーん」と唸ってみる。
「少しは気分転換になると思いますよ。重苦しい城の空気ばかり吸っていては、気が滅入ってしまいます」
その理屈には納得出来る。行動は制限されていないとはいえ、自由と呼ぶにはあまりにも窮屈だ。
「薔薇庭園にでも行ってみようかな」
可憐な花を愛で、新鮮な空気を吸って、甘い香りを嗅ごう。あそこに行けば、リュシアンの笑顔も鮮明に思い出せる。
まだ熱いコーヒーを一気に飲み干し、ソファーから立ち上がった。思い立ったが吉日とも言うではないか。直感のまま行動してみよう。
「セリス、ありがとう」
「とんでもございません」
セリスは微笑み、薔薇庭園へと歩み始めた私を見送ってくれた。
道中は騎士にしか会わなかった。騎士たちは私が王太子妃候補だと知っているため、固い顔で礼をする。慣れとは恐ろしいもので、それを何とも思わなくなっていた。
リュシアンがいるだろうか。淡い期待とちょっとの不安を抱きながら薔薇庭園を覗く。しかし、誰もいないようだ。肩を落とし、湿度の高い空気を思い切り吸い込んだ。
ピンクの薔薇、黄色の薔薇、オレンジの薔薇や赤い薔薇、黒い薔薇まで、広々とした空間に私が一番美しいのだと言わんばかりに咲き誇っている。昨日降った雨だろうか。雫を湛えている薔薇もあった。その雫が日光を反射させ、宝石のように輝いている。むせ返るような蜜の香りが漂う中をゆっくりと歩く。
しばらく薔薇を眺めて、一株の深紅の薔薇の前で足を止めた。リュシアンと初めて二人きりになった日のことを思い出す。彼はこんなことを言っていた。
『この薔薇はオリヴィア。エレナと改名しても良いほどに貴女に似ている』
そして、隣に咲く薄紫の薔薇に目を向ける。
『貴女の心はスイートムーン。こちらによく似ています』
リュシアンがしたように、スイートムーンへと手を伸ばす。花びらに触れると、雫が手の平まで流れてきた。冷たくて気持ちいい。
「……エレナ?」
突然聞こえた声に、肩を震わせる。その勢いで薔薇の棘が指先に刺さってしまった。まさか、思いを馳せていた本人が登場するなんて。痛みなんて、ちっとも感じない。
振り向いてみれば、柔らかな表情で佇むリュシアンの姿があった。頬が自然と淡い熱を持つ。
どんな風に声をかければ良いのだろう。混乱してしまい、上手く言葉が出てこない。ドレスを握り締める私に、リュシアンは瞳を潤ませる。
「良かった、エレナ。貴女がここを去らなくて」
安心したように声を震わせるので、私の方こそ泣きたい気持ちになってしまった。
「私はリュシアン殿下を傷付けました。追い出されても仕方がないと思っています」
本音を言えば、絶対にここを去りたくなんてない。でも、それを押し通せば、ただの私の悪足掻きになってしまう。
覚悟を持ってじっとリュシアンを見詰めると、彼は小さく首を振った。
「エレナ、少し触れても良いですか?」
その言葉が不意打ちのように心に響く。小さく頷くと、リュシアンは私の元へとやって来た。私の両手を取り、ほっと息を吐く。
「本当にエレナが去ってしまうのではないかと怖かったのです。こうして手を取れて、凄く安心しました」
手を取るのに許可は要らないと、口から出そうになった。言いかけてやめた。リュシアンにとって手を取るということは、相手を敬い、尊重し、存在を認める行為なのだろう。あまりにも慎ましやかで、繊細ではないか。まるでリュシアンの心そのものだ。
「私を咎めないのですか?」
「今回のことで、エレナを咎めることはありません。その必要なんてありません」
優柔不断と言われたリュシアンはどこへ行ったのだろう。そう思わせるほどに、リュシアンの声には力が籠っていた。




