59 大英雄ロクス・ハーリン
少し新しい話でも書こうかと思い、ここでひとまず区切りといたします。
暇つぶしにでもなっていたなら幸いです。
その後のロスクの変わり身は、まさに見事というべき素早さだった。
ひどく叱責されると覚悟して、俯きながら戻ってきた指揮官兵たち。だが、彼らを迎えたのは、意外にもロスクの満面の笑顔だった。
「お前たちは、私の期待以上によくやってくれた。今回は──ただ、アルヴァン王子の兵が強かっただけだ。私もお前たちも、何一つ気にすることはない!」
声には一片の怒りもなく、むしろ誇らしげな響きがあった。
「お前たちには言っていなかったが……俺は最初から、王子に花を持たせるつもりでいたのだ!」
冗談とも本気ともつかぬ言葉に、兵たちは思わず顔を見合わせた。
「それを言えば、お前たちが本気にならないだろう?」
──その表情に、後悔も敗北の影も見られなかった。ロスクはもう、次の手を考えていたのである。
兵士たちは、意外な言葉に目を丸くした。
「そっか……俺たちは弱かったんじゃない。アルヴァン王子が、強すぎただけなんだ」
そう思い直すと、気が晴れたように笑い出し、
「酒が飲めて、飯がうまけりゃ、それ以上のことはねぇ!」と、互いの肩を叩き合っていた。
軍事演習のあと、最上級貴族に仕える軍事責任者たちは、すべてロスクの邸へと招かれた。
豪奢な宴が用意され、贅を尽くした料理と酒が並ぶ中、ロスクは満面の笑みで語り始める。
「アルヴァン王子の采配は、まさに神がかっていました。私の戦術など、まるで通用しませんでしたよ」
「アルヴァン王子がこの国にいる限り、国の未来は盤石です。わたしロスクの目に、狂いはありません」
顔なじみの軍事責任者たちには──
「私が褒めるから、お前たちも褒めろ」と、こっそり協力を求めていた。
やがて場の空気は一つとなり、軍事責任者たちは一斉に、アルヴァン王子を称賛した。
「あのような軍の形は初めて見ました」
「大英雄ロスク将軍に勝つとは……まるで神の如き采配」
「我々には到底真似できません」
「アルヴァン王子は、この国の至宝です」
だが、芯のある声で語られたアルヴァン王子の返答は、意外なものであった。
「私が──大英雄ロスク将軍に勝てたのは、ただの偶然です」
「正攻法では到底及ばぬと悟り、奇策を用いたまでのこと。勝ちとは言えぬ勝利にございます」
「むしろ……ロスク将軍は、わざと負けてくださったのでしょう。私など、相手にもなりません」
それを受けて、ロスクは大きな笑顔を浮かべ、わざとらしく周囲に聞こえるような声で言い放つ。
「アルヴァン王子は、まことに謙虚なお方だ。ふふ……私が手を抜いていたことまで、見抜かれていたとは!」
「アルヴァン王子の素晴らしさは、僭越ながら──大英雄の私を、遥かに超えておられます」
「まあまあ、堅い話はこれくらいにして……まずは、杯を重ねましょうぞ!」
その言葉に、場はどっと湧き立った。
笑いと歓声が交錯し、宴は次第に、和やかな熱気とともに最高潮へと達していった。
アルヴァン王子は、ロスクの采配を惜しみなく称え、
ロスクもまた、王子の才を称賛してやまなかった。
軍事関係者たちは、まるで煙に巻かれたような心地だったが──
うまい酒と料理に、いつの間にか機嫌を直していた。
やがて宴もたけなわとなったころ、
アルヴァン王子は、ゆったりと立ち上がると、威厳ある声で告げた。
「ロスク将軍が手を抜いてくださったおかげで、私が勝てたのです」
「今回の模擬戦は、ロスク将軍の大勝利だったと──皆様の貴族へ、そうお伝えください」
「ロスク様が私ごときに敗れたなどという噂が立てば、この国の均衡は崩れかねません」
「大英雄ロスク・ハーリン将軍は健在であると、皆様から確実に伝えていただきたい」
そう言って王子は、列席者一人ひとりの目を、ゆっくりと確かめるように見渡していた。
筋肉質でがっしりとした美少年──ティーナは、シグルドの隣で王子の護衛として立っていた。
ティーナは、王子の凛々しい立ち姿を目にするたびに、顔が赤くならないよう必死に胸の高鳴りを押しとどめ、思わず視線を伏せてしまっていた。
──そして、
アルヴァン様のお役に立てたことが、心の底から嬉しかった。
料理を運ぶ侍女たちは、黒髪でソロウルフ系の風貌をもつシグルドに、どこか興味を惹かれたようで、ちらちらと視線を向けては、ひそひそと囁き合っていた。
その隣に、すこし頬を染めながら立っている美少年にも目をやり──
「ひょっとして、ふたり……そういう関係?」「あれって、もしかして、そっち系?」と、憶測まじりの声が漏れ聞こえてくる。
もちろん、すべてシグルドの耳には届いていたが──彼は無言のまま受け流した。
ただひとこと、心のなかでつぶやく。
(……ベアトリス、凄いな)
──ほんの少し前、アルヴァン王子とロスクは密談の席についていた。
「クラウス殿も来られますか?」
そう王子が尋ねたとき、クラウスは笑って首を振っていた。
「俺が行くと、あいつは緊張してまともに喋れなくなるかもしれんからな。それに──あいつには“ロスク”と呼び捨てにしたほうがよいぞ」
場面は、ロスクの執務室へと移る。
重厚な装飾が施された椅子に腰かけたアルヴァン王子は、真っすぐに立つロスクを、鋭い眼差しで見据えていた。
やがて、ロスクが口を開いた。
「アルヴァン殿下、私が間違っておりました。今後は、全面的に協力させていただきます」
王子は、威圧するような口調で返す。
「ロスク。何が間違っていたのだ」
“将軍”と呼ばれなかったことに、一瞬、ロスクは驚いた。
だが、すぐに悟った。王子は、自分を味方として迎え入れようとしている──それが、わかった。
「……貴族軍制を強化しようとしたのが、私の過ちでした。深く反省しております」
「わたくしが、アルヴァン殿下の悲願である王国軍制を、必ず成し遂げてみせます」
「私のことを──信用し、お任せください」
だが、王子はなおも視線を崩さず、問いを重ねる。
「ロスク。言葉だけで、信用せよと言うのか」
ロスクは、神妙な面持ちのまま、淡々と語った。
「ティーナ様の領地が封じられる時が来れば、私の領地を差し出しましょう」
「お許しいただけるのであれば、わたくしが──ティーナ様の後ろ盾となります」
「この身と力をもって、すべての上級貴族を、アルヴァン王子殿下に従わせましょう」
王子は、言葉の刃を最後に突きつけた。
「ロスク。お前の考えはよく分かった。──よし、だが……私に背く時は、首が飛ぶと思え」
その一言に、ロスクは怯えたように、だが迷いなく深く頷いた。
「お任せください。必ず──すべてを成し遂げてみせます」
「アルヴァン王子様が、より輝けるよう……影の仕事は、すべて私が担いましょう」
言葉を交わしたふたりの間には、奇妙な静けさが流れた。
だが、その表情には、互いに満足げな笑みが浮かんでいた。
アルヴァン王子は、胸の内で静かに思った。
──これが、クラウス殿の言っていた“あの才”か。
この男の才……確かに、使える。
そして、ロスクはその言葉の重みを、そのまま行動に移した。
かつての味方であった反対勢力を抑え、揺れる中間派までも取り込んでしまう。
アルヴァン王子の悲願──王国軍制の確立に向けて、その基盤を、彼は一気に整えてしまったのであった。
ロスクは、この王国全体に、巧妙な情報網を張り巡らせていた。
──ティーナの後ろ盾となることで、自らの影響力を確かなものとする。
ひょっとすれば、彼女がクラウスの娘であることすら、すでに把握していたのかもしれない。
彼は、寛容な心と、鬼のごとき冷酷さを巧みに使い分け、相手の心に踏み込む。
その上で、相手が何を欲しているのかを見極める才に、恐ろしく長けていた。
金品でなびかぬ相手には、脅迫や弱みを握るといった強硬策も、ためらわない。
一方で、使うと決めた相手には、惜しみなく金を使い、敵を作らぬ配慮も忘れなかった。
──日本に例えるなら、戦は下手でも、出世と才覚に長けた豊臣秀吉といったところか。
目的のためには手段を選ばないという点では、クラウスと同類。
行動の形はまるで逆でも、どこかで通じるものがあるのかもしれない。
ある日、アルヴァン王子はクラウスに問いかけた。
「ロスクは、信頼できますか?」
クラウスは肩をすくめ、軽く笑ってみせた。
「もう年だ。反対に回ることはないだろう。大英雄とおだてられ、つい国王になれるかもと思っただけのことさ」
「王子がしっかりしていれば、やつは忠実な下僕になる。その才は、王子の苦手な分野だから……ちょうど補い合える」
そして、静かに付け加えた。
「……もし、本当にあいつが“変わって”いたら、いまごろ手強い敵になっていただろうな。でも、変わっていなかった。それが幸いだった」




