すれ違う心Ⅰ
ただの夢ではない。現実に起きたことだ。消えかけていた記憶まで掘り起こすなんて、私は何をしたいのだろう。
瞼を開けると、カーテンの閉じられた薄暗がりの部屋が視界に映った。頭がぼんやりする。まだ眠っていたい。
「二度寝しよー……」
包まっていた布団を抱きかかえ、夢の世界へと逃避した。
次に目を覚ましたのは昼食の直前だった。瞼を開ける前に、オニオンやコンソメの良い香りが鼻を刺激する。
「ご飯……?」
呟きながら上半身を起こした。
「やっと起きられましたね」
テーブルの傍ではセリスが苦笑いをしている。グラタンにオニオンスープ、海藻サラダにサーロインステーキ――今日も美味しいものが食べられそうだ。食事のことを考えていたせいか、腹が雷のような音を立てた。慣れとは恐ろしいもので、セリスを前にしても恥ずかしいとは思わない。
「美味しそう」
「『美味しそう』ではなく、美味しいのです」
確約された味に、思わず笑ってしまった。
着替えもせずに食卓へ座り、充実した食事を一望する。見ているだけで涎が溢れてきそうだ。
食事に取り掛かろうとした時、不意に昨日出会ったあの冷めた顔が思い返された。
「セリス、黒髪で緑の目の令嬢って知ってる?」
「黒髪で緑の目……髪はウェーブがかかっていらっしゃいましたか?」
「うん」
この口振りから、誰か見当がついたのだろう。頷くと、セリスは浮かない表情で口を開いた。
「恐らく、イザベラ嬢でしょう。ヴァレンツ公爵令嬢……国王陛下に王太子殿下とは釣り合わないと突き放された方です」
「やっぱり……」
冷たく突き刺さった瞳は、私への拒絶の表れだろう。あまり関わりたくないな、と頭の中で離れない視線を振り払う。
「何かトラブルでも?」
「ううん。睨まれただけ」
「そうでしたか。お気になさらない方が良いですよ」
「うん、分かってる」
鼻で溜め息を吐き、自分の髪を撫でてみる。
いけない、食事の最中だったのだ。料理が冷めてしまう。ナイフとフォークを手に取り、食事に取りかかる。海藻サラダはコリコリとした触感が楽しいし、サーロインステーキはナイフを入れる度に肉汁が溢れ出す。グラタンにはぎっしりとカニの身が詰まっており、濃厚なホワイトソースと合わさって充足感がある。
食材たちに感謝をしながら、故郷にいる家族に思いを馳せた。
* * *
午前中は睡眠に費やしてしまった分、午後は思い切り読書をしよう。重たい図書室の扉を開き、少しだけカビの混ざった匂いに浸る。今日はどの本を読もうか。小説コーナーへ赴き、重厚な背表紙をなぞる。
これにしよう。手に取ったのは『悪魔の囁き』という本だ。神を信じていなければ、天使や悪魔の存在も否定することになる。しかし、これは空想の話だ。気にする必要もないだろう。ゆっくりと地べたに腰を下ろし、膝の上で本を広げた。
『神なんていない』――意外な一行目に、すぐさま心を奪われた。筆者は私と同じ感覚の持ち主なのかもしれない。そして、リュシアンとも。
もしかすると、リュシアンもこの本を手に取ったかもしれない。そう考えるだけで胸は高鳴り、手先は震える。
本への没入感を高めるため、文字に指を這わせる。そんな時だった。
「エレナ」
思いもしない声に顔を上げる。そこには不満げに私を見下ろすオーレリアの姿があった。
「オーレリア殿下、ご機嫌麗しゅう」
慌てて立ち上がり、軽く膝を折る。本が鈍い音を立てて床に落下した。
「挨拶は良いのです。それより」
オーレリアは一歩詰め寄り、腰に両手を当てる。
「どうやってお兄様をそそのかしたのです?」
「あの、それはどういう――」
「どうもこうもありません!」
そそのかしたつもりはないし、リュシアンに想われているとも思えない。軽く首を振ってみせたけれど、オーレリアの表情は歪んだままだ。
「お兄様の妃には、公爵令嬢……イザベラになってもらわないと納得出来ません! 何故、貴女が……どうして!」
こう爆発されてしまっては、宥めることも出来ない。どうして良いのか分からずにドレスを両手で握り締める。
「オーレリア殿下、お言葉ですが、ここは図書室ですから……」
そう言うだけで精一杯だった。
オーレリアの顔から赤みが引いていく。周囲を見回すと、ぐっと口を結んだ。
「図書室にいるなんて、卑怯ですね」
卑怯の意味が分からない。私はただ、趣味の時間を過ごしていただけなのに。苦笑いをしてみせると、オーレリアは豪快に鼻で息を吐く。
「私は認めませんから」
それだけ吐き捨てると踵を返し、ヒールの音を響かせながら去っていった。
自分の言いたいことだけを述べ、怒りを露わにするなんて。私としては訳が分からないし、理不尽だ。
これからリュシアンとの仲を深めようとしていたのに、前途多難なようだ。まあ、選考会の説明でオーレリアに威圧されていたから、分かりきっていたことなのだけれど。
溜め息を吐き、えんじの本を拾い上げる。
「ごめんね」
まるで泣いている子供にするように表紙をそっと撫で、優しく抱き締めた。




