揺れる声Ⅰ
私から謝った方が良いのだろうか。肌寒い廊下の空気に当たりながら、唇を噛み締める。
私は間違ったことは言っていないし、咎められるようなこともしていない。しかし、リュシアンを傷付けたのは事実だ。
ううん、ここで私から謝ってしまえば、リュシアンの弱さを認めたことになる。彼のためにはならないだろう。この決断は正しいのだと自分を納得させるために、ぎゅっと両手を握る。
部屋にいても悶々とするだけだろう。そう思い、図書室へと向かう。誰かに相談したいという思いとは裏腹に、誰も現れたりはしなかった。
扉を開け、昨日と同じ場所に座る。膝の上には『悪魔の囁き』が載っている。栞の所までページを捲り、小説の中の世界に没頭しようと試みた。
――駄目だ。リュシアンのその後が気になって集中出来ない。
部屋に戻る気も起きず、図書室の天井にぶら下がるシャンデリアを見上げる。
「大丈夫かな……」
どうか、私の思いがリュシアンに通じますように。本を閉じ、深い溜め息を吐いた。
* * *
美味しい筈の料理も味気なく、自由な時間もどこか寂しく感じられる。あっという間に、リュシアンとのすれ違いから二日が経った。未だに進展はない。最悪、妃候補が私からミレイユに変わってしまった可能性もある。そんなのは嫌だ。でも、下手に謝りたくはない。紅茶の香りに包まれながら、葛藤を抱く。ティーカップをテーブルへと戻し、一呼吸置く。
そろそろ図書室に行こうかと思った頃合だった。誰かが居室の扉をノックしたのだ。
「はい」
返事をしても、なかなか扉が開かない。セリスではないな、と僅かな緊張が走る。
「エレナ、お話があるのです。中に入ってもよろしいでしょうか」
この声はミレイユだ。彼女が私の居室へとやって来たことはない。何の話があるのだろう。訝りながら扉へと歩み寄り、ゆっくりと開けた。
ミレイユは不安げに揺れる瞳で私を見て、そっと微笑んだ。
「入ってください」
「はい」
見る限り、ミレイユは化粧をしていない。少なくとも今日は、リュシアンには会っていないだろう。
「どうなされたのです?」
私が座っていた対角のソファーをミレイユに進めながら、腰を落ち着ける。ミレイユもゆっくりと腰を下ろし、小さな吐息をついた。
「リュシアン殿下のことで相談があるのです」
茶色の瞳でじっと見詰められ、身動ぎが出来なくなる。
「リュシアン殿下の元気がないようなのです。何か思い詰めてらっしゃって、話も聞いていただけなくて。何かご存知のことはありますか?」
この変化は明らかに私のせいだ。ありのままをミレイユに伝えるべきではないと即座に判断し、口を開いていた。
「私は存じません。リュシアン殿下とは二日ほど会っていませんので」
「そうですか……」
意気消沈といった様子で、ミレイユはがくりと肩を落とす。
「私、どうやって殿下を元気づけて良いのか分からなくて、困り果てていたのです。理由が分かれば声も掛けやすくなるかなと思ったのですが……」
「私に聞いては駄目なのではありませんか? パートナーを励ますのに一々助言を求めていたのでは、互いに分かり合えませんよ?」
少し当たりが強かっただろうかと胸がざわついた。図星をついてしまったのか、私の言葉にミレイユは口を結び、膝の上で拳を握る。
「……私、やっぱりリュシアン殿下に相応しくありませんよね。二日前に聞いてしまったのです。アメリアの『エレナが一番』という言葉を」
まさか、ミレイユにまで聞かれていたとは。では、その後の展開も知っているのではないだろうか。何故、私を責めないのだろう。
密かに生唾を飲み込み、ミレイユの次の言葉を待つ。
「どなたと言い争っていたのかまでは存じませんが、リュシアン殿下のことだろうと思って、すっかり自信を無くしてしまって……」
ミレイユはずっと立ち聞きしていた訳ではないようだ。ほっと安堵すると同時に、ミレイユが王太子妃としてリュシアンの隣に立つ姿をどうしても想像出来ない。
「ミレイユは今でも王太子妃になりたいと考えていますか?」
つい、質問を投げかけてしまった。ミレイユは俯き、小さく首を横に振る。
「お支えしたいのは事実です。ですが、私には荷が重すぎます」
「では、王太子妃としてではなく、友人として支えるのは?」
「友人……」
一瞬、ミレイユは顔を上げた。その瞳には希望が見えたような気がする。それも束の間、すぐに目を伏せた。口を動かしてはいるものの、言葉にはならない。ミレイユは数秒黙った後、声を振り絞るようにして言葉を発した。
「……あと数日だけ頑張らせてください。それでもリュシアン殿下の心が変わらなければ、潔く出ていきます」
「私に決意表明されても困りますよ」
「そうですよね」
ミレイユは「ふふっ」と小さく笑うので、私も微笑んでしまった。張り詰めた空気が少しだけ和む。
「私は、これからもエレナとは仲良くさせていただきたいのです」
「私も友人が増えるのは大歓迎ですよ」
というよりも、友人第一号といった方が正しいだろうか。中途半端な家柄のせいで、貴族の友人はいない。庶民からは慕われはするものの、対等な立場として扱う者はいなかった。友人が出来るなら、どれほど楽しいことが待っているのだろう。
ミレイユは私が心躍らせているのにも気付かずに、私の片手を取る。
「エレナ、私と出会ってくれてありがとうございます」
まるで、恋人に言うような台詞だ。思わず吹き出してしまい、私たち二人の笑いが合唱のように部屋に響いた。




