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前編 井戸は口づけのかたちで開く

挿絵(By みてみん)

 井戸は、はじめから口づけのかたちをしていた。縁が柔らかく丸く、覗きこむ顔だけを正しく美人に補正する、罪深い丸。町の水道課の臨時夜勤で、その口もとに毎晩体温計を落とすのが、簫祷(しょうとう)(みお)の仕事だ。

 澪の長所は沈黙だった。沈黙は優しさと誤解されやすく、実際は判断の保留にすぎない。保留は楽だ。楽なものは上手になる。


 この井戸は旧市街の裏庭にある。国の基準では『廃止対象』だが、住民の記憶では『願掛けの装置』。水面には時折、雨でもないのに水輪が立つ。原因不明。報告不要。あるいは、報告したくない種類の現象。

 澪は毎回、体温計のガラスを指で拭く。拭うたび、鉄の匂いと消毒の匂いが混ざる。鼻の粘膜がひりつき、舌の奥が勝手に唾を作る。この舌は、よく覚えている。祖母の台所の蒸気、臓物の湯気、「温かいうちに」という命令の温度。命令には期限が欠けている。だから祈りに似る。


 仕事仲間の雨辻(あまつじ)直結(なおむす)は、配管図の上に缶コーヒーを置いて言う。

 雨辻「夜の井戸に覗きこむやつは、だいたい恋をしてる」

 澪「誰に」

 雨辻「底に」

 冗談に見せかけて、半分本気。水はいつも、なにかを連れてくる。良い水は栄養を、悪い水は秘密を。秘密は腹を壊さないから、つい飲みすぎる。


 その夜、井戸は思い切りのいい恋人みたいに、澪の名を呼んだ。声ではない。息だ。吹かれた息が、名前の輪郭だけを冷やす。

 ???「澪」

 最初の音で鳥肌が立ち、二音目で膝が笑う。三音目で、井戸は水面を唇の角度にした。━━"ちゃぷ"。小さく、簡潔に。

 現れたのは、笛を持たない笛吹きだった。黒い外套は濡れていない。髪は潮騒の色をしていて、瞳は乾いた貝殻みたいに曇っている。喉元に、音のない拍動だけが見える。

 男「僕はフラウト・クレドレス。海の系譜の、案内人」

 澪「海の系譜の案内?」

 フラウト「正確には、【潮読(ちょうどく)】と【潮耳(しおみみ)】。水が何を忘れたいかを読む。水がどこへ向かいたいかを聞く」

 彼の息は、笛の音の直前の空白に似ていた。音が生まれる寸前の、密度の高い空気。澪の耳は、そこだけを好んで拾う。拾うだけで、まだ使えない。使えないものは、よく蓄積する。


 井戸の縁に、人のかたちをした渦が座る。水光をたたえた瞳、巻貝の冠、衣の縁が常に潮目を描く。脂の匂いはしない。代わりに、冷えた塩と硬貨の金属臭がする。名は渦侯(うずこう)

 渦侯「今夜も査収に来た。ため息と祈り、そして最後に未遂の口づけを。水都の歳入は、恋の未遂で賄われている」

 雨辻の缶が倒れ、地図が濡れる。

 雨辻「……見えるのか?」

 澪「見えるのは、私だけ」

 雨辻は肩をすくめ、いつものことだと言わんばかりに工具箱を閉めて去った。現実は、見えないものに対して忙しさを盾にする。忙しいふりは万能の加護。澪はその加護に甘えず、井戸の口づけを覗きこむ。


 フラウト「ここは表口だ。裏口は、あちら側——廻潮界(かいちょうかい)

 澪「行けるの?」

フラウト「行けるが、帰りは音程が難しい」

 その言い草が滑らかで、水鏡で研いだ刃のように美しいので、澪は危うく頷きそうになった。頷くのは楽だ。楽なものは、上手になる。

 フラウトは井戸の縁から手を伸ばした。指先は温度を持たないのに、皮膚の下の血が温まる錯覚を作る。

 フラウト「救いは“持ち物”じゃなく“手つき”だ。だから、選んで」

 澪「選ばない、は?」

 渦侯「最も美味なメニューだ。熟成が効く」

 澪は目を閉じ、祖母の台所を思い出す。温かいうちに食べなさい。温かいうちに、の“うち”はいつまでのことか。時間指定のない命令は、ほとんど呪い。祈りと同じ。


 風が変わる。乾いた塩の匂いに、古い鉄橋の匂いが混じる。井戸の水面がわずかに盛り上がる。表面張力は、未遂の恋と同質だ。触れたら壊れる。触れないと、永遠に成立しない。

 澪は体温計を落とすはずの手で、彼の手を取った。

 井戸は口づけのかたちのまま、開いた。口づけは、飲み込みと同義でもある。水の喉が、澪を受け入れた。

 世界は裏返り、味覚が先に落ちた。鉄、塩、そして微かな甘み。腐りきる直前にだけ許される、礼儀正しい甘さ。

 澪は目を開けた。そこは、川のない橋と、橋のない川でできた街——葦と水楼の迷路、音のない波止場、空に吊られた水面。歩くと、足裏が水に触れないのに濡れた感触だけが残る。耳の内側が潮で満たされ、視界の輪郭がやわらかく滲む。


 フラウト「ようこそ。スピラ・デルマレへ。ここでは、道は水が決め、人は従うふりをしている」

 澪「住民票は、どうするの」

 フラウト「恋人届のほうが、通りがいい。役所は“関係”に弱い」

 渦侯は笑う。笑いは音にならず、水面に細い輪だけを置いていく。

 渦侯「恋は税だ。税は恋だ。支払いは口づけで——と、俗説は言う。実務的には“査閲”だ。名は潮の査閲。昔気質は“晩餐”なんて呼ぶが、あれは料理の比喩が過ぎる」

 彼は巻貝の冠を指で鳴らし、どこか遠くの水路に合図を送った。合図さえあれば、神はいらない。神がいれば、合図は増える。秤はどの宗派の硬貨でも釣り合う。それでも、払うのはいつも恋人だ。


 澪は、自分から口を開いた。

 澪「だったら——課税対象になる」

 渦侯「宣誓、確認。未遂の利息は高いが、払えるか」

 澪「払う。払わせて」

 フラウト「君の勇気は、危険と同じ文体で書かれている」

 唇は触れなかった。けれど、息が交換された。音になる直前の空気。笛のない笛が、やっと音を生んだ。━━"すう"。吸い込まれたのは水ではなく、互いの欠落だ。


 夜が湖底のように深くなる。遠くで、葦の塔が呼吸し、吊り橋がきしみ、凪いだ波が光を縫う。澪の鼻腔には、冷えた海藻と古紙の匂い、錆びた鍵の味。肌は風の湿りを拾い、耳殻で見えない潮騒がほどけていく。

 フラウトは、澪の手を離さなかった。離さないことが救いだと錯覚させる技法を、彼は誠実に知らない。だから、やさしい。やさしさは時に悪いニュースより遅く届き、しかし長く残る。

 渦侯は二人の歩調を測りながら、水路沿いの石段を先導した。石は温度を失っているのに、裸足の裏に“昔の昼”のぬくもりを置いていく。忘れられない熱は、忘れたい記憶に似ている。


 やがて三人は、空へ落ちる井戸の口に出た。ここでは、井戸が上にある。覗くと、夜空に丸い水面が張られている。星がそこへ沈み、また浮いていく。

 渦侯「査閲の前段階として、関係の登録が必要だ。恋人届を——いや、言い方を変えよう。息の契約を」

 澪「息?」

 フラウト「ここでは息は合図で、合図は契約だ。君が合図を持てば、門を開ける資格が生まれる」

 渦侯「門は口づけのかたちで開き、閉じる時はなにかを嚙み砕く。口は消化器だ。比喩が行き過ぎていると思うか? 現実はたいてい比喩の方を採用する」

 澪の喉が乾く。乾いた喉に、水の匂いが満ちる。不思議と、渇きは増す。

 澪「……どうすれば」

 フラウト「息を合わせる。演奏用語だが、こちらでは婚姻届より効力がある」

 渦侯「ついでに言えば、査閲では葦札が配られる。食器の真似事はしない。空の皿や杯は、儀礼にしては饒舌すぎるからな」

 彼は目配せし、澪の反応を確認する。言葉の選び方ひとつで、未来の手触りは変わる。器の語彙を避けること——それはこの世界の礼儀だと、澪はすぐ学習した。


 登録が済むと、街の気圧がわずかに変わった。鼓膜の裏で微かな痛みが花粉のように散り、足もとを流れる見えない水脈が澪へ寄ってくる。寄ってくるが、触れない。触れないことで、逆に親密が成立する。

 フラウト「君の名前には“澪”がある。水が通った跡を示す字だ。君自身が道になれる素質がある」

 渦侯「能力名を先に言っておこう。【澪標(みおつくし)】。触れずに、道を立てる。君がその旗だ」

 澪「旗は、風がないと立てられない」

 フラウト「だから、僕が風になる。いや——鍵になる、の方が正確か」

 鍵、という語が胸骨に引っかかる。鍵は扉を開けるが、閉める権利も持っている。

 澪「鍵がいなければ、門は」

 フラウト「開かない。あるいは、開きっぱなし」

 渦侯「どちらも税率が跳ね上がる。閉じる方がまだ安い。安いが、代わりに音が鳴る」

 澪「音?」

 フラウト「警笛。遠い未来の話だ。今は、息の高さだけ合わせよう」


 旧市街の夜勤表は、別の夜を進めていた。雨辻のLINEは既読が増え、未読が訊ねる。

 雨辻〈井戸の水位、今夜は安定。君も安定だと良い〉

 返事を打ちかけて、消す。こっちの言葉で、あっちに誠実になるのは難しい。言葉は単位が違う。日本円で潮の利息は払えない。

 フラウトは澪の画面を覗かない。覗かないことも、やさしさだ。

 渦侯は、視線だけで言った——「後悔は減税対象になったぞ」。

 澪「そんな政策、いつから」

 渦侯「今から」

 政策は、支配者の気分で発効する。気分は、潮に似ている。定刻はあるが、必ずしも守られない。


 その夜の終わりに、澪は決めた。決めるとは、名詞を動詞に変える手続きを自分の名前で引き受けることだ。

 澪「——課税対象になる。払う。払わせて」

 フラウト「君の“払う”が、僕の“護る”を起動させる」

 渦侯「よろしい。査閲の日取りは潮目が決める。俗に“晩餐”と呼ぶやつは、もう少し言葉を学び直した方がいい」

 彼は水際から引き、巻貝の冠を傾けた。礼の作法は滑らかで、残酷はよく包装されている。包装紙を剥がすのはいつだって翌朝だ。


 澪は井戸の縁に戻り、現実の背中をそっと手放した。あちらを“保留”したまま、こちらを“選択”する。両手に同時に載せることはできない。だから、片方は口に含んだ。

 朝の気配が水の底から立ち上がる。光は水の中でこそ正しく折れる。澪のひたいをかすめた一本が、合図に似ていた。合図さえあれば、神はいらない。神がいれば、合図は増える。秤はいつでも、釣り合おうとする。

 フラウトは、澪の手を離さなかった。離さない手が、鍵の稽古を始める。

 澪の胸の奥で、まだ名前のない柱が、小さく芽を出す。旗は風を待ち、門は鍵を待つ。やさしさには税がかかる。税はたいてい、愛の通貨で支払われる。


 そのやさしさに税金がかかることだけ——まだ、誰も言わない。

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