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中編 水先案内人の心臓は空気でできている

 スピラ・デルマレは、川が空へ流れ、空が井戸へ落ちる街だ。朝は薄い硝子の匂い、昼は濡れた紙の手触り、夜は冷えた貝殻の味がする。簫祷澪はそこで、ようやく自分の名の意味を引き受けはじめていた。澪は水の道。道は、通った痕跡の集合だ。つまり、あとから来る誰かのために、自分を細く差し出す仕事だ。


 案内人のフラウト・クレドレスは、街の呼吸に合わせて歩く。彼は楽器を持たないのに、息だけで合図を作れる。澪は彼の横で、【澪標】の稽古をする。触れずに道を立てる。足跡のない通り道を、胸の奥の旗で指し示す。旗は風を必要とするから、フラウトの息が、彼女の旗の周囲で目に見えない渦となる。


 澪(私は“道になる”って、どういう感情だろう。便利? 献身? それとも、諦めのうちにある優しさ?)

 問いのかたちは毎回少しちがい、けれど答えはいつも保留になった。保留は楽だ。楽なものは上手になる。上手になると、別の困難が呼ばれる。


 街の縁、空へ落ちる井戸の広場。水面の代わりに空が揺れ、雲が水草のふりをしている。

 フラウト「聞こえる? ここでは息が契約になる。音へ至る直前の空白が、ここの判子だ」

 澪「私の空白は、まだ綺麗かな」

 フラウト「綺麗すぎる。少しだけ汚して、生活の匂いを混ぜたほうが、道は信じてもらえる」

 その会話の端に、金属の匂いが差し込む。巻貝の冠をいただいた渦侯が、水光を跳ねさせて現れた。


 渦侯「景気を見るため、景色を味見に来た。恋は好景気、道づくりは公共事業。どちらも財政を太らせる」

 澪「税率の話なら、私たちはまだ」

 渦侯「“まだ”は利息を生む。未遂は贅沢で、贅沢は税になる」

 彼の声は潮位表の読み上げのように平板で、だからこそ残酷がよく通る。脂の匂いはしない。冷えた塩と小銭の匂いだけが、衣の縁から立ちのぼった。


 訓練は続く。澪は【潮読】で街の記憶を舐め、【潮耳】で流速の会話を拾う。雨の味は母音の数に似て、波の高さは嘘の個数に似る。

 澪(ここにいた誰かの笑いが、まだ水に溶けずに残っている。笑いの輪郭を舌でなぞると、指先が少し温かい)

 フラウトは彼女の手首に指を置く。温度のない指が、皮膚の下の血だけを目覚めさせる。

 フラウト「戻り潮に攫われそうな時は、僕を合図にして。救いは“持ち物”じゃなく“手つき”。手つきは、誰かと共有したほうが上手くなる」

 澪「上手くなると、もっと支払うように請求される」

 渦侯「理解が早い。理解の速さにも、課税対象がある」


 現実側の夜勤表は、別の速度で進む。雨辻直結からのメッセージは短い。

 雨辻〈井戸の水位、今夜は安定。君も安定だと良い〉

 澪は返事を打ちかけ、液晶の明かりを掌で覆う。

 澪(“安定だと良い”。この祈りはどの通貨で受け取ればいい?)

 こっちの言葉で、あっちに誠実になるのは難しい。単位が違う。日本円で潮の利息は払えない。


 その晩、街に官報が走った。葦の茎を漉いた紙の色をした光が、橋の裏に文字を映す。

 渦侯「告示。【潮の査閲(さえつ)】の施行。恋人らは十二口の息を供出し、関係の透明度を照合する」

 フラウト「“十二”は儀礼の数字。ここでは潮目の拍数でもある」

 澪「供出って、やだな。寄付じゃなくて?」

 渦侯「言葉を柔らかくすると、支払いの実感が薄れる。薄い実感からは、薄い意思しか採れない」


 査閲の会場は、葦札(あしふだ)が風で鳴る葦のホールだった。布を垂らした顔のない住民が列になり、指先で札に印を刻む。器は出ない。代わりに配られたのは、澄み切った貝片の(しるし)と、潮目の小石。

 フラウト「ここに息を沈める。音になる直前の高さで止めて。君の高さは、僕が縁で支える」

 澪「怖い」

 フラウト「怖さは良い材料だ。嘘を固めやすい」

 渦侯「嘘もまた納税物件だがね」


 澪は胸の浅いところで息をまとめ、貝片に触れずに沈めていく。触れないで触れる。それは彼女が得意になりつつある動詞だ。

 澪(助けて、では足りない。“助ける”を、私のほうで活用しないと)

 十一までの呼吸は、世界に何も起きなかった。十二口目、骨の内側で微弱な澪標が震え、見えない柱の萌芽が胸に灯る。

 フラウト「……来た。君の旗が、形を欲しがってる」

 渦侯「事務的なお知らせ。門は口づけのかたちで開く。閉じるときは、必ず何かを嚙み砕く。口は消化器だ。比喩ではない」


 査閲は、数字と風と光で進行する。合唱も祝辞もない。代わりに、葦札がぱらぱらと音を立て、貝片が微細な波紋を吐く。

 住民の誰かが、布の下で囁いた。

「本物は、よく燃える」

 澪の背中に、祖母の台所の気配が届く。温かいうちに食べなさい。時間指定のない命令は、祈りに似ている。祈りは受身の名詞。ここでは動詞に直す必要がある。


 休憩の合図。渦侯は巻貝の冠を指で弾き、潮の匂いの承認印を空中に押した。

 渦侯「手短に。帰る方法はある。だが門は、誰かの心臓でできていると都合が良い」

 澪「都合?」

 渦侯「世界のテンポを測り直す鼓動が必要でね。最強のメトロノームは心臓だ。誰のでもいいが、誰かのがいい」

 フラウト「僕の心臓は空気でできている」

 渦侯「ならば軽い。軽いものは、扱いやすい」

 軽い、という言葉が澪の耳に棘を残す。扱いやすい救いは、美しくて危ない。


 澪「私が——門になる」

 フラウト「だめだ」

 澪「門は開いても閉じても誰かの罪。なら、私の名前で背負う」

 フラウト「君が門なら、僕は鍵だ。鍵は開けも閉めも請け負う。君の息を護るのが、僕の動詞」

 渦侯「名義変更、受理。書式は簡単、代償は高価。だが恋人はだいたい、高価なほうを選ぶ」


 ふたりは向かい合い、触れないで触れる口づけの稽古をした。息と息が交換され、音が生まれる寸前で止まる。寸前は永遠に似ている。似ているものほど、税率は高い。

 澪(鍵という比喩はずるい。私は門になるつもりで、彼を“閉める人”にしてしまう)

 フラウト「ずるさは、道具にしてしまえばいい。道具は倫理の外で働ける」

 澪「あなたの言葉、よく磨かれてる」

フラウト「君の決心のほうが、よく濡れてる」


 査閲の終わり、葦札に残った風紋が静まり、会場の気圧がほんのすこし重たくなった。

 渦侯「本日のまとめ。恋人票は適正、供出息は所定数。残る支払いは——翌朝に一括」

 “翌朝”という語だけが、遠くの雷のように重い。

 澪(翌朝は、いちばん冷たい神様だ)

 フラウト「君の旗は芽を出した。明日、立てる。僕は鍵の形を最終調整する。君の息を護るために」

 渦侯「よく働け。働きは税源だ」


 ホールを出ると、風が塩の粉を運んで頬に貼りつけた。指で払うたび、皮膚が少しだけ軽くなる。軽さは罪だが、扱いやすい。扱いやすさはしばしば、救いの手口に使われる。

 澪は、空へ落ちる井戸を見上げた。

 澪(“ありがとう”を名詞で言うのは簡単だ。明日、私は動詞でありがとうを言う)


 渦侯は巻貝の冠を傾け、監査官の仕草で小さな礼をした。

 渦侯「解散。恋人らはよく眠れ。眠りは利息を増やす」

 眠りは、怖い夢のための温室だ。けれど澪は目を閉じた。

 翌朝が、もっとも恐ろしい種類の神であることを——彼女は、もう知っている。

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