埋まらない溝Ⅲ
しかし、無闇に傷に触れるような真似はしない。
「エレナは神様を信じていますか?」
「私は……」
神がいるなら、冤罪など起きないだろう。そして、私のような不幸な令嬢は生まれないだろう。
「私は信じておりません」
リュシアンは瞬きをし、私を見る。
「何かあったのですか?」
「神様がいるのなら、理不尽な目に遭ったりしませんから」
理由は告げずに、首を横に振った。
「私もそう思います。神様なんていないのです」
やはり、過去に何かあったのだろう。リュシアンも同意を示し、瞼を静かに閉じた。
「お互い、こんな場所なんて似合っていないのかもしれませんね」
「全くその通りです」
天使のような容姿で神を否定する。そんなリュシアンにまたしても惹かれていく。
荘厳なパイプオルガンの音楽が流れ始め、人も増えていく。不審に思われないようにリュシアンとは距離を取った。神は信じない。でも、こんなにも美しい音色が聞けるなら、礼拝堂に来てみるのも良いかもしれない。
ぼんやりとステンドグラスを見上げていると、通路を見覚えのある横顔が通り過ぎた。ミレイユだ。彼女は早速リュシアンの姿を見つけ、その隣に腰を下ろした。
「リュシアン殿下、ご機嫌よう」
「ああ、ミレイユ」
リュシアンの横顔はミレイユに対しても笑顔を絶やさない。パイプオルガンの音色よりも、リュシアンとミレイユの会話が気になってしまう。二人の声に耳をそばだてる。
「神は偉大です。願いは祈りに、祈りは希望に変わりますから」
「ミレイユには希望があるのですか?」
「はい。病弱な兄の健康を取り戻したいのです」
病弱な兄――信心深くなる訳だ。元気になれば神に感謝し、倒れれば神に祈る。そんな生活を繰り返していたのだろう。
「神を信じない、と言ったら、ミレイユはどう思いますか?」
「それはとても勿体ないことです。無償の愛を否定してしまうのですから」
「無償の愛、ですか……」
無償の愛なんて、果たして存在するのだろうか。親からの愛情が無償の愛だとするのなら、私は多分に受けて育ったことにはなるけれど。
「私は与えるばかりで……もらったことはあるのでしょうか」
「もらっている筈ですよ。ご両親の愛だって、無償の愛なのですから」
「両親、ですか」
そこで会話が止まってしまった。ふと思い出したのだ。リュシアンの母――王妃は大湖の孤島に幽閉されていることを。十数年前からだったと思う。
リュシアンに影を落としているものは、王妃が絡んでいるのだろうか。
「私、言ってはいけないことを言ってしまったでしょうか……」
「いえ、ミレイユの話は一価値観として興味深く聞かせていただきましたから」
おろおろするミレイユに対して、リュシアンの声から張りは消えない。流石は王太子だ。
そこから会話は進展することがなく、食い違っていく。好物はミレイユがケーキで、リュシアンがカニのパスタだったり。国王を尊敬するかと聞けば、ミレイユは「勿論」と答えたのに対し、リュシアンは「そうですか」とだけ返したり。
音楽が終わり、人々の姿が疎らになると、ようやくミレイユは腰を上げた。肩を落とし、とぼとぼと出口へと向かう。そこで偶然、目が合ってしまった。
「エレナ。いらしていたのですね」
「ええ。気が向いただけですけれど」
ミレイユは私の隣に腰を下ろし、大きな溜め息を吐いた。
リュシアンも立ち上がり、礼拝堂を後にする。ルシアやアメリアに会いに行ったのかもしれないな、と小さな嫉妬を感じながら見送った。
「私、駄目かもしれません」
ミレイユが目を伏せ、小さく呟いた。
「どうしてです?」
「共通点がなさすぎるのです。それに、リュシアン殿下の真顔や驚いた顔……笑顔以外の表情を見たことがないのです」
私は、少しはリュシアンの心を動かせている、という証拠なのだろうか。未だに真顔は見たことがないものの、驚きや哀しみは引き出せていると思う。
「兄に安心してもらいたくて、それ一心で妃を目指したのに。失望されてしまいます」
「そんなことはないのでは?」
「えっ?」
ミレイユは目頭に涙を溜めたまま、顔を上げた。
「妃に立候補するだけでも、相当な勇気です。しかも、リュシアン殿下とお話まで出来ている。十分な成果ではありませんか?」
「そうですけれど……。兄は私を誇ってくれるでしょうか」
「誇るに決まっています。頑張った妹を貶す兄なんて、ろくな者ではありません」
ミレイユは涙を流しながら、私を見てそっと微笑んだ。
「エレナは優しいのですね。リュシアン殿下にお似合いです」
「そんなこと、まだ言ってはいけませんよ。妃は決まっていないのですから」
「……はい」
ミレイユは勝負していても、心が負けてしまっている。もう第一妃候補とはなれないだろう。「お疲れ様」と心の中で呟き、落ち込むミレイユの肩を撫でていた。
* * *
リュシアンの過去に触れても良いのだろうか。気になるのに聞けない。あの笑顔が崩れてしまうのは嫌だ。
なんとか過去を知ることが出来れば、もっとリュシアンとの関係を進展させられるかもしれないのに。居室で紅茶を嗜みながら、物思いに耽る。
ふと扉が開く音がした。誰が来たのだろうと振り向いてみれば、セリスだった。蝋燭の火を消す棒を手にしている。
「エレナ嬢、消灯の時間です」
「もうそんな時間かぁ」
ティーカップをソーサーへと戻し、溜め息を吐く。
「思い詰めてらっしゃいますね」
「うん。リュシアン殿下が何を隠しているのか分からなくて」
「……それは」
セリスは含みのある言い方をする。
「セリス、何か知ってるの?」
「はい。当時、私は王妃殿下つきの侍女見習いでしたから。王太子妃候補として、知られていた方が良いのかもしれません」
「当時って……いつ?」
「十年以上前の暴動の日です」
これは、確信的な話を聞けるかもしれない。生唾を呑み込み、目で話の先を急かす。
「お願い、聞かせて」
「あれは、誰もが寝静まった深夜のことでした。十数人の貴族が城に押し入り――」




