埋まらない溝Ⅱ
ローズヒップティーをもう一口いただくと、ほど良い甘みが酸味を中和させている。
この機会に、感謝を伝えておこう。
「リュシアン殿下」
「はい」
「先日はありがとうございました」
「なんのことです?」
忘れたとは言わさない。令嬢たちの前で恥をかかずに済んだのはリュシアンのお陰だ。
「ロブスターの件です」
「ああ、それは礼には及びませんよ。王家の失態ですから」
「それでも、お礼を申し上げたいのです」
「エレナは誠実な方ですね」
私は当然のことをしただけだ。小さく首を横に振り、笑ってみせた。
「そうだ、エレナ。これを受け取って欲しいのです」
リュシアンは懐に手を伸ばすと、ピンクのリボンでラッピングされた小さな白い箱を取り出した。すっと私の前に置く。
「これは?」
「開けてみてください」
ただの妃候補にプレゼントだなんて。何か算段があるのではないかと疑ってしまう。
訝りながら、リボンをするりと解く。箱を開けて現れたのは、澄んだ緑の宝石だった。本物の宝石だろうか。初めて見る石だ。怖くて触れられずにいると、リュシアンはくすっと笑った。
「これはアレキサンドライトという石です」
「アレキサンドライト?」
「ええ。光の種類で色の変わる石です。私の前と家族の前では見せる姿が違うでしょう? 貴女方にピッタリかと思いまして」
ただの皮肉だろうか。それとも、理解されない悲しみなのだろうか。笑顔の奥にある空色の瞳には薄らと悲哀が浮かんでいる。
貴女方というからには、妃候補全員に渡しているのだろう。私が特別扱いされている訳ではない。私の胸にもピリッとした痛みが走る。
「指輪でも、ネックレスでも、ご自由に加工なさってください」
私の家は宝石を加工するような費用は捻出出来ない。リュシアンなりの気配りなのだろうけれど、私にとっては心の重荷にしかならなかった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
没落貴族だなんて、リュシアンに伝えられる筈がない。ううん、そんなことは、今だけは忘れてしまおう。とびきりの笑顔をリュシアンへと向けた。
「ありがとうございます」
「いえ、喜んでいただけたのなら」
リュシアンの微笑みは変わらず、その気持ちが全く見えない。
「殿下」
「なんでしょう」
「殿下の心には、誰が映っているのですか?」
もどかしくなってしまい、直球で聞いてしまった。リュシアンは眉をぴくりと動かす。
「さあ、どなたでしょうね」
言い切ると、また目を細める。これ以上質問を重ねても、思うような答えは返ってこないだろう。仕方なく、口を噤むしかなかった。リュシアンは僅かに前かがみになる。
「一つ伺いますが、エレナの心には私がいるのですか? 王太子ではなく、リュシアンとしての私が」
言われてはっと顔を上げる。想われているか不安になるのは私たち妃候補だけではない。リュシアンもそうなのだ。私の心は確実にリュシアンに傾きつつある。最初は政略的な物だったけれど、迷いはない。
「私はリュシアン殿下が好きですよ」
「そうですか」
腑に落ちたのかは分からない。ただリュシアンは静かに言い、長い睫毛が影を落とす。
「私は散々見てきました。好きだと言いながら、心には私の映っていない令嬢たちを。『優しすぎる』から、『優柔不断』だから……理由も聞かずに様々な言い訳を述べ、私から離れていく。私には、心の通った令嬢は現れないのかもしれませんね」
「そんなことはありません」
初めて弱みを見せたリュシアンに、大声を張り上げていた。少なくとも、私は離れたりはしない。
「私はここにいますから」
「……ありがとう」
伝わったかは分からない。私の言葉が『嘘』と捉えられていてもおかしくはない。でも、誰もがリュシアンから離れていくとは勘違いされて欲しくなかった。
リュシアンは儚く微笑み、手を組んだ。
「少しだけ、エレナの心を信じてみたくなりました」
信じるとは言い切れない脆さ――優柔不断と言われる所以なのか、彼の影の心がそうさせるのか、ずしりと心に重く響く。
「また会ってくれますか?」
「勿論です。何度だってお会いします」
大きく頷くと、リュシアンはこれまで以上に朗らかな笑顔を見せた。
アレキサンドライトの入った箱をいただき、リュシアンを残して庭園を出る。薔薇を愛でる横顔を見ながら、自然と呟いていた。
「貴方の何が、そんなに心に影を落としているの?」
* * *
それから私とリュシアンは度々顔を合わせた。図書室だったり、礼拝堂だったり、私の居室だったり――言葉は少ないけれど、その存在を確かめる。他の令嬢たちとはどんな時間を過ごしているのだろう。気にはなるけれど、聞けずにいた。
今は礼拝堂で天使の像を眺めながら、二人で寄り添っている。
「リュシアン殿下、一つ聞きたいことがあるのです」
「なんですか?」
リュシアンはいつもと変わらない穏やかな口調で、にこやかに微笑む。
「殿下は昔から心優しいのですか?」
聞くと、空色の瞳が一瞬だけ泳いだ。
「昔のことは忘れてしまいました。あまり良い思い出はありませんから」
「そうですか……。変なことを聞いてしまって申し訳ございません」
「いいえ、お気になさらず」
リュシアンは笑顔を絶やさない。その瞳の奥に、静かな影が潜んでいることはすぐに気がついた。




