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後編 澪標の花嫁、警笛になる

 翌朝、街は青白かった。水は朝がいちばん冷酷だ。夜に溶けた嘘を、真っ直ぐな線に固め直す。葦の影はやせ、空へ落ちる井戸は逆さの水面で冷たく光る。簫祷澪は胸骨の奥に指を添え、そこに芽生えた見えない柱——【澪標】の鼓動を数えた。皮膚に汗は出ないのに、肋骨の内側だけ湿っている。塩の膜が薄く張りつき、呼吸のたびに味が変わる。


 フラウト・クレドレスは、夜のあいだに整えた道具を見せた。道具といっても、目に見えるものはない。彼は胸元に手を置き、吸って、止める。吐く手前の空白を、指で示す。

 フラウト「鍵は、ここでできている。僕の鍵は息の形だ。君が門を開ける間、これで君の高さを支える」

 澪「高さ?」

 フラウト「音に届く直前の段。落ちすぎても、上がりすぎても、扉は喉を閉める。正しい段に、僕が君を置く」

 彼の指は温度を持たないが、触れられた場所の血だけが熱をもつ。熱は、決心の見た目をしていた。


 葦のホールに、布を垂らした顔のない住民が集まる。昨夜の潮の査閲を告げた葦札が、風で微かな音を立てた。器は出ない。代わりに、澄み切った貝片の標と潮目の小石が束ねられ、壇の前に置かれている。

 渦侯は巻貝の冠を軽く傾け、監査官の礼で場をしずめた。

 渦侯「説明責任、総仕上げ。門は口づけのかたちで開く。閉じるときは、嚙み砕く。口は消化器だ。比喩に見せかけて、運用だ。——準備は」

 フラウト「できている」

 澪(できている、の内訳は、どれくらい怖い?)

 怖さは匂いを持っていた。乾いた塩と古紙、そして祖母の台所の名残——温かいうちにという命令の湯気。時間指定のない命令は、祈りの形をしている。祈りは受け身の名詞。ここでは動詞に変えなければならない。


 壇に立つと、街の気圧がわずかに重くなった。鼓膜の裏に鈍い痛みが咲き、胸骨の奥の柱がまっすぐ延びる。

 澪「……開く」

 言葉は旗印だ。旗は風を要する。フラウトの息が合図になり、彼の手つきが高さの段を示す。

 フラウト「そのまま。君の名前で、道を立てる」

 【澪標】が立った。見えない柱が胸を貫くが、血は出ない。代わりに、音の前が満ちる。音にならない高密度の空白が、葦札の束と潮石の周囲に降り積もる。住民の布の下で、目の代わりに呼吸が見開かれる。


 空の下方——逆さ井戸の面に、現実の色が揺れる。夜勤用のライト、配管図、缶コーヒー。液晶の小さな点滅が、こちらへ救いを求めている。

 雨辻〈君の分の缶、まだ冷やしてる〉

 澪の胸が、きゅっと縮む。痛みは合図だ。合図があれば、神はいらない。神がいれば、合図は増える。秤はいつでも、釣り合おうとする。

 渦侯「出発前の書類。持ち出し品——恋、呼吸、未来の後悔。すべて課税対象。贅沢品だからね」

 澪「贅沢?」

 渦侯「生き延びるのに不要、しかし必要。そういう品目が、いちばん税を生む」


 門をくぐる直前、澪は気づいた。門は開くだけでは足りない。閉じるとき、必ずなにかを嚙み砕く。誰の、なにを。

 澪「待って。あなたの心臓」

 フラウト「空気でできてる。軽いぶん、壊れやすい」

 澪「閉じる瞬間、門があなたの空気を食べる」

 沈黙が落ちる。沈黙は判断の形で、同時に署名の形でもある。

 渦侯「美しい逡巡。税率を上げたくなる」

 フラウトは、静かに笑った。笑いは音にならず、息の形で澪の頬に触れる。

 フラウト「じゃあ、分担しよう。僕は君の世界で呼吸を学ぶ。君はこっちで鳴ることを学ぶ」

 澪「鳴る?」

 フラウト「世界が君を必要とするとき、君は警める。僕が君を必要とするときも、君は鳴る」

 澪(花嫁でいて、警報でいる。矛盾の肩書きは、私には重い。でも、重いもののほうが、落とさない)


 渦侯は承認印を空気に押し、潮の匂いの印影がふわりとほどける。

 渦侯「名義変更、受理。運用開始」


 フラウトが額に口づける——触れないで触れる最終形。息と息が交換され、音が生まれる寸前で止まる。寸前は永遠に似ている。似ているものほど、徴収は高い。

 【澪標】がさらに明るくなり、街中の水路が一斉に澪へ頭を垂れる。水は礼儀正しい。礼儀は時に、集団の暴力でもある。

 澪(動詞でありがとうを言う。動詞で、愛する)

 門が閉じる。噛み砕かれるのは、澪の人間としての最後の沈黙だった。沈黙を失った彼女は、音になった。


 警笛が、鳴る。━━"ざあぁ"。高く、遠く、誰にも届かず、誰にでも届く。葦の塔はわずかに震え、布の顔たちがいっせいに呼吸を止めた。潮目が一段ずれる。逆さ井戸の面が泡立ち、現実の重力が口を開ける。


 現実側。フラウトは井戸から這い上がった。初めての空気が喉を擦り、初めての重力が膝を奪う。

 雨辻「……誰だ、君」

 フラウト「案内人だ。これから、学ぶ人」

 雨辻は缶を差し出した。金属の冷たさが皮膚を刺し、鉄と炭酸の匂いが鼻へ昇る。

 雨辻「澪は?」

 フラウトは空を見上げる。晴天でも、警笛は鳴る。

 フラウト「いる。鳴ってる。世界の端で、風と同じ高さで」

 缶を開ける音が、笛の音の手前の泡立ちに似ていた。


 スピラ・デルマレでは、渦侯が新しい税率表を掲げた。恋の税は据え置き、後悔の税は減税。愛は景気対策の切り札だ、と彼は言う。住民は拍手を惜しまない。布の下の顔は泣かない。泣くと水が増える。水が増えると、街が沈む。

 澪は葦で編まれた塔の上にいる。姿勢はもう必要ない。姿勢は人間の作法だ。彼女はいま、音の作法を学んでいる。

 最初の鳴動で、井戸の縁にいた子どもが足を止めた。二度目で、雨の中の犬が振り向いた。三度目で、フラウトが微笑んだ。微笑むという動詞は、世界をわずかに正しくする。


 恋は遠距離になった。遠距離は、恋を文章にする。文章は監査に強い。

 夜、風が弱まると、澪は少しだけ言葉になる。

 澪「息は、そっちでうまくいってる?」

 フラウト「うまくいってない。だから、学ぶ価値がある」

 澪「その言い方、好き」

 フラウト「君の言い方も」

 渦侯は塔の下で、薄く笑う。笑いは音にならず、水面に細い輪を残すだけだ。

 渦侯「いいねえ。恋は続けるほど、徴収の見込みが立つ」


 数ヶ月後、現実側の川が暴れた夜、町に死者は出なかった。警笛が早すぎるほど早く鳴ったからだ。早すぎる警報はしばしば無視されるが、この夜は違った。

 雨辻は浸水した道路にバリケードを立て、フラウトは避難誘導で息を切らした。初めての呼吸は下手だが、下手さは誠実だ。

 夜明け、雨が上がるころ、井戸の縁に白い粉が少し残った。澪の名ではない。承認印でもない。

 それは、恋にしか読めない文字で書かれていた。

 ——ありがとう。動詞で愛する。


 渦侯は相変わらず街を歩き、税を取り、笑い、水光で冠を磨く。彼が自分の臓物を食む悪夢じみた儀式は、遠い未来の余談として棚上げされたままにしておく。美しく消える方法はいくつもある。だが今は違う。

 今は、鳴る。世界の端で、風と同じ高さで。

 澪は警笛であり、花嫁であり、道である。肩書きは重いが、音は軽い。軽さは罪だが、扱いやすい。扱いやすさは、ときに救いの手口になる。

 救いは“持ち物”では足りない。手つきでなければ。だから彼女は、鳴り続ける。


 いつか、風が完全に止む日が来る。そのとき彼女は、人間の姿で塔を降りるだろう。監査庁は休日、渦侯は昼寝、街は静かで、井戸は口づけのかたちをもう一度思い出す。

 その日まで、恋は遠距離で、文章で、鳴動で。

 そして毎夜、どこかで——笛のない笛が、確かに鳴る。━━"ざあぁ"。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 本作は、私が別サイト Tales に投稿している原作『美しい消滅について』を下敷きにした、異世界恋愛ホラーの“セルフリミックス”です。物語としては独立して読めますが、原作では「救いと消滅」「合図としての沈黙」を別の舞台と言葉で描いています。読み比べると、意図した違い(器や儀礼、比喩の差し替えなど)がよりはっきり見えるはず。


・原作掲載先:Tales『美しい消滅について』

・https://tales.note.com/noveng_musiq/w296k3xmjwsa5


 もし気に入っていただけたら、ブックマーク・評価・感想で応援してもらえると次話の励みになります。誤字脱字や気づきも教えてください。

 それでは、また次の作品で。

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